幸せだよと嘘をつく
1プロローグ
スペイン料理を出すバル。
仕事帰りの客で店内は賑わっている。
河津雪乃と坂本綾は生ハムと魚介のミックスアヒージョを食べながら、ワインを飲んでいた。
「だから、結婚しているっていうだけの話です。愛情が他に移ってしまった夫とずっと一緒に居たいっていう根性が意味不明なんです」
綾は生意気な口はきくが、なかなか根性がある雪乃の3つ下の後輩だ。
良くも悪くも何かを実行する上で恐怖を有していない彼女はある意味尊敬できる。
「そうなんだ」
雪乃はいつもの脈絡のない話の流れに適当に相槌を打った。
「奥さんよりも愛する女の人ができたわけですよ?愛情がなくなっている人と一緒に居ようと思うのがそもそも間違いなんです」
「え……と。それって不倫相手が正しいっていうこと?」
雪乃は驚いた様子で綾を見る。綾は独身だけど自分は既婚者だ。
「正しい、正しくないの問題ではなく。旦那さんの愛情がないのに、夫婦関係を継続しようとする嫁がおかしいって言ってるんです」
「なるほど」
雪乃は苦笑しながらにワインを一口飲む。
「何が言いたいかというと、旦那が浮気して他に好きな人ができた場合、速やかに離婚するべきって話です。結婚って契約みたいなものですよね?でも、契約したからって他に愛する人ができたのなら別れるしかないじゃないですか?旦那さんに執着して、貴方が悪いとか意味が解らない。諦めるしかないじゃないですか?」
「そういう考え方もあるのね」
「ただし、子どもがいたら別です。責任が生じますから。その場合は愛情がなくなっても一緒に居なくてはいけないです。子どもにには未来があるんで、育てる責任は親が同等に持たなくちゃいけません」
「子どもがいなければ、離婚すべきってことね。相手が妻を裏切り浮気してたとしても、離婚は必ずしなくちゃ駄目ってこと」
「逆に、離婚しない理由は何なんだと思います」
綾は身を乗り出し、雪乃に質問する。
雪乃は少し考えて。
「夫を愛しているから、あるいは結婚の誓いを立てから?」
「そんなの一生添い遂げるってその時点で思っていた事に過ぎませんよね」
「時が経てば気持ちは変わるってことが言いたいのね。不倫相手の女性には、問題はないってこと?人の旦那を奪ったのよ」
「相手の男性が妻より不倫相手を選んだ。ただそれだけの話です。不倫相手にはなんの責任もないです。旦那の愛する人が代わったってだけです。それは仕方なくないですか?」
仕方ないの一言で片づけられるような関係でもないと思うけど。
「ただの恋人関係と、婚姻関係は違うんじゃないかしら」
「だから、婚姻届けを出してなかったら同棲している彼氏ってだけで。彼氏に他に好きな子ができたから別れたって話と同じです。その場合、彼氏やその好きになった相手から慰謝料とか取らないですよね?だから、たかが紙一枚での契約にこだわって泥沼離婚劇する嫁側の心理が解らないんです」
「離婚されないように愛情をつなぎとめろってことよね」
まぁ、一理あるのかもしれない。
なにも浮気は夫がするものと決まっている訳ではない。逆もあるんだから。
「自分が愛していたとしても、一方通行じゃ不幸なだけだし、惨めでしょう?」
「確かにね」
「という訳だから、不倫相手に対する慰謝料請求はなしって事でいいですね」
「……?」
「嫁が一番強いって、おかしくないです?」
「不倫は悪でしょう。昔、姦通罪っていう罪もあったんだし」
「それって女性は告訴することができなかった罪ですよね。不公平です。だからそんなくっだらない法律はなくなったんです。今後も変わっていくべきです。不倫相手への慰謝料請求はなしってことで万事OK 」
「嫁が悪いと」
「そうです。愛されなかった嫁が悪い」
雪乃は、呆気にとられた様子で眉を上げた。
愛されなかった嫁が悪い……
第2話
居酒屋からの帰り大通り、駅までの道を歩く雪乃。
今日は雪乃の誕生日だった。
断れない接待があるからと夫は帰りが遅いらしい。
(綾ちゃんは私の誕生日のお祝いしてくれたけど、私のマンションとは逆の路線って綾ちゃんもなかなか強者だ。しかも自分の家の近くの店を選んでるところが流石……まぁ、後輩なのに奢ってくれたから良しとする)
そんなことを考えながら、まだ混雑する道路を、人を避けながら歩いて行った。
ふと通りの反対側を見ると、夫に似た人物が女性と腕を組んで歩いている。
ここは夫の会社からは遠い。自宅の最寄り駅とも反対方向の町だ。
え……なんで康介さんがここにいるの。仕事の接待があるから遅くなると言っていた。誕生日なのにすまないと謝っていた。
女性は康介に密着して歩いている。まるで恋人同士のようだ。
夫に似ているけど、別人なのかもしれない。
頭の中に、先程の居酒屋での話が蘇る。
(まさか……康介が、浮気……)
確かめずにはいられないと思い、雪乃は気付かれないように離れて二人の後をつける。
(酔った後輩に無理やり腕を組まれているのかもしれない。取引先の女性を接待帰りに送っているだけかもしれない)
何か理由があるのだろうと思いたい。
二人は仲良さそうに、大通りから左に折れて暗い通りへ入って行く。
先にはラブホテルがある。
夫は女性の肩を抱いた。
ホテルの中に入って行く二人。
現場をしっかりと見た雪乃。
青ざめる。
深夜営業しているカフェは、ラブホテルから近い大通りに面していた。
ガラス張りの店内から車道を行き交う人たちを見ている雪乃。
(康介は泊まりはしない。終電には間に合うように帰るだろう。入った時間を考えると2時間後にはホテルから出てくるはず)
先ほどの信じがたい光景が目に焼き付いて離れない。時計に目をやる。時間は9時を過ぎたところだ。
コーヒーを口に運びながら、考え込む雪乃。
出勤前、妻のためにコーヒーを淹れてくれる康介の姿を思い浮かべた。
今朝も普段と変わらない仲の良い夫婦だった。
雪乃が26歳、康介が30歳の時に二人は結婚した。
康介は大手の証券会社で債券トレーダーをしている。
高学歴で高収入、頭の回転が速く、人望も厚い。優しく思いやりがあり最高の夫だと思った。
二人は結婚後お互いしっかり働きながら今後の家族計画を立てていた。
結婚して数年は共働きで資金を貯め、将来的に子供は二人つくる。交通の便がよく子育てにも適したマンションを購入し、温かい家庭を築き幸せに暮らしていくつもりだった。
雪乃は30歳までに子供を産みたいと思っている。
今日で雪乃は29歳になった。
第3話
雪乃はホテルの入り口が見える路上、電柱と看板の後ろに隠れるよう立っていた。
夫と女性が出てきたところを撮るつもりでスマホを構えている。
(時間的に夫がもうすぐ出てくるだろう。しっかりと映像に残そう)
先程カフェで浮気の証拠集めについて検索した。
画像ではなく動画で残すのがいいと書いてあった。
けれど雪乃は夫が言い逃れできないように浮気現場の証拠を残そうと思っている訳ではなかった。
自分がちゃんと現実を受け入れられるように映像に残さなければと感じたのだ。
(私は康介を愛している。出会った時のまま、今もずっと彼のことが好きだ。けれど、その気持ちが一方通行なら意味がない)
さっき綾ちゃんが言った通り、惨めになるくらいなら諦めなければならない。
雪乃にはまだ子どもがいない。
自分は仕事もしっかりしているし、収入もちゃんとある。自分はひとりで生きていく選択ができる。
涙が頬を伝う。
(私は、強いからきっと大丈夫だ)
*******************
朝日が昇っている。疲れた様子で自宅マンションのドアを開ける雪乃。
昨夜はマンションに帰る事ができなかった。
ネットカフェで時間をつぶした。
康介の顔を冷静にみる自信がなかった。
康介には『綾が酔いつぶれたのでアパートまで送る。遅くなったのでそのまま彼女の部屋に泊まる』とメッセージを入れた。
雪乃が誰かの家に泊まるなど、結婚してから一度もなかった。
夫は少しでもおかしいと思うだろうか?
