仙女の花嫁修行
【番外編】紅の花

 ――しくじった。


 痛みを堪えて自分の後ろ足に突き刺さる矢を、口でくわえて一気に引き抜いた。どくどくと流れ落ちる血を舌で舐めとってひたすらに痛みに耐える。


 ほんの半時前の出来事。
 住処としていた森が狐狩りの場として使用され、後ろ足の付け根に矢を食らってしまった。追いかけてくる猟犬と馬に跨る人間に、不思議な力を使って何とかここまで逃げてきた。

 何年か前からあたしは、植物を意のままに操ったり、土を盛り上がらせたりと、他の狐が使うことの出来ない特別な術を使うことが出来るようになっていた。
 それにここ十数年、歳をとっていないように感じる。狐の寿命なんて六、七年も生きればいい方で、大抵十を数える前に死んでいく。二十年以上生きているあたしは、周りから見れば化け物だ。


 本当にあたしは化け物かもしれない。

 こうやって死に目にあった事は今回だけじゃない。
 猟師のかけた罠にかかって前脚を怪我した時も、他の狐ならば死んでしまうような怪我だったのにも関わらず数日で治ってしまった。

 死ににくい体質になったのならまあ良いか。

 使っていた巣穴に戻る訳にも行かす、適当に見つけた洞穴に体を横たえた。

 体力の消耗を抑えるため、そして痛みから逃れるために眠っていると、ガサガサっと足音が聞こえてきた。それもかなり距離が近い。

 しまった、誰か来ていた!

 酷い痛みのせいで感覚が鈍っていたあたしは完全に逃げ遅れた。
 身体を起こして足音の方を見ると、後ろに籠を背負った少年が一人、驚いた顔をして突っ立っていた。

「君、怪我してるの?」

 歳は十と少しと言ったところか。まだ声変わりをしていない幼さの残る少し高めの声。
 
 何かしらの術で目くらましをして逃げよう。

 思考を巡らせている間に少年は、タッとこちらに駆け寄ってくる。
 近寄るなと耳を伏せ歯を剥き出しにして威嚇したけれど、少年は「まあまあ」と宥めるように声掛けしながら更に近寄ってきた。

「殺したりしないよ。傷を見せてみて」

 こいつ狐に言葉が通じると思っているのか。
 まあ、あたしには通じるんだけど。

 いつからか人間の言葉もきっちり理解出来ようになっていた。そして人が嘘をよくつく生き物だってことも。

 少年の言葉の裏に何かあるのではないかと勘ぐりながらもじっとしていると、通じたと思ったのか持っていたひょうたんの栓を外して、中の液体を傷口にかけはじめた。

「――――っ!」

「ちょっと我慢して。傷口を綺麗に洗わないと膿んじゃうかもしれない」

 更に首にかけていた手ぬぐいを外して、傷口の上にぎゅっと結んだ。

「これでよし、と。今僕に出来ることはこれくらいかな」

 殺して毛皮を剥いで売ればいいのに、なんで助けたりなんてするんだろう。そもそも子供が山の中にわけ行って何をしていたのか。
 少年の背負っていた籠の中には茸が入っている。
 茸狩りか。

 じいっと籠の方を見るあたしに、少年が茸の一つを取り出して口の前に置いた。

「もしかして君、茸食べるの?」

 匂いを嗅いで毒茸では無いことを確かめてから口に入れた。

「へぇ、狐って茸も食べるんだ。じゃあこれは?」

 今度は巾着からどんぐりを取り出して、先程と同じように口の前に置いた。カリカリと音を立てて食べ始めると嬉しそうに笑っている。

「僕ね、晗ハンって言うんだ。この山の麓に住んでんの。冬になる前にたっぷり蓄えておかないとね」

「……はん」

「え? …………あははっ!今一瞬、君が喋ったのかと思ったよ」

「おーーいっ! 晗ーー!!」

「あ、おとうだ。僕もう行かなきゃ。じゃあね」

 巾着に残っていたどんぐりも口の前に出した晗は、籠をひっつかんで走り去っていった。





 ハラハラと黄色や橙色の葉が舞い落ち地面に降り積もる。傷はすっかり癒えて、歩くのに何の支障も無くなった。
 ただの狐に比べて食べるものは少なくてもやり過ごせるものの、やはり冬には備えておいた方がいい。
 食べ物を探してウロウロと森の中をさまよっていると、赤ん坊の泣く声が聞こえてきた。

 ――怪か。

 人間を誘き寄せる為に、赤ん坊の泣き声に似せて鳴く。この鳴き声は大方、馬腹ばふくってところかな。近くを流れる川を住処にしている、上半身が虎で下半身が魚のような怪だ。


「うわあああぁぁぁっ!!」


 劈くような人間の叫び声に思わず毛が逆立った。
 きっと、さっきの鳴き声に引っかった人間が襲われている。

 何となく妙な胸騒ぎがして川の方へと脚を向けた。
 狐にすら慈悲をかけるあの少年――晗ならもしかしたら、あの鳴き声に引っかかるかもしれない、と。

 嫌な予感と言うのは大体当たる。

 予想通り、 晗が馬腹に襲われ川へと引きずり込まれようとしていた。

 なんで助けようと思ったかなんて分からない。   
 恩返しなんて馬鹿らしい。たとえあの時晗に手当をしてもらい食料を貰わなくても、きっとあたしは生き抜けた。

 ただ晗が襲われているのを見て反射的に術を繰り出した。

 河辺の石を飛ばしてぶつけると、こちらの存在に気が付いた馬腹は咥えていた晗を脇に放り投げて向かってくる。
 風を巻き起こし落ち葉で目を眩ませている間に馬腹の喉元に噛み付き、追加で石を当て付ける。のたうち回る度に尾びれがあたしの身体に鞭で打つように当たったが、こと切れるまで執拗に噛み続けた。

