あのね、わたし、まっていたの  ~新編集版~
 犯人逮捕の連絡を受けた桜田は胸を撫でおろした。
 傍にいる選対本部長と弟の顔には安堵の表情が浮かんでいた。
 事件は無事解決した。
 しかし、桜田はこれで終わりにするつもりはなかった。
 犯人の人生を無茶苦茶にしてはならないと考えていたのだ。
 
「私が引き受けます」

 桜田は、本部長の反対を押し切って被害届を取り下げた。
 そして、犯人を市役所の臨時職員として雇った。
 
「彼のしたことは許されないことです。しかし、未遂で終わりました。強く反省もしています。だから、今後の長い人生を考えると再起へのチャンスを与えるべきだと思うのです。ご理解ください」

 しかし、本部長は憮然(ぶぜん)としたような表情で桜田を睨みつけた。

「罪を憎んで人を憎まず、なんて甘っちょろいことを考えているんじゃないだろうな」

 ドスの利いた声が桜田に襲いかかった。

「親が親なら子も子なんだ。犯罪者の息子は、しょせん犯罪者でしかない。何度も同じ間違いを繰り返すんだ。そんな奴は徹底的に懲らしめなければならない。徹底的にな!」

 自分の弟を貶めようとした奴を絶対許さないと声を強めた。

「そうでしょうか。親の犯罪に加担したというなら話は別ですが、彼はそうではありません。というよりも、ある意味、彼は被害者なのです。第一志望のIT企業に内定していたにもかかわらず、親が逮捕されたことで取り消しになって、人生設計が根本から崩れたのです。逆恨みを許すわけではありませんが、追い詰められた彼の心情を考えると、このままずるずると不幸への道を進んでいくのを良しとするわけにはいきません」

「じゃあ聞くが、俺の弟はどうなる。世間の(さら)し者になるところだったんだぞ」

 目をひん剥いて、怒りを露わにした。

「お気持ちは十分わかります。しかし、未遂で終わりました。弟さんの醜態写真がばら撒かれることはありませんでした。奥さんも子供さんも、そして、在籍している会社もこのことを知りません。弟さんの人生と家庭は守られたのです。しかし、」

 桜田は声に力を込めた。

「彼を罪人扱いにしたらどうなりますか。私たちを恨む気持ちが強くなるだけではないですか。そうなったら、また仕返しを考えるのではないですか。今回よりもっと卑劣なことをやらかすのではないですか。暴力やそれ以上のことが起こり得るのではないですか」

 本部長の目を強く見つめた。

「目には目を、歯には歯を、という考えは復讐の応酬を生むだけです。どんどん悲惨になっていくだけです。誰にとっても良いことはありません。だから、どこかで断ち切らなければならないのです」

 更に強く見つめると、本部長が目を逸らした。
 そして、「好きにしろ」とぶっきらぼうに言い捨てて背を向けた。
 それを〈納得はしないが反対もしない〉という意思表示だと受け取った桜田は、「ありがとうございます」と彼の背中に声をかけて、深々と頭を下げた。
 
< 148 / 168 >

この作品をシェア

pagetop