ラーシャス・ポイズン
本当に食欲がないし、キッチンを勝手に使わせているうちにお母さんが帰ってきたら困る。
そう思って断ると、いつの間にか近くに来ていた秋一くんが、「よしよし」と言って私を抱き締めて撫でた。
ああくそ、こういう時だけ優しくしてくる男なのだ、こいつは。
拭ったはずの涙がまた出てきそうになって鼻を啜ったせいで、泣きそうになっていることが秋一くんに多分バレた。
「…………ねえ」
「ん〜?」
「私、柊くんがいなくて生きていけるのかな。どんどん不安定になっていく気がする。前はこんなことで泣いたりしなかったよ」
秋一くんの肩に顎を乗せて、秋一くんの服を汚さないように、いっぱい溢れてくる水を袖で懸命に拭く。
「今泣いてるのは痛いからっしょ」
「ううん。痛いのは昔からだったもん。ずっと平気だったよ。こんなに悲しくならなかった。柊くんがいなかったら、自分が自分じゃなくなっていく気がする。私弱くて弱くて弱くて弱くて弱くて弱くて弱くて弱いから、やっぱり柊くんがいなかったらだめなんだ。柊くんが私の痛み止めなの。でも柊くんは他の人のものだから、絶対にもう私のものになんかならない。……それが、」
それがこんなに苦しいなんて思ってもいなかった。
柊くんが絶対に私のものにならないのは前からだったけど、それでも可能性が僅かでもあるのと、全くないのとでは心持ちが違う。
人生の目標を失ったみたいに、私は今どうしていいか分からなくなっている。
うぅ~っと唸ってみっともなく泣きじゃくる私に、秋一くんが言った。
「俺あやめちゃんのこと弱いなんて思ったことないけどねぇ」
背中を擦ってくれる手も向けられる言葉も思いのほか温かくて、またぐずぐず泣いてしまう。
「何回俺こいつに噛み付かれるんじゃないかって思わされたか分かんねーもん」
「……噛み付かないですけど」
「そう思っちゃうくらいあやめちゃん、俺に歯向かってきてたじゃん。大した根性だと思ったよぉ?」
「こんな姿見てもまだそれ言えるの」
「うん。あやめちゃん有り得ないくらい強いから、どんだけぼろぼろになってもそのうち復活してピンピンしてこっちに牙向けてくるんだろうな~って思ってるよ」
「……」
「俺はそれがちょっと楽しみだから、重症だよねぇ」
自分を、そんな風に見たことがなかった。
自分の中でパラダイムシフトが起こったと言っても過言ではないくらいに衝撃だった。
お腹はまだ痛いけれど、気分はさっきより大分マシだ。
言葉って凄い。秋一くんの言葉は特に、不思議とすっと中に入ってくる。
私の涙が引っ込んだ頃、秋一くんが飲みやすい飲み物を入れてくれた。
それどころか夕方までずっと一緒にいてくれて、他愛ない話に付き合ってくれた。
秋一くんが女の子に人気な理由が初めて何となく分かった気がした。
秋一くんは中途半端に優しい。ただいい加減なだけで、気紛れに人を思いやるってことはする。
秋一くんの周りにいた子たちは秋一くんが完全な人でなしではないことを分かっていて、友達としても仲良くしていたのだろう。
夕方になるまで色んな話をした。
幼い頃両親が離婚したこと。
こっちに引っ越してきてからずっと柊くんは私の憧れであったこと。
柊くんの好きなところ。
中学の時の話。
そして、母親の再婚の話。
LINEでお母さんから18時になったら再婚相手と一緒に家まで迎えに行くという連絡が来ていたので、沢山話をした後で、17時には帰ってもらった。
「今日はありがとう」
だぼだぼの服を着た秋一くんを玄関まで送って、手を振ってドアを閉める頃には、もう大丈夫だった。
お母さんの再婚相手は気さくな男性だった。
会社で営業をしている人で、はきはきと話すし、言葉も聞き取りやすく、人の良い笑顔を私に向けてくれた。
助手席で笑うお母さんはすごく楽しそうだった。お母さんってこんな風に笑うんだっけと思うくらいずっと笑っていた。
後部座席の私の隣に座る女の子は、私より幼い、無口な小学三年生。
私の新しい妹になる人だった。
色の白い透き通るような肌とか、さらさらで艶のある長い黒髪が、よく知る誰かを、酷いことをしてしまった彼女を彷彿とさせた。
「ごめんねえ!その子、人見知りだから」
ミラーで私たちの様子を確認したらしいお義父さんが、明るく謝罪してくる。
「……いえ」
なんと話しかけたらいいか分からず、きょどっているのはこっちだ。
小さい子は敏感だ。こちらが緊張していればきっと伝わる。
こんなに年下と話す機会なんて早々ないから何を話していいか分からない。でもとにかく何か話しかけたい――ごくんと唾を呑み込んで、
「私!あやめって言うんだ」
お義父さんのはきはきした感じを真似しようと少し大きな声で言った。
二つのくりくりの目がこちらに向けられる。
「これから、よろしく。」
笑って手を差し出すと、彼女は怯えたようにその手を凝視して、次に私の顔を見上げた。
何か言おうとして逡巡することを何度か繰り返し、ついに初めての言葉が来た。
「わたしのこと、いやじゃない?」
小さな口から、小さな声で出てきたその疑問。
「わたしは不安。知らない人と家族になるの、不安」
「――――嫌じゃないよ」
私は差し出した手でそのまま彼女の手をぎゅっと握り締めた。
「私はあなたと家族になるの楽しみにしてた。私、絶対に素敵なお姉さんになるから。不安なんか感じなくていい。大好きだよ」
自信を持ってこう言えたのは、秋一くんが私のことを強いと言ってくれたおかげだった。