■Love and hate.
強いて理由を付けるなら――
“常識って誰から教わるの?”
あの言葉が忘れられない。
そもそも常識とは何なのか、明確に定義できるような人はこの世にいないんじゃないだろうか。
私が自分にとっての常識と他人にとっての常識のズレを初めて感じたのは、小学生の時だった。
私を最も苦しめたのは、金銭感覚のズレだ。
お嬢様学校と呼ばれるような学校に通っている今だからこそこの悩みは消えたものの、昔は家から近い一般的な小学校に通っていた私は、そこで「お金持ち」とよく言われた。
小さな小学校で、私が有名な会社の社長令嬢であることは誰もが知っていた。
テレビに出てくる富豪ほどリッチな生活をしていたわけでもないけれど、確かにその小学校に通っていた人々よりはお金持ちだった。
ある日、クラスメイトに「栞ってお金持ちだよね」とまた言われた。
「だって、毎日違う服着てるもん」と。
その時は意味がよく分からなかったけれど、今思えばその子は1日か2日置きに同じ服を着ていた。
それに比べて私は買った服は数回着る程度で、すぐに新しい服が手に入っていた。
親がデザイン会社の社長ということもあり、年齢にそぐわないお洒落な服もタンスの中には沢山あった。
私としてはただそこにあるから着ていただけ――なのに、それが変に目立ってしまったのか、高学年の女子に呼び出されることが多々あった。
「調子乗ってんじゃねぇよ」とか、「スカート短すぎない?」とか、きつい口調で言われたのを覚えている。
あの年代から、気の強い女子はいるものだ。
小学生だからとか子供だからとか関係なく、寧ろ子供だからこそ異質な存在に対する許容範囲が狭い。
それだけに限らず、頼めば何でも買ってくれる母がくれたストラップをジャラジャラといくつもランドセルに付けていたことでも私は呼び出された。
あんなくだらないことでと今なら言えるのに、あの頃の私はそれなりに傷付き、そんな自分を隠すのに精一杯だった。
常識は周りの環境によってころころ変わる。
その常識に合わせなければならない、という思いが心のどこかで出来上がっているのかもしれない。
私はそうやって生きてきた。
その常識を誰に教わったのか。
学校の先生、周囲の空気、テレビ、友達――…そして親。
常識には必ずどこかしらズレがある。
人それぞれどこか違う。
新聞やテレビに触れないことで流行に遅れるように、親がいるかいないかでそのズレが大きくなることも、きっとある。
私は一条さんに自分の常識を押し付けたことになるんだろうか。
「あ、そうだ。栞ちゃん、連絡先交換しない?」
いつの間にか一条さんへのメールを送り終わったらしい洋子さんは、今後の繋がりを求めてくる。
いいのだろうか、一条さんの婚約者と繋がりを持って――なんて心の中で躊躇った後、何で交友関係まで一条さんを中心に考えなければならないんだと尤もな疑問を感じて、すぐに連絡先を教えた。
そうこうしているうちに、からんからんと鈴の音が入り口の方から聞こえてきた。
「あぁ、来たのかも」
洋子さんがそう言って振り返った先には、中学生くらいの、洋子さん似の整った顔立ちをした男の子。
ただ年齢の問題か洋子さんほど大人っぽくはなく、まだ幼さが残る。
やっぱり綺麗な黒髪だ。洋子さんの家の人はみんな髪の毛が綺麗なんだろうか。
黙ってこちらに近付いてくるその男の子は、洋子さんの前に座っている私を見て訝しげな顔をした。
「…姉貴、誰?その女」
凛とした声がやはり少し洋子さんに似ている。
「ちょっと、あんた礼儀ってもん知らないの?」
「誰か分かんねぇから聞いて何が悪いんだよ」
「もっと控えめに聞きなさいよ…ったく、この子は貴史の婚約者」
「ふーん」
「可愛いでしょ?いかにも女の子って感じ。この子といると女子力倍になる気がするわ~」
「姉貴の場合元々女子力0なんだから結局0なんじゃねぇの?」
興味なさげにそんなことを言う男の子は、次の瞬間睨み付けられていた。
微笑ましい。姉弟ってどこの家庭もこんなものなんだろうか。
一人っ子である私にとって、洋子さん達の様子は純粋に羨ましかった。
早瀬さんの言っていた“危うさがあるけど芯はある”という言葉の意味が何となく分かった気がする。
洋子さんにはこんなに仲の良い弟がいる。
きっと、それは洋子さんの力になってる。
「じゃあ、そろそろ行くわね。またどこかで」
十分すぎるくらいのお金をテーブルの上に置いて遥くんと一緒に立ち去っていく洋子さん。
残された私は、窓の外を眺めながら1人ザッハトルテを食べた。
今日は空が曇っていて何となく陰鬱な気分がする。
天気予報によると、来週からはずっと雨らしかった。