輝く樹木

第1章 第4話

 食卓のテーブルでベビーチェアに座っている自分の体が、1歳児の大きさになっていることに気がつくのにさほど時間はかからなかった。14年間の人生経験を携えた輝夫には、何も違和感は感じられなかった。たとえ違和感を感じて今の状況を伝えようとしても、輝夫にはそれを言葉で表現するだけの言語力はまだ身についていなかった。

「そういえば育休がもうそろそろ終わりになるって言ってたよね。どうするか決めた?」
味噌汁のお椀をテーブルの上に戻してから、真樹夫が言った。
「あなた一人だけの働きになってしまって申し訳ないけど、早期退職しようと思って」
一口だけご飯を食べた後、茶碗をテーブルに戻して、萌子が言った。
「気にすることはないよ。専業主婦でも教員を続けてもどちらでもいいってことで僕たちは結婚したんだから」
「あなたは仕事の方は大丈夫なの?」
「僕はプログラマーでありエンジニアだから、たとえ今の会社をやめることになったとしても他の会社でいくらでも採用してもらえるよ。それに今勤めている会社ではうまくいってるから心配ないよ」
「プログラマーってすごいのね」
「ああプログラマーは今不足していてどこでも引っ張りだこだからね」
「同僚でアメリカに視察研修に言った人から聞いた話なんだけど、プログラミンの学習をかなり熱心にやっているみたいよ」
「確かに日本では学校教育ではあまりプログラミングには力を入れていないみたいだね。だからソフトウェア会社によっては独自に学校を作って、プログラマーを育てているらしいんだ」
 
 輝夫が今食べているものは、両親が食べているものとは違っている。両親の前には複数のさらに様々なものが盛られて置いてある。輝夫の前にはまったく別のものが一枚の皿に盛られている。しかしなぜか輝夫には違和感は感じられなかった。たとえ感じたとしても、それを言葉で表現することは今の輝夫には出来なかった。

「いじめで自殺・・・またあったんだね」
「そう、だから産休に入る前に、3月末までクラス担任をしていて、何もなければといつもヒヤヒヤしていたわ。もしクラスでいじめでもあったら自分の体がどうにかなってしまうんじゃないかって心配していたわ」
「学校の先生って大変なんだね」
「日本の先生は大変だと思うわ。学習指導だけじゃなく、いろんなことを日本の教師はしているの。普通これは親がやることでしょうということまで教師がしているの」
「たとえばどんなこと?」
「わたしの勤めているのは中学だけど髪の毛検査や服装検査をよくしているの」
「全く親に任せるということには出来ないの?自由にということには出来ないの?」
「ちょっと髪が茶色くなっても学校に苦情の電話がかかってくるくらいだから、自由ということになったら大変だわ」

 輝夫の向かい側にあるテレビ画面に、球体の物体が映し出されていた。上半分が薄い焦げ茶色である。下半分はさらに薄い焦げ茶色で、ほとんど白に近いくらいの色である。下半分の両側は濃い焦げ茶色になっている。下半分の真ん中の白に近い部分はハート型に見える。輝夫の左側には窓があった。夜で外は暗くなっていたが、カーテンはまだ閉められていなかった。窓には三日月が純白の光を浴びせていた。

