輝く樹木
第1章 第28話
テーブルを挟んでテレビの反対側のソファーに輝夫は座っていた。テーブルにはスケッチブックが置かれていた。スケッチブックは白紙のページが開かれていた。テレビの画面には山口伸弥京都大教授のノーベル医学生理学賞受賞の模様が放映されていた。
「ips細胞というのはとても凄いことらしいけど、私にはとても苦手な分野だから、新聞の解説文を読むのもちょっと引いてしまうわ」
「僕もこの解説文を読んでどこまで理解できたか怪しいものだけど、まあとても凄い画期的なことであることは分かったような気がするよ」
「あなたが理解している程度でいいから説明を聞きたいわ」
「植物の再生力には動物の再生力に比べて遥かに優れた力があるよね。たとえば木の枝や葉は切り取っても再生するよね。以前間違って柚子の木をほとんど切り取ってしまった友人の話しを聞いたことがあるけれど、以前より勢いのある枝が伸びてたくさんの実がなるようになったという話しを聞いたことがあるよ。人間はせいぜい髪の毛か爪か皮膚の表面くらいでしょう。でも植物の再生力は動物に比べたら完璧に近い面がある。人間には植物のような再生力がないから、器官など体の一部を失った時移植しかないんだ。植物のように一部を培養するということはできない。それでES細胞、それは胚性幹細胞の略だけど、その研究が進められてきているんだ。それはどの器官にも変わることが出来る能力は卵子だけにあるので、卵子を使うことが前提となる技術なんだ。でもこれは卵子を使うので当然倫理上の問題がでてくる。そこで出てきたのが人工多能性幹細胞、略してiPS細胞という技術が注目されたんだ。これは皮膚などの一部の細胞を用いて出来る再生技術なんだ。卵子ではなく他の細胞を使うから倫理上の問題はないし、自分の体の一部を使うので拒絶反応の心配もない。それで注目されているんだ」
「その技術の実験に成功したということなのね」
「実用化の段階はまだ先になるのだろうけど、この実用化が実現できれば、臓器移植しか方法がなかった治療に道が開かれるかも知れないね。でもこの技術は皮膚に遺伝子を組み入れて出来た技術のようだから癌を誘発する危険性が可成り大きくあるみたいなんだ」
「なるほどね。新しい技術には新しい危険が出てくるのね。何から何まで上手くいく技術なんてそんなにあるもんじゃないのね。わたしは今の医療技術が単に命の長さだけに注目し過ぎているような気がするの。人生って長さだけじゃないでしょ。短くても充実した人生があっても良い訳でしょう」
「そうかもしれないよな。臓器移植で寿命を長くしていることが現実の医療としてあるのだけれど、臓器移植は高額な医療費がかかるし、ドナーとめぐりあうのも大変だし、運良く臓器移植ができたとしてもその後の生活は手放しで喜べるものではないらしいよ。臓器移植をしたあとは拒絶反応を抑えるために、免疫抑制薬を一生飲み続けなければならないみたいだよ。免疫抑制薬を飲んでいるということは免疫力が可成り低下している状態でいるということでしょう。ウイルス感染も怖いし、ちょっとした怪我も怖いし、針の筵の生活を僕は想像してしまうんだけど」
輝夫はテレビから流れてくるノーベル賞授賞式の模様を最後まで見ていた。授賞式の模様の放送が終わった後、輝夫はスケッチブックの開かれた白紙のページをしばらく見つめていた。輝夫の脳裏にはテレビで放映されていたノーベル賞授賞式の模様が鮮やかに再現されていた。脳裏に映っていた映像が消えた瞬間、スケッチブックの白いページにその映像が映し出された。色鉛筆のケースを開けて次から次へと様々な色の鉛筆を取り出してはもとの場所に戻した。右手がスケッチブックの上で動いている間に、白いページに映されていた映像は少しずつ姿を消していった。やがてスケッチブックの白いページには、テレビで放映されていた授賞式の模様のある一面が鮮やかに再現されていた。色鉛筆で描かれたその絵には14年間の経験でしか加えることのできない独特のものがあった。絵を描き終わって色鉛筆をケースに戻して、ケースの蓋を閉じた。今描き終えた絵のある一点が黄緑色に光りだした。その光は少しずつ輝きを増していった。部屋中が黄緑色に染まっていった。真樹夫も萌子もそのことに全く気がついてない様子であった。輝夫は瞼に心地よい重さを感じた。体中が心地よい暖かさに包まれていった。体全体を心地よい闇が覆っていった。体が少しずつ浮かんでいくのを感じた。時々闇の中を黄緑色の線が横切っていった。