 ピクリとも動かなくなったことを確認して晗の元へと駆け寄り様子を伺う。左足は既に喰われて無くなっていた。他にも身体中が血だらけでどこをどう怪我しているのかすら分からない。
 辛うじて脈を打ち、呼吸しているだけの状態。

 もう助からない。

「晗……」

 呼び掛けにも応じないその身体からは、あたしの体の中を巡る力と同じ物があるのが分かる。そしてその力は今、馬腹と戦った事で随分と消費してしまった。

 ごくり、と唾を飲み込む。

 本能的に分かった。
 この人を食べれば大きな力を得られる、と。

 ちぎれた脚から流れ出る新鮮な血に、恐る恐る口を近づけてペロっと舐めとると、これまで感じたことのないほどの力が自分の中に取り込まれる。それはまるで長い飢えが満たされるような心地がした。

 もう一口、もう一口……。

 気が付けばあたしは、晗の身体を夢中で貪っていた。
 いつの間にか身体を木の根で拘束されていることにも気が付かないほどに。

「キャンッ!!」

 ギチギチと音を立てて根が身体を縛り付ける。この気配はあたしが力を使う時に似ている。
 苦しさで舌を出して喘いでいると、誰かが近くまでやって来た。

「この少年はお主が殺したのか?」

 声の主を横目で見ると、スラリとした体型の切れ長の目が印象的な青年が立っていた。

「……いや、殺したのはこっちの馬腹か」

 馬腹に向けられていた視線があたしの顔に向けられた。
 何かに気が付いたように一瞬だけ目を見開いて、また元の険しい顔に戻った。

「お主、泣いておるのか」


 泣く?

 ああ、この目から出る水のことか。

 目にゴミが入った時にたまに出るけど、こんなにボタボタと流れ落ちてきたことは初めてだった。

「何で泣いている。喋られるか」

 拘束が少しだけ緩んで呼吸を調えた。

「不味い……から」

「不味い?」

「血生臭くて、苦くて、喉を上手く通らない。でも、あたしの身体が晗を食べろって言うんだ。だから食べてみたけれど……」

 更に追加で目から涙が出てきた。
 血で濡れた毛皮に涙が染みる。

「野鼠や兎を食べた時だってこんな味はしない。不味くて仕方ないのに、でも食べると力が入ってくるのが分かる。食べたいけど、食べたくない。どうしたらいいのか分からない」

「晗と言うのはこの少年の名か」

 鼻先を下に下げて頷いてみせると、青年は完全に拘束を解いて木の根を地面に戻した。

「人を食べなくてもその力……精気と言うんだが、得られる方法があると言ったらお主、どうする」

「……教えて欲しい」

「それには我慢に我慢を重ね、耐え難い程の飢えと渇きに耐えねばならぬ。それでもか」

「晗を食べなくて済むなら」

 じっと見てくる青年の瞳は、あたしの言葉が本当かどうか、本気かどうかを探っている。ひとしきり見つめ合い、そして青年は頷いた。

「教えてやる。まずはこの子を弔ってやってからだ」

 惨たらしい姿になった晗を家族の元へ返すのは可哀想だからと、遺体は地面に埋めて血濡れてボロボロになった服だけを返しに行った。
 家の影から見守っていると、晗の家族に颯懔と名乗った青年は仙人だと言っているのが聞こえてきた。

 仙人……。

 あたしと同じように、歳を取らない不思議な力を使う人間のことか。

 川の水で汚れた体を洗い、颯懔が起こしてくれた焚き火に当たって毛皮を乾かす。いとも簡単に火をつけるとは、自分よりも遥かに術が上手い。

「そう言えばお主、名はなんと言う」

「……名前? さあ。狐に名前なんてない。あたしはあたし」

「『あたし』さんじゃ呼びにくい。ふぅむ、何にするか……」

 時折パチパチと爆ぜる火をみながら考え込んでいた颯懔が、ようやく口を開いた。

「紅花ホンファ……紅花でどうだ?」

「紅の花?」

「お主のその毛の色、ただの黄色と言うよりは赤みがかっておるだろう? だから紅花」

「……紅花。あたしの、名前」

「そう、紅花」

 何だか呼ばれるとくすぐったいし照れくさくて笑うと颯懔もまた笑い、そして真剣な顔をした。

「良いか、紅花。修行を積み善行を積めば仙籍に入れるようになるやもしれん」

 仙籍。今のあたしは妖と言われる存在だけれど、仙籍に入れば仙人と名乗れるようになると言っていた。

「もしそうなったとしても、今日お主がした悪行が無くなった事にはならない。罪が雪がれたなどとは思うな。晗を食べた時の気持ちを忘れるな。もし忘れていた時は……」

「分かってる。殺すんでしょう?」

「……そうだ」

「忘れない。絶対に」


 晗のあの笑い声も、
 匂いも、
 血の味も。
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