■Love and hate.
* * *
夜、私はずっと父の帰りをリビングで待っていた。
窓に打ち付ける雨の音だけが聞こえてくる。
母は先に寝てしまったけど、それで良い。
“子に好かれる親”になりたいが為に私の味方をする母でも、今回は私の結婚のことなのだから、そう簡単に納得はしてくれないだろう。
ただでさえ世間体や友好関係ばかり気にしているあの人なら、たとえ納得したとしても私の前でだけだ。
下手に説得しても、裏で必死に婚約破棄などできない状況にするに決まってる。
母は父の言うことならある程度聞き入れる。
先に父を説得して、それから父に母を説得してもらうのが一番だ。
日付が変わる頃、がちゃりと玄関のドアが開く音が聞こえた。
その後鍵とチェーン、そして出られないようにする為の鍵を付ける音がして、父がふぅっと溜め息を吐くのも聞こえた。
まだ何も起こっていないのに急に胸の辺りが苦しくなって、無性に泣きたくなってしまう。
父と最後に2人で話したのはいつだったろう。
ここ数年、父と話す時はいつも母がいた気がする。
まだ無邪気だった頃の私は、父に気に入られたくて、いつも無愛想で眉間に皺を寄せている父に笑ってほしくて、父にまとわりつき、自分の思う面白いことをしつこく父に押し付けていた。
でも父は全然笑ってくれなくて、私が面白いと思って一緒に見ようと頼んだ映画だって見終わった後「どこが面白いんだ」って呆れたみたいに私を見て――私はあの目が苦手だった。
次に映画を一緒に観ようと言った時は、どうせ面白くないんだろうと決め付けて観てくれなかった。
それでもしつこく誘い続けると、「仕事で疲れてるんだから好きにさせてくれ」と少し声を荒げられた。
突き飛ばされもした。
たったそれだけのこと。
突き飛ばされたと言っても胸の辺りを少し力を込めて押されただけで、痛くはなかった。
暴力を振るわれたわけでもない。
でも、その記憶はやたら鮮明に残っていて、思い出すとぼんやりとした濃い恐怖が私の中を埋め尽くす。
お父さんと上下関係のない、友達みたいな関係になりたいと思っていた。
お父さんと何かを共有したかった。
お父さんに褒めてもらいたかった。
お父さんに構ってほしかった。
お父さんに、こっちを向いてほしかった。
――…でも、お父さんは私を拒んだ。
お父さんがリビングに近付いてくる足音が聞こえる。自分の心臓の音もやたら大きく聞こえる。
まず何と言えばいいんだろう。
どういう顔をすればいいんだろう。
普段の会話でいちいち考えないようなことを、お父さんが相手だと考えてしまう。
お父さんがリビングに入ってきた時、私の体は強張った。
お父さんは座っている私を一瞥して上着を脱ぎながら、「まだ起きていたのか」と低く言った。
これからお風呂に入るつもりなのだろう。
お風呂に入ったら、きっとすぐに寝室へ行ってしまう。
「あ、あの…!」
早くしなければと思い、掛けた声は上擦っていた。
お父さんの“あの目”が私を見る。
どうせくだらないことを言うんだろう、という目が私を見る。
「……婚約を…貴史さんとの婚約を……取り消したい……」
俯いて自分の膝を眺めながらそう言ったけど、小さくて聞こえなかったかもしれない。
最後の方は特にぼそぼそした喋り方になってしまった。