ラーシャス・ポイズン
僕は僕と一緒にいることであやめの不安定さが増すことを理解していた。
だから突き放した。けれどどれだけ突き放してもあやめは僕に付いてくる。
あやめには底知れぬ強さというか、僕にどれだけ厳しいことを言われようと気にしない図太さがある。
僕はそんなあやめを煩わしく思う反面ほっとしていた。
あやめが僕から離れないのだから。
僕は拒絶しているのに、あやめはついてくるから。
だから仕方ない。
僕の傍にいることであやめは苦しむことになる。より歪んでいく。そう確信していながら、善意と欲の狭間で揺れ動く自分が嫌だった。
僕とあやめが高学年になる頃、あやめの母親は家に男を連れ込むようになった。
あやめは徐々に家に居辛くなっていった。その事実を知ったのは後からだ。
夕方には僕の家から帰っていくあやめが、夜更けに近所の公園に座っていた時は恐ろしくて思わず駆け寄った。
何故言わなかったのかと。夜一人でこんな場所に居られるくらいなら、僕を呼べばいいと伝えた。
最初はあやめが心配だったから行っていた。
しかし徐々に、中学受験の勉強で疲れていた僕にとっても、週に一、二度あやめと過ごす夜の時間は救いになっていった。
あやめと話すと楽しかった。あやめと深夜のコンビニで肉まんを買って食べる何でもない道のりが、僕にとっては尊いものだったのだ。
あやめは案の定、見るからに壊れていった。
あやめの僕への好意は、明らかに幼馴染みに向けるそれではなく、信仰に近付いたのだ。
「柊くん、私柊くんが大好きだよ。ずっと」
あやめは“大好き”だという僕と一緒にいて、いつも辛そうな顔をする。
自分で自分の首を絞めて、息ができないと苦しんでいるようにしか見えなかった。
やはりあやめから離れなければいけないと思った。
受験が差し迫ってきたことを理由に、僕はあやめと会わなくなった。
受験が終わった後も、別々の中学に進んだことでお互いの時間が合わなくなり、あやめが僕の家へ来る回数は極端に減った。
ほっとしていた。
これであやめと離れられると。
会わなければ忘れられると。
それがあやめのためでもあると。
実際、新しい環境に身を置いたことにより、僕はあやめのことを忘れていった。
新しい人間関係の中で、古い記憶は薄れていく。
だから――街中で見知らぬ中年の男と歩いているあやめを見た時、一瞬誰だか分からなかった。
やや田舎なこの辺りでは、休日に出掛ける場所など限られる。この狭い世界で誰に見られているかも分からないのに、少しも見た目を変えず年齢の離れた男とラブホテルに入っていく不用心さが馬鹿なあやめらしいと他人事のように思った。
ショックだった。騙されているのだと思った。けれど真実など分からないから、あやめの気持ちが分からないから、動くことができなかった。
止めたかったけれど、止める権利など僕にはなかった。
僕は今のあやめのことを何も知らないのだな、と離れた時間の長さを感じた。
四六時中その光景が頭から離れず、夢にまで見て魘された。
僕は冷静ではなかった。
だから他人にこの話をしてしまったのだ。
あやめの話を他人にしたのは――――弐川くんが初めてだった。
「スマホ見りゃいーじゃん」
飴を舐めながら、椅子をぎこぎこと鳴らす弐川くん。
「直接聞けねぇんだろ?今度家に来た時こっそり見ればぁ?真実が知りたければ」
部活が同じでたまに話すようになったかと思えば、いつの間にかすっかり僕の家に入り浸るようになった距離の詰め方のうまい弐川くんは、悪魔のように笑ってこう言った。
「スマホの中身って、女の全てが詰まってンだよぉ?」
あやめが僕の家に来る機会はかなり少ない。特に最近は、来てもすぐに帰ることが多い。
チャンスが少ない――その事実が、次にあやめが家に来た時分に、僕を今やらなければという気持ちにさせた。
疲れているらしいあやめがリビングのソファで間抜け面をして寝入っているのを見て、最初はそんなことをするつもりなどなかったのに、スマホを見ろと言った弐川くんの顔が浮かんだのだ。同時に、ローテーブルの上に放置されたあやめのスマホが震え、画面が明るくなった。
衝動的にそれを開いた僕は、真っ先にLINEを開いて、そこに学校のクラスメイトらしき人物しかいないことにほっとした。
見間違いだったのかもしれないと思い、閉じて置こうとしたその時、別のトークアプリからの通知が映った。
見知らぬ黄色いトークアプリだった。それを開くと、知らない男の名前がずらりと並んだ。
既読をつけないよう一番上のトークは開かず、その下から順番に見ていく。
全て見終わる頃、あやめが典型的な援助交際をしていることだけが分かった。
あやめのスマホのパスワードは、変わらず、僕の誕生日だった。
「放っとけばぁ?その幼馴染みチャンがそれをよしとしてて、お金ももらえるならウィンウィンでしょ。もう中学生なんだから分かってやってるってぇ」
弐川くんは援助交際を“その程度のこと”として扱った。
「騙されているのかもしれないでしょう。僕は彼女を心配しているんです」
「……柊ぃ~、過保護じゃねェ?もうたまにしか会ってないただの幼馴染みっしょ?」
「放っておけないんですよ」
僕は自分の言動の間に矛盾を見出していた。
本当に心配ならば、放っておけないのなら、すぐにでも事情を聞いてやめさせればいい。
けれどそれができないのは――あやめと話すことが怖いからだった。
今のあやめが何を考えているのか分からない。
今のあやめと話したとして、僕に本当の心を開示してくれるのだろうか。
お前には関係がない、関わるなと拒絶されることを危惧していた。
この時点で、僕にとって高坂あやめという人物が、よく知る幼馴染みではなく知らない女になってしまっていたのだ。