あのね、わたし、まっていたの  ~誰か声をかけてくれないかなって~ 【新編集版】
憧れの地~エピローグ
       ◇ 憧れの地 ◇

 桜田市長に会ったのは久しぶりだった。
 公約実現に向けて土日も返上して働いていると聞いていたのでそれは当然だったが、突然電話がかかってきて「お願いしたいことがある」と言われたのだ。
 用件はその時に話すということだったので内容はわからなかったが、開校が近づいているので、その準備に関することではないかと勝手に推測していた。
 
 市長室応接コーナーのアームソファに座ると、何故か彼は教員時代に視察で見たヨーロッパの街並みのことを話し出した。
 開校のことではなかったので意外だったが、その話は興味を引くのに十分な内容だった。
 木々と花々が織り成す自然の調和、それに溶け込むような建造物、合理性とは一線を画す柔らかな発想を促す空間、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、スペイン、ポルトガルで見た様々な都市の街並み、すべて最高だったと聞かされてわたしは身を乗り出さずにはいられなかった。
 
「小学生の時に写真で見たヨーロッパの街並みが忘れられません。花と緑に溢れて本当に素敵で。ですので、市長選挙の街頭演説で夢開美観都市計画の話を聞いた時は飛び上がるほど嬉しくて、思わずヨーロッパの街並みを頭に思い浮かべました」

 すると、桜田は嬉しそうな表情で何度も頷いたあと、意外なことを切り出した。

「実は海外視察を計画しているんだ」

 彼は立ち上がり、机の上に置いてあった書類を取って戻ってきた。
 そして、それをわたしの前に置き、下線が引かれてある個所を指で示した。
 ローマ、そして、フィレンツェという文字が目に飛び込んできた。
 一瞬にして目が釘付けになり、身動きできなくなった。
 夢にまで見た憧れの地なのだ。
 目を離すことなんてできるはずがなかった。
 
「一緒に行かないか」

 穏やかな声が耳に届いた。
 
「美観都市計画を立案するためにローマとフィレンツェに行って、旧市街の街並みをしっかり見たいと思っている」

 誘惑するような響きに夢心地になりそうだった。
 しかし、すぐに現実に引き戻った。
 
「とても素敵なお誘いで夢のようなお話ですが、イタリア視察に同行させていただくのは無理だと思います。わたしは教育委員会に身を置く者で、政治的な独立を義務付けられておりますので、市が主催する視察に行くことは難しいと思います」

 しかし桜田は笑みを浮かべて、そんなことはわかっている、そんな心配は無用だというばかりに首を縦に振った。
 そして、「君は夢開スポーツ学園の提唱者なのだから、それに関連する都市計画の関係者の一人であることは疑いのない事実だ。だから視察に随行するのになんの問題もない。堅岩教育長にも話を通しておくから心配しなくていい」と背中を強く押された。
 
 すると、なんと1週間後、教育委員会から出張命令が下った。
 その書類を信じられない思いで見続けたわたしは、現実感のないままあたふたと出発準備を始めた。
 
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