あのね、わたし、まっていたの  ~慈愛の物語~ 【新編集版】
 悶々としたまま1週間が過ぎた。
 その間、『万事休す』という言葉が幾度も頭に浮かんできた。
 その度に振り払ったが、消え去ることはなかった。
 わたしは追い詰められていた。
 そんな時、鹿久田から呼び出しがあった。
 丸岡にも声をかけているという。
「用件はその時に話すよ」と言うので聞かなかったが、候補者に関することではないような感じがした。

 あの喫茶店が待ち合わせ場所だった。
 ドアを開けて中に入ると丸岡が席についていた。
 彼も用件は知らないようだった。
「なんだろうね」と言いながらコーヒーを飲んでいると、鹿久田が右目を瞑って左手を顔の前に立てながら店に入ってきた。
 約束の時間を20分過ぎていた。
 
「遅くなって悪い」

 痛めている靭帯の治療に時間がかかったと言い訳したが、神妙な表情はすぐに普通に戻って上着のポケットから封筒を取り出した。
 
「クラシックって興味ある?」

「えっ、クラシック?」

「うん。妹がバイオリンやっててさ、大学の演奏会のチケット買わされちゃったんだよ」

 封筒から取り出したチケットには『都立音楽大学の定期演奏会』と書いてあった。
 日時は7月7日の夜7時。
 
「結構レベル高いらしいよ。去年、全国大学音楽祭でグランプリをとっているから」

 でも、その演奏はまだ一度も聴いたことがないと、鹿久田は頭を掻いた。J・POP以外の音楽には興味がないのだという。

「でも捨てるわけにもいかないし、お前らが嫌じゃなかったら気分転換にどうかなって思って」

 無理にとは言わないけど、というような目でわたしたちを見た。

「どんな曲を演奏するの?」

 しかしこれは愚問だったとすぐに反省した。
 クラシックに興味のない人が曲名など知っているはずはないのだ。
 それでも彼は記憶を探るように目を細めて首を傾げ、「妹が言うには、みんなが知っている曲が多いらしいよ。なんて言ってたっけ……、え~っと、え~っと、そうだ、アイネなんとかって言ってたかな」とヒントをくれた。
 
 
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク?」
「そう、それ。その曲」

 わたしの大好きな曲だったので、モーツァルトが作曲した中でも特に人気のある曲だと教えてあげた。
 すると、へ~、よく知っているんだな、というような顔でしげしげと見つめられた。
 それで照れ臭くなったわたしは視線を外して、「わたしは聴きたい。丸岡君はどう?」と彼に振った。
 丸岡がクラシックに興味があるかどうかはわからなかったが、候補者選びの袋小路(ふくろこうじ)から脱出するためのきっかけになりそうな気がしたので頷いてくれることを期待したのだ。
 するとその意図を察してくれたのか肩をちょっと上げて、断る理由はないというような表情を浮かべてくれたので、「決まりね」と話を収めた。
 
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