あのね、わたし、まっていたの  ~誰か声をかけてくれないかなって~ 【新編集版】
 秋村は、その時初めて夏島が校長への打診を断ったことを知った。
 しかし、自分にも校長就任の依頼があったことは口にしなかった。
 
「あなたと秋村さんに声をかけるなんて、その人たちは凄いことを考えているわね」

 まだ見ぬ三人の発想と行動に奥さんは感心したような表情を浮かべたが、「ところで、何故あなたは断ったの?」と不思議そうに尋ねた。
 
 夏島はすぐに答えず、コーヒーを一口飲んでから(おもむろ)に口を開いた。
 
「ワールドカップで教え子の活躍を見届けた上で、翌年の大学選手権で優勝して、それを花道に辞めようと思っていた。そのあとは、お前とのんびり旅をするつもりだった。今回のことですべてはパーになったけどな」

 そして何故かコーヒーカップを持つ指に目をやった。
 見ると、爪がかなり伸びていた。
 長い間切っていないようだった。
 
「伸びた爪はラグビーへの未練?」

 奥さんの問いに(きゅう)したのか、夏島は残ったコーヒーをすべて飲み干した。
 
「夏島さんの責任ではありません」

 秋村はたまらず声を出した。
 
「完璧なマネジメントはこの世に存在しません」

「そうよ、お兄ちゃんのせいじゃないわ」

 すかさず妹が後押ししてくれた。
 しかし、夏島は首を横に振った。
 
「俺の責任だ。力不足だったんだ」

 力無く何度も首を横に振ってコーヒーカップを口に運んだが、さっき飲み干したことに気づいたようで、苦笑いのようなものを浮かべた。
 それを見た奥さんがさりげなく自分のカップを彼の前に動かしたので、彼は軽く顎を引いて、カップを手に取った。
 
「事件を起こした部員は自分が主将に指名されなかったことに腹を立てて逆恨みするだけでなく、自らの力を誇示しようとしたのです。暴力という非道な手段を使って」

 特別調査委員会の報告書を熟読していた秋村は断固とした口調で続けた。
 
「それに、彼は中学時代から酒、タバコをやっていたようです。高校の時も、そして、大学に入ってからも。見つからないように陰でやっていたようです。だから夏島さんの指導に落ち度があったわけではないのです。親や中学、そして高校時代の指導者が見逃して常習化させていたことが問題なのです」

 そのことは事件のあと報道によって夏島の耳にも届いているはずだった。
 
「それは関係ない。俺の指導が甘かったんだ」

「いえ、そんなことはありません。中学生の時にしっかりとした指導ができていれば、こんなことにはならなかったのです。悪い芽を早いうちに摘んでおけば、今回のような不祥事は回避できたのです。でも、臭い物に蓋をするような、目を瞑って現実から目を背けるような教師が少なくないから」

 やるせなく首を振ったが、話を止めるつもりはなかった。
 
「大学生になってからでは遅すぎるんです。習慣や性根を変えることは難しいのです。できるだけ早いうちに教育や指導をする必要があるのです。だから、中学教育を根本的に変えなければならないのです」

 すると体の内から何か熱いものがこみ上げてきて、それがマグマのようになって口から噴き出した。

「一緒にやりましょう。スポーツ専門中学校という未知の領域へ挑戦しましょう。夏島さん、校長を引き受けてください。わたしが教頭で支えますから」

 秋村は、思いがけなく口をついて出た自らの言葉に、もはや後戻りできない定めのようなものを感じた。


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