それとも、妻が帰らないのなら自分もラブホテルに泊まればよかったと思っただろうか。
何とも言えない表情で雪乃はダイニングテーブルにそっと鞄を置いた。
康介が雪乃が帰って来たことに気がついたのか寝室から出てくる。
部屋着姿でも所帯じみていないかっこいい康介だった。
背が高く短髪で清潔感がある。眼鏡をかけているから端正な顔立ちは優しく見える。
壁にかかっている時計を見ると今は朝の7時30分。
「おかえり。大丈夫だった?」
「ええ。ごめんね。綾ちゃんが酔っぱらっちゃってどうしようもなかったの」
「そうか、大変だったね。綾ちゃんって同期だったっけ?」
綾ちゃんは同期ではなく職場の後輩だ。
今まで何度も話をしたはずだった。それも康介は覚えていなかったのかと思い愛想笑いを浮かべて雪乃は「ウン」と頷いた。
「シャワーを浴びてないから、先にお風呂入ってくるね」
雪乃は寝室のクローゼットに着替えを取りに行った。
康介の顔を直視できない。
まるで自分の方が悪いことをしているみたいな気分になった。
「朝食を作っておくよ」
休日は朝食を作ってくれる夫。
家事も率先してしてくれて、仕事が忙しくても疲れた表情を見せない。
「ありがとう」
いつもと変わらず、優しい夫の態度。
雪乃は涙が出そうになるのを必死に堪えた。
雪乃は洗濯機の前に立っている。
昨夜着ていた夫のシャツの匂いを嗅ぐ。
(ああ……康介の匂いじゃない)
知らない香水の香り。
グッとシャツを握りしめる。
ダイニングテーブルに置かれたスクランブルエッグ、クロワッサンにカフェオレ。ヨーグルトにはベリーソースが添えてある。
用意してくれた朝食を無理やり口に運んだ。
食べられる気分ではなかった。クロワッサンは後で冷蔵庫にしまおうと思った。
「雪乃、誕生日おめでとう」
優しい眼差しで妻を見つめる康介。
「ありがとう」
「雪乃と結婚出来て、幸せだよ」
(誕生日は昨日だったわ)
無理やり笑顔を貼り付ける雪乃。
「今日はエグゼホテルのディナーを予約しているけど、大丈夫かな体調とか問題ない?」
エグゼホテルは最上級ランクのシティーホテルだ。
そこの高層階にあるスカイレストランはミシュランで星を獲得した人気店だ。
「ええ。大丈夫よ。けれど、今、少しだけ眠たいから午前中寝ちゃおうかな」
昼間から寝るなんて珍しいなと少し驚いて康介は眉を上げた。
「出かけるのは夕方からだから、ゆっくりしたらいいよ。昨日は職場の人に誕生日祝ってもらえたんだろう?仲良くていいな」
昨日は夫が接待だった(接待という名の浮気だったけど)から、誕生日は御馳走するからと言って、綾ちゃんが雪乃を誘ってくれた。綾ちゃんは先輩の雪乃に気を遣ってくれたんだと思う。
「そうよ。今の職場は人に恵まれていると思うわ。居心地もいいし楽しいわ」
「君が楽しそうで嬉しいよ」
夫の単純な笑顔が、以前とは違うように見えてしまう。
雪乃を上手に騙している人の顔だ。
「ごめんなさい。2時間くらい眠ってくるわね?洗濯機は回しているし、お昼はパスタでよければ、冷凍した作り置きのソースがあるからそれを食べてくれるとありがたい」
「ああ、わかった。昼まで寝てる?起こした方がいいなら一緒に昼ご飯を食べよう」
「私は適当に何か食べるから大丈夫」
そう言って朝食を終えた食器をシンクに運ぶ。
康介の食器も軽く流して食洗機に入れた。
寝室の夫婦のベッドに入った。
普段と変わらない夫の態度にモヤモヤする。
膝を抱えて寝室を見る。
寝室には、夫と一緒に撮った記念の写真がある。
昨夜はネットカフェで自分がやるべきことを整理した。
『夫と離婚する』
彼に慰謝料を請求したり、不倫相手を責めたりはしない。
雪乃は康介と円満に離婚する事を決意した。
第4話
数時間眠った。
起きてリビングに行くが、康介は出かけているようで誰もいなかった。
雪乃はダイニングテーブルにパソコンを置いて、離婚後の資産の振り分けを打ち込んでいった。
いつか子どもができ、マイホームを買うために2人で貯めていた夫婦の貯金は折半してもらう。
夫婦の財布は別だった。だから自分個人の貯金はある。
ここの家賃や光熱費、もろもろは全て康介が払っていた。大きな買い物をした時の支払いも康介だった。
雪乃は食費を出していた。
外食する場合は各々の財布から、二人で外食した場合は康介が支払った。
だいたい3:7くらいの割合で、康介の方が多く支払っている。
収入は康介が雪乃の倍はあるはずだ。
雪乃は離婚後の生活のことを考えた。
これから住むアパートを探さなければならない。
今後は一人ですべての費用を賄う。
だいたい毎月8万円くらい食費に使っていた。その他、消耗品なども雪乃が購入していた。
そのお金を次の生活費としてスライドさせれば、これからの生活の心配はない。
夫の為に、肉や魚は良いものを買っていた。
一人だったら食材にこだわらなくてもいいし、量も食べない。
食費は大幅に減るだろう。
確認しないと分からないが、会社から少しは家賃補助が出るはずだ。
「……前向きに考えなきゃ」
2
今日食事をする予定のレストランは、何ヶ月も前から予約しなくてはいけないような人気店だ。
時計を見ると現在午後1時。
ガチャリと玄関のドアが開き、夫が帰って来た。
康介は駅前の老舗鰻店の弁当をテイクアウトしてきたようだ。
康介「起きてたんだ。昼飯買ってきたよ」
ついでに、飲料などの重い物を買って来てくれた。
そういうところに気が利く康介。
誰からも羨ましがられるような素敵な旦那様だと思う。
「ありがとう」
「仕事してたの?」
「いろいろ、やらなきゃいけない事があるの。先に食べてもらってもいいかな。実は胃の調子が悪いの」
申し訳なさそうに康介に謝った。
だけど離婚のことを考えながら鰻を食べられるほど胃は頑丈ではない。
「大丈夫?昨日食べ過ぎたのかな?夜の予約は延期しようか」
「ん……当日だから、キャンセル料がかかるんじゃないかな?せっかくだし、行きたいわ」
雪乃は康介が買ってきた自分用の弁当を冷蔵庫に入れて、明日食べるねと言った。
夫が昼を食べている間に、まとめた資料をプリントアウトする雪乃。
康介に食後の緑茶を淹れた。
抹茶の粉末が茶葉に混ぜてあるらしい物で、京都から取り寄せた物だ。
雪乃が気に入って買っていたが、自分がいなくなったら康介はわざわざネットで注文しないだろうと思った。
全てが思い出になっていく。
リビングのソファーに座る康介。
向かいに座る雪乃。
「改まって、話って何?」
緊張するなと冗談めかして言いながら、康介は雪乃を見る。
「康介さん。私は29歳になったわ。3年間一緒にいてくれてありがとぅ」
「いや、なんだか真面目にそんなこと言われても照れるんだけど。こちらこそありがとう」
「私はとても幸せだったし、今も変わらず、あなたを愛しているわ」
「ああ。俺も雪乃を愛してるし、一緒にいられて幸せだよ」
康介の表情が緩んだ。
康介のこの顔が好きだったなと雪乃は思った。
***************************
雪乃は先程打ち込んだ用紙を康介の前にそっと出した。
「康介さん。離婚しましょう」
「……え?」
康介は虚をつかれたように驚いて目を見張る。
そして雪乃がプリントアウトした用紙に目を通す。
離婚までにするべきこと、今後の予定と財産分与の内訳が書いてある。
「この部屋は、賃貸だし、今まで全ての費用を康介さんが払っているからそのままでいいと思う。私は新しく住む部屋が見つかり次第引っ越すわ」
康介は何も言わずに用紙をめくっている。
「家具や家電はそのままここに置いていく。私が買った物、ドレッサーとか本棚とかは私が持って行くわね。食器や調理器具は半分持って行かせてもらうわ、量も多いし邪魔になるだろうから」
「……ちょ、ちょっと待って」
「もう決めたから、私は大丈夫よ」
「冗談だよね?」
康介は険しい表情になり、焦りが伝わってくる。
「冗談じゃないわ」
しっかりと意志を伝えた。
「……な、なんで?」
康介の額に汗が滲んでいる。
雪乃はできるだけ、落ち着いて話ができるように呼吸を整える。
「康介さんは浮気をしているわ。私は自分が身を引きます。だから浮気なのか本気なのかは分からないけど、彼女との新しい人生を考えて下さい」
「は?何を言っているんだ」
「私は、自分に何が足りなかったのか、どこがいけなかったのか分からないわ。だけど、康介さんを大好きだったから、その気持ちは大事に持って行きたいの。嫌いになったり、責めたり、恨んだりしたくない」
「浮気なんて、何かの間違いだし。俺は雪乃を愛している。何か勘違いしてるんじゃないか?」
「勘違いはしていないし、嘘をつくあなたの姿は見たくない。慰謝料とかはいらないし、そこに書いてある通り、相手の方にも請求するつもりもないわ。ただ、離婚届にサインして、離婚すればいいだけ。弁護士に頼んだり、浮気調査に身を削ったり、ダラダラこの状態を続ける事は避けたいの」
「俺は……雪乃と離婚するつもりはない」
「あなたが拒否すれば、それだけ時間も労力もかかってしまう。無駄な時間は必要ないわ」
「無駄な時間ってなんだよ」
「私たちは半年ほどレスだったわよね?昨日はあなたと浮気相手の女の人がホテルに入って行くところを見たわ。出てくるまで待っていたの。動画も撮った」
「っ……それは……」
顔面蒼白とはこういう事だろう。
急所を衝かれ、狼狽している夫の姿は見たくなかった。
「大丈夫。責めるつもりはないの。許す許さないの問題でもないの。私から気持ちが離れてしまったんだなと思った」
康介は言葉を探しているようだ。
時間が過ぎていく。
第5話
「彼女とは……本気じゃない。ただの遊び……言い方は悪いかもしれないけど、ただの気まぐれで関係を持ってしまった。本当にごめん」
康介さんはソファーから降りて雪乃に土下座した。
「そうなのかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。私はあなたじゃないから分からないわ」
「彼女とは別れる。もう二度と間違いは犯さない。本当にすみません。申し訳なかった」
浮気を許すかどうか、ネットにはあらゆる人の意見が書いてあった。
もし、康介が過ちを認めてやり直したいと言ったらどうするのか。
それも考えた。
「スマホを見せてくれる?」
「スマホ……見せるのは良いけど、相手の人とのログは、その都度削除しているから残ってないんだ」
雪乃は手を差し出した。
間違いを認め許しを請うなら、スマホは渡せるはずだ。
「相手の人と揉めようとは思っていないわ。慰謝料請求したりもしない」
康介はスマホのロックを解除して雪乃に渡した。
最近のラインのやり取りが残っている。雪乃の次に表示されているこの人が浮気相手だろう。
「確かに、何も残っていないわね小林真奈美さんっていうのね。彼女のことを教えてもらってもいい?」
「ああ、分かった」
康介は腹をくくったのか、ゆっくり話し始めた。
「彼女は大学の時のサークルで一緒だった同級生だ。当時彼女は恋人がいて俺は彼女に片思いしていた。学生の頃彼女と体の関係はなかった。当時、こんな綺麗な子が彼女だったらいいなと憧れていた」
「そうなのね」
そんなに前から知り合いだったのかと知って驚いた。
十年以上昔だろう。もしかして、ずっと……続いていたの?
