あのね、わたし、まっていたの  ~誰か声をかけてくれないかなって~ 【新編集版】
 ドアが開くと奥さんに続いて夏島が入ってきた。

「えっ?」

 足が止まり、目は見開いていた。
 妹の横に秋村が座っていたからだろう。
 夏島は〈どういうことだ〉というように奥さんに厳しい目を向け、すぐに引き返そうとした。
 
「ちょっと待って。秋村さんが松坂牛の差し入れを持ってこられたのよ」

 その声で夏島の足が止まった。
 松坂牛には目がないということを聞いていたが、その通りのようだった。
 
「今夜はスキヤキよ」

 妹が弾んだような声を出すと、夏島の頬が一瞬緩んだように見えた。
 しかしすぐに引き締めて仏頂面(ぶっちょうづら)になった。
 それでも、命と引き換えにしてもいいほどの大好物だと顔に書いてあった。
 
「スキヤキ奉行さん、お願いね」

 奥さんに促されて夏島は渋々という感じで席に着いたが、それが本音のはずはなかった。
 自分抜きのスキヤキはあり得ないと思っているだろうし、スキヤキは誰にも任せられない自分の領域なのだと思っているはずだ。
 しかし心の内を悟られたくないので、できるだけ難しい顔をしているのだろう。
 
 仏頂面のまま、熱した鍋に牛脂を入れて溶かした。
 次に長ねぎと玉ねぎを入れて軽く焼き色を付け、割り下を注ぎ込んだ。
 その割り下が沸いてきた時、松坂牛の薄切りを一枚ずつ入れて早めに裏返してさっと火を通した。
 
「玉子を割って溶いて」

 夏島が三人に指示を出し、溶き終わった順から小鉢に松坂牛を入れた。

「早く食え」

 仏頂声だったが、最後に松坂牛を頬張ると、今まで見せたことがないような恍惚(こうこつ)の表情を浮かべた。
 その時、彼に悟られないように女性三人が『作戦成功!』の目配せをした。

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