■Love and hate.
「それに、学校での人間関係は逃げ場ではありません」
一条さんが黙って私の話に耳を傾けているのが分かる。
「昔、母が持っていた私の学校の名簿を見たことがあります。その名簿には、私の学年の人間関係が細かく記入されてました。私の周りは特に」
母の綺麗な字で記入されていたそれは、私に自分の世界が常に監視されている物だと気付かせ、私の反抗心や逃げ出したいという気持ちを煽った。
「母は他の子の保護者達から聞いた話を元に、学校での私の人間関係をも把握していたんです」
私は一条さんにもたれ掛かり、お風呂上がりらしい良い匂いのするその胸元に擦り寄る。
「私の逃げ場は、今も昔も一条さんだけです。学校での人間関係も婚約者も、全て親の管理下にあったんですから」
一条さんはくすりと笑って、嬉しそうに私の頭を優しく撫でた。
見上げた一条さんの眼が妙に艶めかしくて、そのほの暗さがやけに狂気的に見えて、背中の辺りにぞくりとした寒気のような感覚が走る。
一条さんの顔がゆっくりと近付いてきて、魔法にかけられたみたいに体が動かなくなった。
一条さんの唇は、嬉しそうに弧を描いている。
その唇が私の物と重なるまで、あと数ミリという距離に来ていた。
「――だから、…だから…今日はこの関係を終わらせに来ました」
一条さんの動きがピタリと止まる。
僅かながら目を見張っているのも分かる。
私は一条さんの腕の中で、話を続けた。
「私はずっと貴方のことを利用していたようなものです。貴方の傍でしか解放感を得られなかったから」
名残惜しいと思う。
何年も私の逃げ場になってくれていた温もりを手放すのは寂しいと思う。
「今のままじゃ、貴方の傍にいるままじゃ成長できない。貴方は私の逃げ場でした。でも、逃げていたって何かが解決するわけじゃない。きっと私の両親は私の望むような親ではないし、これからも私を縛り続けます。でも、これからはお互い妥協し合って生活していきたいし、話し合いも増やしたいと思ってます。これから、私は私の道を歩みます。逃げずに向き合います。…貴方無しで」
でも、
「夢だってあるんです。将来グラフィックデザイナーになって、父の会社で働きたいと思っています」
これが今の私の、少しだけ大人になった私の決意だ。
「今までありがとうございました。さようなら」
そう言って、立ち上がって一条さんから離れた。
最後に深々と頭を下げて、玄関に向かおうとした矢先――ガンッと一条さんが苛立たしげに前にあるローテーブルを蹴った。
「――勝手に放れていくなんて許さない」
その低く冷たい声は、以前バイト先の書店で聞いた物とそっくりだった。
あぁ、やっぱり――そっちが本物なんだ、なんて心のどこかで納得した。
「あんなに懐いてたくせに、放れる時は案外あっさりしてるんだね。俺のことなんて元々嫌いだったのかな?」
ソファから立ち上がった一条さんは怖い表情をしているのに、不思議と少しも怖いと思わない。
その縋るような目付きが、幼い子供のように見えて。