「一年前、偶然彼女を町で見かけて、その時連絡先を交換した。彼女は結婚していて、子供も二人いたし、ただ懐かしい友人という立場で話をしただけだった」
「友人ね」
「彼女は、自分の実家近くにマイホームを建てたと言った。けれど、ご主人の単身赴任が決まったらしい。寂しいと言っていた、子育ての悩みも相談する相手がいないって」
話を聞いても納得できないなと感じた。
康介さんは男性。子供もいない康介さんが、子育ての悩みに答えられるわけがない。
「そうやって何度か会ううちに、体の関係になった」
「水曜と金曜が逢瀬の日ね」
ノー残業デイなはずの水曜日、康介は必ず接待だと言って深夜に帰宅していた。
金曜も遅い日が多かった。
「いや、そんなに……水曜は会っていた。金曜はご主人が帰ってくるときは会わなかった」
「半年前から体の関係があったのね」
雪乃と康介のセックスレスが始まった時期だ。
「……ああ。そうだ」
康介は頭を垂れた。
「相手の人も結婚していたのね」
昨夜見た彼女は、ワンピース姿で、フェミニンな感じの可愛らしい女性だった。
雪乃より年上で、しかも子持ちの主婦だとは思ってもみなかった。
「彼女とは別れる。今後一切、二度と会う事はない。頼む、離婚だなんて言わないでほしい」
「彼女を愛していないの?」
「愛していない。俺が愛しているのは雪乃だ。彼女とは、ただの遊びのつもりだった。ご主人と離婚するわけでもないし、彼女もほんの出来心だった。子供がいるんだし、彼女も俺とは遊びだと割り切っている」
スマホの画像に彼女との写真は残っていない。康介さんは証拠を絶対に残していないだろう。
雪乃は康介のスマホから彼女にメッセージを送った。
─────《ラインのメッセージ》─────
雪乃『急だけど、今日の6時からエグゼホテルのディナーを予約してるんだけど行かない?』
彼女と昨日会っていたわけだから、真奈美さんのご主人は週末こっちに帰って来ていないだろう。
ならば土日、彼女は家にいる可能性が高い。
真奈美『どうしたの?今日は奥さんの誕生日ディナーだって言ってたじゃない?都合が悪くなったの?』
雪乃『妻が急に実家に帰らなくならなくなった。キャンセルするのはもったいないから、行ってきたらと言われた。時間が取れるなら君はどうかなと思って』
真奈美『そうなのね。両親に子供たちを預かってもらって、行くわ』
雪乃『良かった。ホテルの37階スカイレスト、ランシャノアールに6時。河津の名前で予約している』
真奈美『分かったわ。昨日も会ったのに、今日も会えるなんて楽しみ。泊まれるの?』
雪乃『部屋も予約してる』
真奈美『両親に、泊りで預かってもらえるか聞いてみるわね。ありがとう。好きよ、愛してる』
雪乃『じゃぁ、6時に待っている』
───────────────
雪乃は康介に成りすまして彼女にメッセージを送った。
そしてキッチンへ行って、タオルにくるみ肉叩きハンマーを持って来た。
「康介さん、真奈美さんにメッセージを送ってみたから読んでくれる」
康介は自分のスマホを見て、真奈美さんと雪乃のやり取りを読んでいく。
驚愕した表情で雪乃を見た。
「な、なんで……!」
最後まで読んだところで、康介が彼女に連絡しようとしたのでスマホを取り上げた。
そして夫のスマホをテーブルの上に置き、ハンマーで液晶を割った。
ガシャ!
「うわぁ!」
康介の肩がビクンと上がる。
壊れた自分のスマホを見てなす術もなく康介は青ざめていた。
「弁償するわ」
「……なんて、ことするんだ……」
『絶望』とはこういう時に使う言葉なのかもしれない。康介は頭を抱えて目を閉じた。
「これで、彼女とは連絡が取れないでしょう。けれど、彼女は時間がくればレストランで待っている。泊まる準備をしているかもしれないわね。お子さんを実家に預けて、あなたが来るのを楽しみにずっと待っている」
「君は……」
「離婚しましょう。きっと康介さんは私をもう愛する事はないでしょう。彼女のところへ行ってあげて。待ちぼうけは可哀そうよ」
康介は振り返って壁の時計を見た。
今は3時だ。
「こんなことをしなくても、真奈美とはちゃんと別れた」
「私は、彼女と別れてなんて言っていないわ。私と離婚してと言っているのよ。申し訳ないけど、次の住まいが見つかるまで、多分長くても2ヶ月。それまではここに住まわせてほしいの」
康介は何も言えずにただ黙っていた。
「私たちには子どもがいないし養育費の必要もないわ。私は自分で仕事をしているし、これからの生活に困るわけでもない」
「君はそれでいいの?俺を愛しているって言ってくれただろう」
康介の目に涙が潤んでいるような気がする。
「ええ。愛しているの。でも、一方通行じゃ駄目でしょう」
「……俺は、離婚したくない。時間をかけてちゃんと話し合おう」
雪乃は首を横に振った。
第6話
雪乃は呆れたように短くため息をつくと話し始めた。
「彼女の旦那さんに、あなたとの不倫関係がバレたらどうするの?もし、そのことが原因で、ご主人が真奈美さんと離婚するって言ったらどうするの?慰謝料だけあちらに支払って済む問題じゃないわよね」
「そんな事にはならない。彼女は離婚するつもりなんてない。子どももいるんだ。家だって、ローンを組んで買ったって言っていた」
「ローンを組んで買ったマイホームも手放して、子供は……小さいから育てるのは奥さんのほうよね?仕事はしていないでしょうから、母子家庭で福祉のお世話になって一人で真奈美さんは頑張っていくのよね?」
「そんな……大げさなことにはならない」
「あなたは無責任にも、彼女を放置して、離婚の原因になったにもかかわらず、私と幸せに結婚生活を続けるの?」
「だから、ご主人には関係はバレていないし、子供がいるのに簡単に離婚なんてしない」
「……康介さん。私からは何も言わないし、関係をバラしたりしない。だけど、彼女はあなたを愛しているかもしれないし、離婚してもいいと思っているかもしれないでしょう。さっきのメッセージにもそれが伝わるような文面があったわ」
「遊びだから、彼女もそんな言葉が言えるんだ」
「彼女が離婚したら、あなたは責任を取って彼女と再婚してあげるべき。子供が二人もいるんだし、今から私と子どもを作る必要もない。私は、揉めずに、できるだけ円満にあなたと離婚したいの。もういいでしょう」
「彼女の子供は俺の子じゃないだろう。もっと考える時間を持ってくれ、時間が経てばもっと冷静に物事を考えられる。離婚だとか簡単に言わないでくれ。雪乃と過ごしてきた3年は何だったんだ」
それをあなたが言うの?