「冥王星が惑星ではなくなるんですって?わたしは天文学にあまり詳しくないからこの理由のところ読んでもあまりよくわからないわ」
「僕も天文学のことはさっぱり分からないよ。でも英語でプルートと言うんだけれど、ギリシア神話から来ているんだね。プルートはゼウスの兄弟なんだね」
「ディズニーのキャラクターのプルートはここからきてるのかしら?」
「たぶんそうだと思うけど。それでアメリカでは冥王星に愛着があるのかな?」
「だからアメリカでは冥王星が惑星ではなくなることに、反発があったのかしら?」
「うん、それもひとつの大きな理由に思ってしまうよね。それから冥王星はアメリカ人が発見した唯一の惑星だったからね。それがなくなってしまうんだからね」
「冥王星はもう惑星でなくなってしまったでしょうけど、でも惑星であった時は9つの惑星のなかで一番遠いところにある惑星だったんでしょう。いったいどれくらい遠くにあるのかしら?」
「そう、それ、関心があって調べたけれど・・・auという天文学上の単位があるんだけれど・・・1auは地球と太陽の距離で約1億5000万キロメートルなんだ。それで言うと、太陽と冥王星との距離が一番近いときで約29・6au、一番遠いときで約49auみたい」
「なにかあまりにも桁の大きい距離なのでわたしにはそれほどピンとこないわ」
「光の速さはどれくらい?」
「確か1秒間に地球を7周半回る速さって聞いた覚えがあるけど」
「地球の赤道から北極までの長さの1万分の1が1キロだから地球一周の距離は約4万キロメートルになる。光は1秒で30万キロメートル進む。光の速さで地球から太陽まで約8分20秒かかる。つまり1auの距離は光速で8分20秒かかる距離ということになる。そうすると太陽からの冥王星までの距離は短いときで約4時間、長いときで約6・8時間かかるという感じかな」
「それ光速でしょう。そんな速い乗り物なんて考えられないよね」
「今一番スピードを出せる乗り物は宇宙ロケットだよね。ロケットが地球の引力を脱して宇宙に向かうには秒速11・2キロメートルの速度が必要だと言うから、今存在する最高速の乗り物の速さが約秒速11・2キロメートルだとするね。光速は秒速約30万キロメートルだよね。そうするとロケットだと光の約26、785・7倍かかる。そうすると短い距離で太陽から冥王星まで12年かかる。長い距離で20年かかる。そして太陽から地球までがロケットで約154日かかるとしてそれを引いた時間になるね」
「えー宇宙って果てしなく大きいのね。桁違いの距離だわ。でもあなたよく知っているのね」
「いや、専門外だから、今言った数字は、そんな正確なものじゃないよ。冥王星のことニュースで聞いて、興味が出てきたからインターネットで調べて自分で計算してみたんだ。僕がした計算だから間違っているかも知れないけど・・・でも、宇宙っていうのは、桁違いの世界だってことは分かると思うんだ」
「でも広大な宇宙のことを考えるって素敵ね。毎日の日常生活のなかでいろいろストレスを感じたり悩んだりするけど、宇宙の想像を絶するような広さのなかで、この地球の中の日本の私達が住んでいる街のさまざまなことが、ちっぽけなことに思えるわ。いま特に中学でいじめからくる自殺が問題になっているけど。いじめって生徒の人間関係から出ていることなのよね。クラスの中にグループがあって、どこかのグループに入っていないと学校生活を続けていけない。クラスの中で複雑な人間関係があるのね」
「宇宙についてもっと学んだり、考えたりする授業があったらいいんじゃないかね」
「ええ、わたしもそう思うわ。広大な宇宙のことを学んだり、調べたり、考えたりしていれば、いじめなんてことが馬鹿らしくなってくると思うの」
「教育現場でどう考えているの?」
「日本の教育は文科省の作る指導要領の内容を教えるところなの。かってに現場で内容を変えることはできないの」

 両親の話していることを理解するには、1歳の輝夫の言語能力では難しいというより不可能に近かった。しかし14歳の輝夫とどこかで繋がっていることは確かであり、確信できた。14年間の経験が凝縮されて1歳の輝夫の中に存在しているのだが、それがどこにどんな形で存在しているのか知るすべもなかった。しかしその凝縮された存在故に輝夫はあるイメージを獲得することが出来た。暗闇のなかにあっても太陽系の映像が現れては消えまた現れては消えるのであった。純白の眩しい太陽が時々オレンジ色の球体に変化する。純白の太陽の眩しい光の中で灰色の球体の水星が時々姿を現す。やがて黄金色の球体として金星が水星を覆うのである。背後から赤い球体として火星が現れてくる。その背後に巨大な灰色の球体として木星が現れる。その背後に灰色で中央が薄茶色の輪を帯びた球体として土星が現れる。その背後に薄緑の球体として天王星があらわれる。その背後に青い球体として海王星が現れる。その背後に灰色のカロンと薄茶色の冥王星が現れる。これら太陽系の惑星と準惑星の名前など1歳の輝夫が知る由もなかった。しかし太陽系の漠然とした映像が輝夫の脳裏に瞬間的に映されて、輝夫の内のどこかに存在している凝縮された14年間の経験に焼き付けられたのであった。突然輝夫の面前に今まで見たことのない球体が現れた。沖縄の美しい透き通った海の色で覆われた球体が輝夫の目の前で輝いていた。その輝きがあまりにも美しいので、輝夫はその球体に見入っていた。今まで見た惑星や準惑星とは全く異質のものであることがすぐに分かった。この星だけが純白の太陽の眩しい光をこの宇宙に存在するすべての色に変えて輝いていることが確信できた。虹色の輝き、オーロラの輝き、透き通るような海の輝き、晴れ渡った青空の輝き、太陽の純白の眩しい光を反射させた雪の輝き、飛行機の窓から見下ろした時の太陽の純白の光を反射させた雲の輝き、夜空にきらめく無数の星の輝き、三日月、半月、満月の月の輝き・・・この惑星にはあらゆる色の輝きがあることが確信できた。

「見てごらん。三日月がはっきりとよく見えるよ」
窓の方を指さしながら真樹夫が言った。
「満月や半月を見るのもいいけど、三日月もこうして見るとなかなかいいものだわね」
「三日月を見ると僕はいつも『ペーパー・ムーン』という映画を思い出すんだよ。三日月に父親と娘が座っているポスターをいつも思い出すんだ。父親役と娘役の俳優は本当の父娘で演じているんだよ」
「あの映画のポスターは印象深いポスターだから覚えているわ」
「あー、月といえば・・・冥王星は月より小さいんだね」
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