「ips細胞というのはとても凄いことらしいけど、私にはとても苦手な分野だから、新聞の解説文を読むのもちょっと引いてしまうわ」
「僕もこの解説文を読んでどこまで理解できたか怪しいものだけど、まあとても凄い画期的なことであることは分かったような気がするよ」
「あなたが理解している程度でいいから説明を聞きたいわ」
「植物の再生力には動物の再生力に比べて遥かに優れた力があるよね。たとえば木の枝や葉は切り取っても再生するよね。以前間違って柚子の木をほとんど切り取ってしまった友人の話しを聞いたことがあるけれど、以前より勢いのある枝が伸びてたくさんの実がなるようになったという話しを聞いたことがあるよ。人間はせいぜい髪の毛か爪か皮膚の表面くらいでしょう。でも植物の再生力は動物に比べたら完璧に近い面がある。人間には植物のような再生力がないから、器官など体の一部を失った時移植しかないんだ。植物のように一部を培養するということはできない。それでES細胞、それは胚性幹細胞の略だけど、その研究が進められてきているんだ。それはどの器官にも変わることが出来る能力は卵子だけにあるので、卵子を使うことが前提となる技術なんだ。でもこれは卵子を使うので当然倫理上の問題がでてくる。そこで出てきたのが人工多能性幹細胞、略してiPS細胞という技術が注目されたんだ。これは皮膚などの一部の細胞を用いて出来る再生技術なんだ。卵子ではなく他の細胞を使うから倫理上の問題はないし、自分の体の一部を使うので拒絶反応の心配もない。それで注目されているんだ」
「その技術の実験に成功したということなのね」
「実用化の段階はまだ先になるのだろうけど、この実用化が実現できれば、臓器移植しか方法がなかった治療に道が開かれるかも知れないね。でもこの技術は皮膚に遺伝子を組み入れて出来た技術のようだから癌を誘発する危険性が可成り大きくあるみたいなんだ」
「なるほどね。新しい技術には新しい危険が出てくるのね。何から何まで上手くいく技術なんてそんなにあるもんじゃないのね。わたしは今の医療技術が単に命の長さだけに注目し過ぎているような気がするの。人生って長さだけじゃないでしょ。短くても充実した人生があっても良い訳でしょう」
「そうかもしれないよな。臓器移植で寿命を長くしていることが現実の医療としてあるのだけれど、臓器移植は高額な医療費がかかるし、ドナーとめぐりあうのも大変だし、運良く臓器移植ができたとしてもその後の生活は手放しで喜べるものではないらしいよ。臓器移植をしたあとは拒絶反応を抑えるために、免疫抑制薬を一生飲み続けなければならないみたいだよ。免疫抑制薬を飲んでいるということは免疫力が可成り低下している状態でいるということでしょう。ウイルス感染も怖いし、ちょっとした怪我も怖いし、針の筵の生活を僕は想像してしまうんだけど」
輝夫はテレビから流れてくるノーベル賞授賞式の模様を最後まで見ていた。授賞式の模様の放送が終わった後、輝夫はスケッチブックの開かれた白紙のページをしばらく見つめていた。輝夫の脳裏にはテレビで放映されていたノーベル賞授賞式の模様が鮮やかに再現されていた。脳裏に映っていた映像が消えた瞬間、スケッチブックの白いページにその映像が映し出された。色鉛筆のケースを開けて次から次へと様々な色の鉛筆を取り出してはもとの場所に戻した。右手がスケッチブックの上で動いている間に、白いページに映されていた映像は少しずつ姿を消していった。やがてスケッチブックの白いページには、テレビで放映されていた授賞式の模様のある一面が鮮やかに再現されていた。色鉛筆で描かれたその絵には14年間の経験でしか加えることのできない独特のものがあった。絵を描き終わって色鉛筆をケースに戻して、ケースの蓋を閉じた。今描き終えた絵のある一点が黄緑色に光りだした。その光は少しずつ輝きを増していった。部屋中が黄緑色に染まっていった。真樹夫も萌子もそのことに全く気がついてない様子であった。輝夫は瞼に心地よい重さを感じた。体中が心地よい暖かさに包まれていった。体全体を心地よい闇が覆っていった。体が少しずつ浮かんでいくのを感じた。時々闇の中を黄緑色の線が横切っていった。