「30歳までに私たちの子供を産みたかったわ。昨日は私の誕生日だった。そろそろ子どものことを話し合えるかなって思ってた。あなたがしたのは、ただの浮気なのかもしれない。無かったことにすればそれでいいのかもしれない。でも、私はあなたの愛情に縋ってしか生きられない人間になりたくないの」
「どちらか片方に縋るんじゃない。お互い支え合って生きていくんだ」
それが裏切られたんだから、どうしようもないじゃない。
「かっこ悪いでしょう。愛した人が別の人を愛してしまったんだから、私はあなたを諦めることを選ぶの」
「だから、俺が愛しているのは君だけだ」
「どうするの?もうすぐ準備して家を出なくちゃ間に合わないわよ。真奈美さんがホテルで待ってるわよ?」
行かないという選択肢があることに康介は気付くだろうか。
「……携帯を壊したりしなければ、連絡できたのに……」
「そうね。弁償するわ」
「そういう問題じゃない!彼女と別れ話をしに行ってくる。雪乃も少し冷静になってもう一度ちゃんと考えてくれ。俺との夫婦生活に不満はあった?お互い愛し合いっていたし思い合っていたと思う。君を大切にしていた」
康介は自分の部屋へ何かを取りに行き、包装された包みを雪乃の前に置いた。
「君の誕生日プレゼントを用意したんだ。今日、ホテルで渡そうと思っていた」
(いらないわよ)
昨日彼女と抱き合って、今日は妻にプレゼントを渡す。
そんな調子がいい夫を軽蔑する。
康介を信用できないのは当たり前だ。
そして、こんなに大事な話をしているのに、遊びだと言っていた浮気相手に会いに行こうとしている。
いくら妻が行くように勧めたからと言ってもだ。
彼女を放置したらいい話だけど、それを康介はしないだろう。
二度と会わないと言ったあなたは真奈美さんに会いに行くのよね。
愛していると言った妻を置いて。
第7話
マンションのリビングに一人残された雪乃。
茫然とした状態でソファーに座っている。
(康介さんは、今頃別れ話でもしているのだろうか)
そう思いながらパソコンを立ち上げた。
なんとなく浮気相手の名前を検索する。
大学名、年齢は分かっている。
SNS更新はされていないが、昔のFBから結婚式の写真を見つけ出す。
旦那さんと奥さんの結婚式の様子だ。彼女は純白のウエディングドレスを着ている。
可愛い感じの人だった。自分とは真逆のタイプの真奈美の姿に驚く。
(この人が康介さんが好きな人なんだ。私と違って、女の子らしく可愛いアイドルのような顔をしている)
康介は学生時代、彼女を好きだったと言っていた。
どちらかというと雪乃は背が高く、目は大きいが吊り目がち。クールビューティーと学生の頃は言われた。
雪乃は冷たそうに見えるからという理由で、雪女というあだ名をつけられたこともある。
見た目も雰囲気も全く違うのに、夫はなぜ自分と結婚したんだろうと不思議に思った。
康介の帰りを待つのをやめて、荷物の整理を始める雪乃。
帰ってくるかどうかわからない人を待つのは辛い。
そんな思いをするくらいならビジネスホテルに泊まったほうがマシだと思った。
どのみち、もう康介と同じ部屋の同じベッドで眠ることはできないだろう。
雪乃は他の女を抱いた夫の横で眠りたくはなかった。
しばらくの間ビジネスホテルに泊まろうと決めた。
ひと月、会社の研修でホテル住まいだった事もあるから、問題はないだろう。
なにも、新しいアパートが見つかるまで康介と共に暮らす必要はない。
その考えにたどりつくと、着替えと化粧品をスーツケースに詰め込んだ。
夫は水曜と金曜、月にだいたい6日彼女と会っていた。
休憩だとしてホテル代が3~4万。食事もしているだろうから、交通費も入れて7万くらいだろうか。
職種が経理だから、思わず計算してしまった。私のために使われたお金じゃなく、彼女と楽しむために使ったお金なんだなと思うと腹が立つなと思った。
「旅行とかにも行ってたのかな……?」
考え出すとキリがない。
さっき康介との話の最中、冷静でいた自分に少し驚いた。
「私って肝が据わっているのかしら」
もともと雪乃は感情をあまり表に出さないタイプだ。
冷たいと言われたこともあり、それで誤解されることも多かった。
けれど感情はある。
辛く哀しい想いだって人間なんだからあるに決まっている。
**********************
帰って来て雪乃がいなくなっていることに気がついただろう夫からの連絡はなかった。
そもそもスマホを壊してしまったから、連絡のしようがないだろう。
パソコンに同期していたら番号くらいは分かっていると思うけど。
そんなことを考えながら、雪乃はビジネスホテルで賃貸住宅情報を検索していた。
トゥルルルル、トゥルルルル……
ホテルの部屋の電話が鳴った。
『河津康介様というお客様がいらっしゃっています』
受付からの電話だった。
どうやって自分の居場所を突きとめたのか雪乃は分からなかった。
連絡せず、直接宿泊先に来る強硬手段は康介の決意表明のような物なのだろう。
長期滞在できて、価格的にも安く雪乃の会社に近いホテルと考えればだいたい察しはついたのかもしれない。
けれど、ビジネスホテルが混在しているこの地区で、泊まっているホテルを特定するのは難しかっただろう。
受けて立つしかないが、雪乃は流されるタイプではない。
静かだが自己主張はするし、怯えて何も言わない性格でもない。
『行きます』
部屋に招くのもどうかと思い、下に降りていく事にした。
雪乃が家を出ていってから5日が経っていた。
康介は仕事帰りに来たのだろう。
時間は夜の8時だった。
第8話
食事とお酒が飲める静かな和食店の個室に康介と共に座っている。
接待で使った事がある店なのか、高級感がありお洒落だった。
「夕飯は食べた?」
「ええ。食べたけど、何か軽く頂くわ」
「分かった」
康介は適当に注文をし、お酒はどうするか雪乃に訊ねた。
一杯だけ付き合うつもりでビールを注文する。
康介が何を話すのか気になった。
外での食事だから険悪なことにはならないだろう。
お互い大人だ冷静に話ができればいいと雪乃は思った。
「スマホを修理した。というか新しく買いかえた。データはそのまま移行できたよ」
「そうなのね」
「弁償してもらう約束だからね」
雪乃はふふふと笑った。
まさか最初の会話が、スマホの弁償の話だとは思わなかった。
「彼女と別れたよ」
「そうなんだ。すんなり別れられたんだ?」
「正直言うと、そうでもなかった」
やはりそうかと思った。
真奈美さんは少なくとも康介に恋愛感情を持っていた。
そうでなければ、子供を預けてまで会いに行ったりはしないだろう。
「私は巻き込まれたくないから、できるだけ早く離婚届にサインして欲しいの。今日、持って来たわ」
鞄の中から封筒を出した。私の分は記入済みだ。
「俺は、離婚するつもりはない。というより、もう一度チャンスをくれないか?」
無理だというより、嫌だった。
長引くのも嫌だし、彼が私との結婚にこだわる意味も分からなかった。
「住む場所もそうだし、会社関係の手続きもなんだけど、ちゃんと離婚してもらわなくては困るの」
「ああ。わかっている。だけど、俺は君と離婚する気はない。だから、離婚しないで済む条件を出して欲しい」
ネゴが得意な康介らしい言い方だなと思った。
*****************************
飲み物と料理が来た。
冬筍穂無、里芋田楽、黒豆みぞれ寄せがお上品な小鉢に盛り付けられていた。
デートで訪れたとしたらきっと素敵だっただろうなと雪乃は思った。
「なぜ康介さんが私との結婚生活にこだわるのか分からないわ」
乾杯はせずに、ビールを一口だけ飲んで康介さんに訊ねた。
「愛しているからだよ」
康介さんはこれからの話の中で、この甘い言葉を連呼するだろうと想像がつく。
「半年も妻を抱かなかったのに?」
「ああ。抱かなかったけど、君を愛している」
「体と心は別物だって言うけど、男性の言い訳にしか聞こえない文言よね」
雪乃はわざと嫌味っぽく言ってみた。
「言い訳というより、実際俺の場合、体の関係は愛がなくてもできた。けして許される事じゃないのは分かっている。本当に必要なのは君だって気付かされた」
「後悔先に立たずってよく言ったものだわ」
「ぐうの音も出ないよ」
笑い話にはさせない。冗談で済まされる話ではない。
「康介さんを責めたくないけど、遊びで他の人を抱いたあなたの事は軽蔑するわ」
「君は俺を愛していると言ってくれた。だから、それに縋りたいと思っている。もう嫌いになったのかもしれないけど。もう一度だけチャンスが欲しい」
「あなたのことは本当に大好きだった。こんな素敵な人、他にいないと思う。理想の旦那様よ」
「それなら……」
「その愛する人を繋ぎとめられなかった自分に嫌気がさしたの。身を引こうと思った。あなたは他の人でも愛せるんだろうって思った」
「体だけの関係だった。もう二度としない」
この話には終わりが来ないだろう。
雪乃は一気にビールを飲んだ。
埒が明かないし、無駄な時間だ。
****************************
康介の話に流されないよう、いったん別の話に切り替えた。
「私の居場所、よく分かったわね」
「あらゆるホテルに電話しまくった」
康介さんの、まさかのアナログ戦法に驚いた。
彼女との別れ話に雪乃との離婚問題、妻の捜索。
そこまで康介さんが必死になるほど、自分の存在が大きかったとは雪乃には思えなかった。
「結婚生活にそれほど重きを置いていたとは思えない。戸籍にバツが付くことがそんなに嫌なの?」
「戸籍がどうなろうが問題はない。ただ、離婚すれば君とは夫婦でいられなくなるだろう。俺は雪乃と他人になりたくないし、雪乃が別の人生を歩むのも嫌だ。俺と一緒にいてほしい」
ただの自己満足なのだろうか。
雪乃は康介がどれほど自分を傷つけたのかを知ってほしいと思った。
「離婚……離婚しないで済む条件を出して欲しいって言ったわね?」
「ああ。君と離婚しないで済むならなんだってする」
「じゃぁ、この先半年間、私が浮気をするわ」
「……え?」
「私が、他の男性に抱かれるの」
「それは……いや、そんな事君ができるはずがないだろう」
思っても見ない言葉に康介は唖然とする。
雪乃からそんな条件が出るなんて考えてもみなかったのだろう。
「できる」
「……や、できない。雪乃はさっき、遊びで他の女を抱いた俺を軽蔑すると言った。軽蔑するような事を君がするはずはない」
雪乃はどうかしらというふうに首を傾げた。
「私はこの先半年間、水曜と金曜に他の男性に抱かれるわ。食事に行ったりデートしたり、旅行に行くかもしれない」
「俺は旅行には行ってない」
「そんなの知らない」
「雪乃は他に好きな人がいるの?」
「いいえ」
「なら、そんな無茶なことできるはずがないだろう」
できるわ。体の関係は、愛がなくてももてるってあなたが言ったんだから。
第9話
会社の慰労会が行われた。
大規模な物だったが、年末でクリスマスの時期と被ったので参加者が限られていた。
雪乃はメーカーの財務部、経理課に所属している。
「家族がいるとか、彼女持ちの人は参加してませんね」
雪乃は苦笑いしながら職場の上司である前島に話しかけた。
「まさに、寂しい者たちの集まりだ。『慰』は、なぐさめるとも読むだろう。相手の気持ちをいたわり労うための会だな。よし、君たちは俺をねぎらえ」
部署の課長の前島は36歳、バツイチで現在独身。一見チャラそうに見えるが、浮いた噂はない。
離婚してお子さんを引き取っていると噂で聞いた。
前島は仕事ができ人望も厚い、いつも冗談を言い場の空気を和ませてくれる。
雪乃にとっては尊敬できる頼もしい上司だった。
会場は島が分かれていて、このテーブルは前島と雪乃、そして綾の3人だけが座っていた。
綾ちゃんは前島課長に住まいを聞いていた。
「前島課長は、会社近くのアパートに住んでますよね」
「会社から2駅、駅近、格安、住人少なめ、緑多め。最高の賃貸物件に住んでいる」
「なんですかそれ、凄くないですか?」
「築50年の団地なんだよ」
笑いながら生ビールをぐびぐびと飲む前島。
男性特有の喉仏に雪乃は目がいく。
「50年って、なんか凄そうですね」
「壁にさ、水道とかガスとかのパイプがむき出しについてるんだ。なんていうか凄いレトロ?」
綾がレトロという表現に喰いついた。
「レトロって使い方で合ってるんですか?」
「家賃6万の3LDKなんだけど、完全にリノベーションしてあるから、キッチンとかバスルームとか最新だし、何より2階のベランダからすぐに緑が見えるんだよ。壁も漆喰でお洒落だし、賃貸だけど売っているなら買いたいレベル」
「なんですか、それ魅力しかないじゃないですか。先輩いい物件ゲットですよ」
昨日私は夫が不倫して離婚するかもしれないと綾ちゃんに話した。
綾ちゃんに「先輩!この前話したこと地で行く?」と、言われた。彼女の軽いノリは今の私にとっては励ましだった。
前向きに行きましょう!応援します!と言われ、強力な味方を得た気持ちになった。
「築50年だし、古すぎて人気がない。全部がリノベーションしている訳じゃないから、他はもし住むのなら自分でリノベする必要が出てくる」
「売りに出てないかな、リノベ済みのやつ」
「なに?河津さん引っ越しするの?」
「もし、一人になったら住む場所が必要ですから」
「え!マジで?」
前島は驚いてジョッキを置いた。
「もしもの話です。新しく自分の住むアパートなりマンションなりを探しておけば、いざという時、素早く動けますから」
「うわ、そうなんだ……バツイチ仲間が増えるかもしれないな。よろしくな」
「課長もバツイチでしたよね。もしもの時は、先輩としていろいろご教授頂ければありがたいです」
「雪乃先輩、今の時代バツイチなんて珍しくも何でもないんです。逆にモテたりしますからね。これからは合コン誘いまくりますね」
お酒も入っているせいか、綾の明るさに気分がよくなる。
落ち込んでても仕方がない。前に進んで、これからどんどん新しい出会いを求めていこうと思う雪乃。
「急いで物件探さなきゃいけないの?」
少し真面目な様子で前島は雪乃に訊ねた。
「一応半年後をめどに考えています」
「そうなんだ。不動産屋さんに聞いてみるか?良かったら俺の部屋、見学してもいいけど。セクハラ案件ではないぞ親切心でだ」
「ああ、そういう心配はしてません。課長は対象外ですから」
「それ酷いな、ちょっと落ち込むんだけど」
「確か、前の奥さんとの間にお子さんいらっしゃいましたよね」
「そうなんだよね。可愛い息子を育てているよ」
「父子家庭ですね。課長は、なんていうか優良物件ではなく、事故物件的な危うさを感じます」
「綾ちゃんそれは……課長、お気になさらず。綾ちゃんは酔っぱらってます」
「綾ちゃん、言っとくけど、ボーナスの査定ね俺が出してるからね、減っちゃうかもしれないよ」
「パワハラって言葉を知っていますか?」
綾ちゃんはお酒のペースが速かったせいか目が据わっている。
「綾ちゃん、俺も今、酔っぱらっているからね。大丈夫だ、ある程度は無礼講だ」
「課長、雪乃先輩が美人だからって狙わないで下さいね。まだ離婚してませんから、今の状態で口説いたら不倫になります。時間をかけてゆっくりモノにして下さい」
「よし、そうしよう」
ハハハと笑って、前島はウーロン茶を注文する。
綾のための物だろうと思った。
雪乃は冗談とも本気ともつかない二人の言い合いに愛想笑いで相槌を打った。
第10話
康介は雪乃の条件を呑んだ。
康介は今後雪乃に嘘はつかない。
真奈美さんとは連絡も取らないし二度と会わない。
半年間妻を抱かない。これは半年間雪乃とはレスだったからだ。
その半年の間に雪乃は他の男性と浮気をする。
それに対して文句は言わず、質問は一切しない。
雪乃は康介がやっていた事と同じことをするだけだ。
それに康介が耐えられ、尚且つまだ私との結婚生活を続けるつもりなら、離婚はしない。
約束を守ってくれるなら、元通りの生活に戻ると約束をした。
そして水曜の夜、雪乃は前島のアパートへ来ていた。
「いいだろう。結構広いし何より住人があまりいないから静かだ」
住人がいないのは、人気がない物件だという事だろう。
「静かでいいですが少し怖いかもしれません」
「確かに女性の一人暮らしに向いているとは言い難いかもね」
前島さんは冷蔵庫からビールを出してくれた。
駅前で牛丼をテイクアウトしてきて、二人で食べることにした。
「お子さんにと思って、お土産を買ったんですけど今日は留守ですか?」
「義実家が近いんだ。小学校に入学する事になったから、学区の事もあるし平日はそこに住んでいる。土日はこっちで過ごしている感じだな」
「おじいちゃんおばあちゃんと一緒なんですね。それは有り難いですね。前島さんが時短勤務ってわけにもいきませんしね」
お土産は渡しておくよ。ありがとうと言って彼は笑った。
「よかったら、ご主人と何があったか聞くけど?いい助言ができるかは別だが」
「そうですね。前島さんに聞いていただこうと思ってました」
リノベーションされた物件を見てみたかったというのもあるが、離婚経験者の彼に夫のことを相談したかった。
別に隠し立てするつもりもなかったが、前島にだけしか話せない内容もあった。
雪乃は今まで自分に起こった事を全て前島に話した。
「なるほど……なんていうか、君ら夫婦はかなり拗らせてるね」
妻が他で浮気をしても構わないという契約をしたというくだりは、前島さんを驚かせた。
雪乃は、前島となら一線を越えられるような気がしていた。
「心と体は別物だという夫の心情を理解し、同じことを私がしても彼がそれを許せるのなら復縁という話をしています」
「そんな無茶苦茶な条件、旦那さんよく呑んだな」
「嫁が他の男に抱かれるんです。普通なら許せない。けれど、離婚しないで済む条件を提示するよう彼が求めましたので……」
前島さんは頷いた。
「よく分からないんだけど、普通なら許せないだろう浮気をして、河津さんは最終的にご主人と離婚するわけ?それとも、旦那が君の浮気を許せば元サヤに戻るのが目標?」
「それが、自分でもよく分からないんです。自分が愛する人以外に抱かれることができるのかも分からない」
支離滅裂な内容に、自分でも何を言っているのだろうと思ってしまった。
「で、河津さんはその体を許す相手に俺を選んだわけ?」
雪乃はそうですと頷いた。
「前島さんは今後結婚するつもりないでしょう?お子さんを大事にしてらっしゃいます。今まで、いろんな女性が前島さんを口説こうとしていましたよね?職場でモテているのは知っていました。けれど、真剣に交際するつもりはないとすべて断っていることも知ってます」
「よくご存じで」
そう言って前島は缶酎ハイのプルトップに指をかけた。
「お金を払って、女性専用の風俗みたいな場所に行こうかと思ったんです。いろいろ調べました。けれど、私はあまり性欲がないというか、それ自体に魅力を感じないし、ちょっと嫌で……けれど、前島さんとなら一線を越えてもいいかなと思ったんです」
前島は雪乃の言葉を聞いて酎ハイを吹き出した。
「まぁ、嫌なもんに金を払う必要はないよな。ってか、河津さんってそんな人だったんだね。あ、これは別に悪い意味ではないよ。なんていうか、もっと真面目で冷静に物事を判断するというか、どちらかというと冒険心はなさそうなタイプにみえた」
「冒険なんでしょうかね……」
「う……ん?なんていうか、君を抱くことはやぶさかではない。けど、ご主人以外の男に体を触られるんだぞ?平気なの?」
前島さんは右の眉を上げて雪乃に問いかけた。
「そうですね……やってみないと分からないです。ただ、そういう行為がしたいかと言えば、あんまりしたくないかな」
「なんだそれ、ならば、しなくていいだろう。した振りでもしておいたらどうだ?金払ってまで無理にしなくていいだろう」
前島さんは呆れたようにそう言うと黙り込んだ。
雪乃は彼を怒らせてしまったと思い、話したことを後悔した。
第11話
けれど前島さんは、少し考えた後、『協力をしてもいいけど』と続けた。
「俺は、子どもがいる。男の子で名前は太陽。妻とは死別だ。5年前に事故で亡くなった」
離婚じゃなくて奥さんとは死別だったんだ。
初めて聞いた話だった。
雪乃はなんと言っていいのか言葉が出なかった。
「妻を愛していたし、今でも彼女の事は忘れられない。この先結婚するつもりもない。いや、まぁ、先のことは分からないが、とにかく一番大事なのは太陽だ」
「なんか……すみません。私の話なんか、くだらないですよね」
凄く重い話をされて、軽率な自分が恥ずかしくなった。
「くだらないというか、簡単に自分の体を好きでもない相手に許すのはちょっと違うような気がするな」
「心と体は別という真偽を確定するために、実践してみようかと思ったんです」
何だそれと前島さんは笑った。
「性欲的なことで言うと、男性と女性で違うのかもしれないな。人によるのかもしれない。少なくとも河津さんは誰にでも体を許せるタイプではないと思う」
「そうなんですかね……」
「俺だって、男だし。まぁ、性欲はあるから風俗に行ったりするし、一夜限りの女性と関係を持ったこともある。妻が亡くなってずいぶん経ったから、いつまでも自分で慰めてるって訳にもいかないしな」
「そう……なんですね。亡くなった奥様に操を立てているとかいう訳ではないんですね」
「そうだな。男だしって言ってしまうと、ご主人と同じかもしれないな」
操を立てるって男にも使う言葉だっけ?と言いながら前島さんは立ち上がった。
冷蔵庫から酎ハイのおかわりを出し、雪乃にも一本持って来てくれた。
「今日は水曜日だし、河津さんが遅くに帰ったら、ご主人は浮気したって思う?」
「はい。そうかもしれません」
「実際、体の関係がなくても、水曜と金曜だっけ?は、うちに来ればいいよ。ただし条件がある。お手伝いさんだ」
「お手伝いさん?」
「そう。河津さんは家事代行のお姉さんだ。太陽もこの家にいる事があるから、表向きは家事代行のお姉さん」
「家事労働を私に強いる訳ですね」
「そういう事。晩飯を作ってくれたら嬉しい。材料費は出す」
「夫には浮気をしてきたと思わせる事ができるし、一石二鳥という訳ですね」
「いや、そうでもないな。だってさ、そんなことしなくても水曜と金曜はどこか別の場所で時間をつぶせばいいだけだし、河津さんがわざわざ家事するためにうちに来る必要はないだろう」
「そうですね」
「だから、俺は出張ホスト、なんだ……女性専用風俗のキャスト?になるよ。本番は有りでも無しでもいい」
「え……と?」
「だって、河津さん。俺に抱かれてもいいって思ってここに来たんだよね?分からないとは言ってたけど、相手として俺ならば一線を越えられるかもしれないって思ったんだよね?」
「そう……ですね」
前島さんになら抱かれる事ができるかもしれないと思ったのは確かだ。
やってみなくては分からない、それをお願いできるのが前島さんだと思った。
「OK、じゃあ、河津さんが望まない限り一線は越えない。けど、嫌じゃなければ体を触る。体と心が別だと確かめてみればいい。もし、無理なら、河津さんは体と心は一緒の人間なんだ。無理強いはしない。けれど、君が望むなら……抱くよ」
一気に心臓がドキドキしだした。
私は、前島さんに抱かれるのか……
「もう一つ条件がある」
「えっ、条件?」
「俺との関係、半年間だっけ。その間、絶対に旦那に抱かれないこと」
「夫に抱かれないこと」
「そうだ」
「それならば、問題ないです。私たち夫婦はセックスレスでした。もう半年以上も夫との間にそういう事はなかったので」
前島さんは少し驚いたようだった。
「うわぁ……もったいないね」
そう言って、前島さんはニッと笑った。
第12話
それからしばらくして、雪乃の仕事場に電話がかかってきた。
相手は康介の不倫相手だった小林真奈美だった。
取引先のふりをして雪乃に電話をしてきたのだ。
『会社に電話してしまい申し訳ありません。どうしても、会って謝罪したいのでお時間をいただきたいです』
『謝罪は結構ですし、職場に個人的な電話をしてこられるのは困ります』
『連絡手段がこれしかなく、仕方なくこういう方法を取らせて頂きました。どうか一度お会いできませんか?仕事が終わる時間帯に会社の近くで待たせて頂くこともできますので』
『それは迷惑ですので、やめて下さい。こちらから改めて電話しますので』
なんて常識のない人なんだろうと驚いた。
謝罪はいらないし会いたくはない。
けれど、考えてみると、もしかして彼女は怯えているのかもしれないと思った。
慰謝料請求や、ご主人にバラされると思い謝罪と言っているのかもしれない。
とにかく一度、真奈美さんと会う必要がある。
雪乃は事情を知っている前島さんに相談してみた。
「会社に直接電話をしてくるなんて、少しおかしい人じゃないのか?しかも会社の近くで待っているとか、普通なら有り得ないだろう」
「そうですよね。もしかしたら、ご主人にバラされることを恐れているのかもしれないと思ったんですけど」
「そうだな。その口止めをするために会いたいと言っているのかもしれないな」
「バラすつもりもありませんし、慰謝料請求もしません。関わり合いたくないんですが、それをはっきり言おうと思います」
「河津さんのご主人を呼んだ方がいいのかもしれないな」
康介に彼女から電話があったと伝えたら、彼は彼女に話をするだろう。
そうなるとまた、事が拗れる。
雪乃は眉間にしわを寄せる。
「彼女は謝罪したいと言っているので、とにかく私だけで会ってみます」
事を大きくしたくないし、彼女が謝りたいというのならそうさせよう。
面倒事はさっさと終わらせたい。
「ボイスレコーダーを持っていって。録音した方がいい」
「わかりました」
前島さんは私物のボイスレコーダーを雪乃に貸してくれた。
********************
小林真奈美とは個室のあるカフェで会う事になった。
「この度は、ご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした」
深く頭を下げ彼女は雪乃に謝罪した。
「もう二度と会社に電話はしてこないで下さい。私は今後一切、あなたとかかわりを持ちたくありませんから」
「ただ……聞いてほしかったんです」
なにを?
「私と康介さんは学生時代からの友人でした。ずっと会っていませんでしたが、1年前に偶然町で会いました」
「いえ、そんな事はどうでもいいです。聞く必要がありません」
「どうしてそうなったかを知っていただきたいんです」
なんで?
「ほんとに出来心で、1年前に体の関係を持ってしまいました。やめよう、これで終わりにしようと思いながらも、1年も関係を続けてしまいました。本当にごめんなさい」
「1年……」
康介は彼女と深い関係を持ったのは半年前だと言っていた。
「はい。主人が単身赴任で、ワンオペの育児に疲れていた私を慰めてくれたのは康介さんです。食事や旅行にも連れて行って下さって。子供達にも良くしてくれて。私は彼に甘えていました」
「旅行……子供と会っていた」
そんな話は聞いていない。
いや、雪乃が康介に聞かなかっただけかもしれない。
「誕生日やクリスマスなどの記念日を独占していまいすみませんでした。奥様と過ごされなければならないのに、一緒に過ごしたのも私の我儘です。どうかお許しください」
真奈美さんは目に涙を浮かべながら謝罪する。
謝ってもらった気がしないのは、彼女の言っていることはおかしいからだ。
「あの……何を言っているんですか?」
彼女は、自分がいかに康介と仲良くしていたのかを雪乃に報告している。
「証拠はあります。その都度、写真を撮りましたし、顔を隠していますがSNSにアップしていました。それが私の生きがいみたいになっていて、癒しでした。悪いとは思っていたのですが、彼から想われているという実感が欲しかったんです」
この人はふざけているのかしら?
「SNSにあげていたんですか?」
「え!奥様はご存じなかったんですか?てっきり全て知っていて、それで浮気がバレたのかと思っていました」
いや、知らないわよ。というか、康介も絶対知らないだろう。
彼は、ラインのログも即削除するタイプだ。ネットに上げている事を知っていたら許すはずがない。
「あの、それって私は知リませんでした。今更ですが、アカウントを教えてもらってもいいですか?」
「はい……そうですよね。もう、バレてしまっていますので、教えますね」
第13話
真奈美さんは自分のSNSのアカウントを簡単に雪乃に教えた。
馬鹿でもなければ、自ら不倫の証拠なんて提示しない。
この人は、自分の不倫の写真をわざわざ妻である私に見せたいんだ。
雪乃はそう確信した。
「これが証拠になって、あなたは私から慰謝料請求されるかもしれません」
「それも覚悟の上です。だいたい200万くらいが上限ですよね。1年の不倫ですし。けれど、それは康介さんが払うと言ってくれているので。もう、私には何もできません」
この女の慰謝料を、康介が……支払うの?
嘘でしょう。
「康介とはまだ付き合いが続いているのですか?」
「あの日、エグゼホテルのディナーのときに別れました。康介さんは奥様に関係がバレたので別れると言っていました」
「ホテルのディナーを……もしかして康介と一緒に食べました?」
「はい。最後の晩餐と言いますか、もうお別れだという事で一緒に食事をしました」
離婚を切り出したあの日、彼女に別れを告げに行くと焦ってマンションを飛び出して、エグゼホテルでディナー?食べたの?
信じられない。
「……嘘でしょう」
「ホテルのレストランで、奥さんにスマホを壊されたから、もう連絡ができないと康介さんが言っていました。彼は私の番号を記憶してませんし、今は連絡が取れません」
いや、もうとっくにスマホのデータは復活してるし。
連絡を取ることは可能だろう。
しないのであって、できないわけではない。
「ひとつだけ、大事なことを聞きますね。真奈美さんは、現在のご主人と離婚して康介と一緒になりたいと思っていますか?」
「……ううっ……それは……私には子供がいます。離婚はできません。けれど、康介さんは私にとって一番大事な人で、今でも愛しています。もし、もし……奥様との離婚が成立し康介さんが独身になったら、私は夫と離婚してでも、彼と生きていきたいと思っています」
「は?」
もはや、驚きを通り越して悪寒がする。
「ごめんなさい……ううっ……正直な気持ちです。本当に申し訳ありません」
彼女は泣きながらテーブルに突っ伏してしまった。もうなんか、わざとらしいというか、演技ですよね、としか言いようがない。呆れて物が言えないとはこういう事だと思った。
真奈美さんが泣いている間に、スマホで彼女のSNSを確認した。
アカウント名は『MANA=KOU』1年前に作られている裏垢だ。
行ったレストラン、泊まったホテル。旅行した温泉宿。もらったプレゼント。
私は急いでアカウント情報を綾ちゃんにラインで送って、証拠を確保して貰う。
綾ちゃんはこういった作業は得意だ。
スクショ案件は全て完璧にこなす。
あとから真奈美さんが削除しても、綾ちゃんが魚拓で残す。
もう、完全に終わったわ。
康介さん、あなた地雷女を引き当てたわね。
************************
雪乃は今日の事は康介に話さないと決めた。
弁護士を雇って、彼女を訴えるつもりだ。
もう、事を荒立てず穏便に済ますという考えは雪乃にはなかった。
彼女から宣戦布告されたんだから、なにも遠慮する事はないだろう。
徹底的にやっつける。
準備期間が必要だった。
弁護士を雇い、証拠を揃えなければならない。
康介との話し合いも何度かしなくてはならないだろう。
真奈美さんは慰謝料を支払い謝罪をすればそれで事は終わると思っている。
彼女は自分がしたことを軽く考えすぎている。
康介とは3年夫婦として過ごしてきた。
彼は策士だし、頭もキレる。
けれど、そんな彼が選んだ相手が、子持ちの真奈美さん?
康介はいったい何を思っているのかが知りたかった。
なぜ?どうして?理由はあるはずだと思った。
ただの浮気で遊びの関係の真奈美さんの方が私より優れていたのか。
もう女として雪乃を見られなくなったのか。
真奈美さんの言うことを全て信じれば、康介はまだ真奈美さんのことを愛していて別れたくないと心の中で思っているはずだ。
第14話
雪乃は毎週水曜日と金曜は隔週で前島さんの家へ通うようになった。
前島の子どもの太陽君とも仲良くなり、家事代行の雪乃さんという存在になる。
「雪乃さん今日の晩御飯は何?」
くりんとした目の可愛い男の子が雪乃のエプロンを掴んで訊ねてくる。
リンゴみたいな可愛い頬っぺたも、小さな手のひらも全てが愛おしく感じる。
「今日は、太陽君リクエストのグラタンにしようと思ってるの。エビグラタンとサラダとフライドポテトね」
太陽君はフライドポテトを毎日食べたいという。
揚げ物だからどうかなと思い前島さんに聞くと、週に一度だけだしあまり気にしないよと言われた。
「おばあちゃんの料理はいつも香ちゃんが作るんだけど、煮物や魚が多いから、あまり好きではないんだ」
香ちゃんとは亡くなった奥さんの妹さんだという。
前島さんにとっては義理の妹にあたる人で、独身で実家住みだから太陽君の母親代わりをしてくれているらしい。
「フライドポテトも毎日食べたら飽きちゃうでしょう?」
「飽きないよ。でも香ちゃんはあまりポテトを出してくれないんだ」
「きっと太陽君が健康でいられるように、香ちゃんは考えてくれているのね。私は適当だから、そのうち晩御飯がお菓子になっちゃうかもよ」
「それなら、毎日作ってくれていいよ!お父さんに、毎日来てもらうようにお願いする」
「ふふふ。お菓子の晩御飯になったらお父さんが嫌がるよ。それに、これはお仕事だから毎日来るのは無理なの」
子どもがこんなに可愛いなんて思わなかった。
太陽君が特別可愛いのかもしれない。一緒に過ごす時間が増えると情も湧いてしまう。
一定の距離感は保たなければならないなと自分にいい聞かせた。
****************************
食事の片付けをしている間に前島さんは太陽君を送っていった。
戻ってきたら一緒に晩酌をする。
前島さんと過ごすようになってからのルーティーンだった。
「ここへ来るようになって2ヶ月経つけど、旦那さんは何か言ってる?」
前島さんが訊いてきた。
「そうですね。とことん見て見ぬふりって感じですかね。夫は水曜日、外で食事を済ませているみたいで帰宅時間は私より遅いです」
「雪乃さんより先に帰りたくないのかもしれないな」
いつの間にか河津さんから雪乃さんに呼び方が変わった。
太陽君が雪乃に懐くようにという配慮なのかもしれない。
「多分、私が男性と一緒にいるとは思ってないでしょう。水曜日に何をしているか聞かない約束ですから、聞いてこないです」
「旦那さんは、そんなに簡単に浮気相手が見つかるはずはないと思っているだろうね。まぁ、今のところ健全な関係を保っているしね僕ら」
「そうでしょうね。でも水曜と金曜必ず家を空けるので、定期的に行く場所があるのは分かってると思います」
前島さんは、風俗のキャストになると言ってはいたが、雪乃に手を出してこなかった。
そういう雰囲気にはならない。
太陽君を義実家に送ってから、一時間ほど二人だけの時間がある。
それでも前島さんの食指が動かないのは、自分に魅力がないせいだろうと感じた。
「私は女性としての魅力に欠けるんです。色っぽさっていうか、そういうのが無いんでしょうね。だから夫ともレスが続いてしまって、彼に浮気されたのかもしれません」
「……本当にそう思っているの?」
「なんかね、昔から言われるんですが、高潔って感じなんですって。触ってはいけないみたいな存在らしいです」
「それは、褒め言葉だろう。でも、確かに汚してはならない感はあるな」
「そうなんですね」
ショックだった。
雪乃は特に潔癖症というわけではないし、処女でもない。ましてやシスターとか尼さんでもない。
一般的なアラサーの女だ。
もしかしたら自分はこの先、男の人に触れられず生きていくのかもしれない。
第15話
「時間を置いて、関係を復活させる気でいるのかもしれないわね」
「ん?どうしたの」
康介が風呂上がりにビールを飲みながら雪乃に訊ねてきた。
残業を減らしたのか、彼は最近、早い時間に帰宅する。
康介が先に帰っている時は、雪乃の夕飯を作ってくれていた。
嫁に尽くす旦那作戦だと思うけど、仕事を早く終える事ができたのかと思うと腹立たしい。
今更感が否めない。
雪乃は平穏な夫婦を演じている。
今までと変わらず、仲の良い夫婦だ。
ただ、執拗なボディータッチは心情的に無理だ。
それに愛しているとか、好きだとか、幸せだと口にだして言わなくなった。
「今日はちょっと疲れたの。先に休んでいいかしら?」
「ああ……その……明日って水曜日だよね」
「ええ」
「帰りは、やっぱり遅いのかな?」
「そうよ、接待だから遅くなるわ」
水曜と金曜の雪乃の予定は接待だ。
康介は半年間「今日は接待で遅くなる」と言って不倫していた。
だから雪乃も同じ言葉をそのまま夫に伝える。
訊かれても雪乃は接待としか言わない。
本当のことを言うはずないのに、わざわざ確認してくるのはなんでなんだろう。
「適当に晩飯食って帰るよ」
「そうね。美味しいものでも食べてきてね」
笑顔でそう返事をして寝室へ向かった。
明日は、前島さんと、綾ちゃんと3人で焼き肉を食べに行く。
決起会だ。もちろん雪乃が御馳走する。
雪乃は康介に300万プラス弁護士費用とこれまでに彼女に使ったホテル代など150万、真奈美さんに慰謝料300万を請求する。
***********************
弁護士に依頼して真奈美さん宛に内容証明を送った。
そして、単身赴任しているご主人と真奈美さんの実家宛に彼女の浮気の証拠を弁護士を介して送り付けた。
真奈美さんのご主人が、康介に慰謝料を請求できるよう丁寧に全ての証拠を揃えて送った。
真奈美さんのご主人には、個人的に連絡を取り、康介相手に慰謝料請求して下さいと伝えた。
「自分の責任だから、弁護士費用もまとめて雪乃に支払う」
康介はテーブルに置かれた書類に目を通した。
真奈美さんがカフェで話したすべてを文字に起こし、雪乃は彼に渡した。
SNSを見せて、1年前から関係を持っていた事を証明した。
「彼女の分も慰謝料をあなたが支払ってくれるのよね?」
「そのつもりはないよ。彼女とはもう関係を断っている。ご主人の小林さんから俺に慰謝料請求が来るだろう。その分は彼女の旦那さんに支払う」
「謝罪しに行かなくちゃいけないわね。しっかり謝ってね。真奈美さんはご主人と離婚して、あなたと子供たちを育てるつもりみたいよ。新しい家族と共に頑張ってね。責任を取ってあげなきゃね」
「……真奈美との関係は終わっている。子供は俺の子じゃない。育てるつもりはない」
流石に他人の子どもを育てる気はないのかもしれない。
けれど全て、康介が起こした不始末。
「不倫したあなたは有責配偶者だから私との離婚には応じてもらうわ」
第16話
「君と交わした契約は有効だ」
彼は私の前に離婚しないための条件と書かれた用紙を出した。
一、康介は今後雪乃に絶対に嘘はつかない。
二、小林真奈美とは連絡は取らない。二度と会わない。
三、この先半年間、妻である雪乃と性行為を行わない。
四、康介は半年間、雪乃の不貞行為を容認する。
(それに対して文句は言わず、質問は一切しない。)
五、雪乃は康介が妻の不貞行為に耐え、尚且つこの先結婚生活を継続すると願うなら離婚はしない。
「これは私たち二人の間だけで交わされた契約だわ。有効性はない」
「いや、ちゃんとした物だ。署名捺印もあるし、もし無効だと言うなら裁判で争う」
「民法第754条に『夫婦間でした契約は、婚姻中いつでも夫婦の一方からこれを取消すことができる』とあるわ」
これが「夫婦間の契約の取消権」と呼ばれるもので、夫婦間のことに法律は介入しないという趣旨だ。
「夫婦関係が破綻しているときに契約した場合は取り消せない。僕は不倫した。そして君も浮気を宣言して離婚したいと言っている。これは夫婦関係が波状しているといえるだろう。ということは、契約は取り消せない」
「ああ言えばこう言う。あなたはわざわざ物事を面倒にしているとしか思えない」
この人は交渉が得意だ。意思、利害を調整して合意に持ってくるタイプ。
理詰めで丸め込もうとしてくる康介だが、離婚したくないという彼の思いと、夫婦関係は破錠しているという言葉の意味は相反するものだ。
「君は、この契約を守るなら元通りの生活に戻ると約束をした。契約後、俺は君に嘘はついていない。そして真奈美とも連絡は取っていない。そして三の条件は守っている」
「私はあなたのせいで、真奈美さんから辱めを受けたわ」
「その点は慰謝料という形でしか償えない」
「もうあなたを愛していない」
「これから、もう一度愛してもらえるよう努力する」
雪乃は大きくため息をついた。
********************
「私の誕生日に、接待だと言って不倫相手とラブホ?」
「なんで今更終わったことを蒸し返す」
「私とはセックスレス半年だった。真奈美さんとは1年前からしてたのよね?」
「初めは定期的にじゃなくて。月に1度だけの関係だった。嘘をつかないという契約前の話だ」
「去年のクリスマスは、真奈美さんの子供たちとパーティー?確か忘年会があるって言ってたわよね。ゴルフも、出張も全て真奈美さんと会うための嘘だった」
「クリスマスは彼女の旦那が仕事で帰れなくて子供たちが可哀そうだったからだ。接待が全て嘘ではない。出張もしかりだ」
「箱根に温泉旅行にいったのね。部屋に露天風呂がついていたらしいわね。一人一泊8万円だっけ」
「嘘をつかないという契約書を書く前の話だ」
「私のネックレスとお揃いの物を彼女にプレゼントしたわね。後、ブランド物のバッグも欲しいと強請られて買ったんだっけ」
「全て自分のカード決済にしている。同じ金額を現金で雪乃に渡す」
「全部、真奈美さんがSNSにご丁寧に上げてるから、食べたレストランや泊まったホテルも全てわかっているの」
「ああ……確認した」
「あなた、こんなに私を裏切って、それでもまだ結婚生活を続けようと思っているの?」
「雪乃がいなくなるなんて考えられない」
「私をそこまで想っているのなら、離婚して」
「……無理だ」
康介さんは意地になっているようだった。
契約書なんて書くんじゃなかった。
離婚しないなんて言うんじゃなかった。
雪乃は今、大いに後悔していた。
第17話
前島さんと次の水曜は仕事帰りにスーパーで買い物をしてから、一緒にアパートへ帰ろうと約束をした。
重い買い物袋を前島さんが持ってくれた。
まるで夫婦のようだなと雪乃は思った。
「あなただって浮気してるじゃない!」
後ろから女性の声が聞こえた。
「なに?」
振り返ると、そこには小林真奈美さんが立っていた。
「あなただって……浮気してるじゃない……」
彼女は目に涙を浮かべて、鬼のような形相で雪乃を睨んでいる。
前島さんは雪乃を守ろうと、真奈美さんとの間に体ごと入ってきた。
「自分の事は棚に上げて、康介の浮気を責めて、無理やり別れさせたでしょう?それに慰謝料請求ですって?酷い女ね」
「なに……」
「私たちは愛し合っていたのよ。それなのに、スマホを壊して連絡が取れないようにするなんて卑怯よ。自分だけ新しい男とよろしくやって全部自分のものにして満足?別れなさいよ!離婚してよ……康介さんを私に……ちょうだい」
「私は、あなたと話すことは何もありません。弁護士を通して」
急に突撃してくるなんて異常だ。
スーパーの帰りに、こんな目立つ場所で修羅場を演じるつもりはない。
「あなた知ってるの?この女は結婚しているのよ?立派なご主人がいるの。不倫関係になっていることを知ってる?」
今度は前島さんに向かって真奈美さんが突っかかってくる。
彼女は興奮している。
雪乃は、関係のない前島さんを巻き込みたくないと思った。
「この人は夫の不倫相手だった小林真奈美さんです」
前島さんに説明する。
「ここではなんだから場所を変えて話した方がいい。ご主人に連絡して、ここに来てもらおう」
前島さんが真奈美さんに話しかけ、道の端に誘導した。
「この女が、康介さんに私と会うなって言ったのよ。この女が、別れろ、二度と話をするなって言ったから康介さんは連絡をくれないの。全部この女のせいよ」
確かに、それが離婚しないための条件のひとつだった。
「雪乃さん。ご主人に連絡をした方がいい。ここに来てもらって」
前島さんが「落ち着いて下さい」と真奈美さんに声をかける。
**********************
「康介に電話するわ」
雪乃は康介に電話をかけた。
まだ家には帰っていないだろう。
けれど仕事が終わっているなら電話を取ってと雪乃は願う。
「……繋がらないわ」
焦っている雪乃に前島さんが提案する。
「雪乃さん。そして、真奈美さん。ここではなんですから、場所を移動しましょう。雪乃さんのご主人には連絡がつき次第来ていただくという事で、そこの……カラオケボックスに行きます」
前島さんは私たちを連れてカラオケボックスに入った。
この場所だったら、防音も利くし個室だから他の人の迷惑にはならないだろう。
「実家に電話して、太陽を預かってもらうよ」
「いいえ、前島さんはもう帰って下さい。これ以上迷惑をかけられません」
前島さんにはこれ以上迷惑をかけられない。
「なんで!この人だけ逃がそうとしないで!あなた不倫相手のことが康介にバレるのが嫌なんでしょう。駄目よ!康介さんに浮気していることをちゃんと知らせてよ。卑怯者!」
彼女は私の服を掴んで、頬をひっぱたいた。
「おい!やめろ」
前島さんが真奈美さんの腕を掴んで押さえつけた。
私はゆっくりと彼女を見据えて。
「冷静に話ができないなら、夫は呼びません。康介と話がしたいのなら、真奈美さん、冷静に振る舞って下さい」
***************************
結局康介がやってきたのは一時間ほどしてからだった。
「いったいどういう事なんだ?真奈美なんで君がここにいるんだ!」
「康介が、私と別れようとするからこうなったの。知ってるの?奥さんは浮気しているのよ?」
康介は前島を見た。
「公認ですから、何ら問題はないでしょう」
前島さんは康介に堂々と告げた。
「問題があるとすれば、別れたと言っていた真奈美さんと、康介さんがちゃんと関係を終わらせていなかった事です」
雪乃は、きっぱりと言い切ると康介を睨んだ。
「いや、俺は真奈美とちゃんと別れた」
「別れていないわ!康介は私を愛してるって言ったでしょう?私たちはお互い離婚して、一緒になるの。約束したわ」
埒が明かない。
「そんな約束は遊びの中でのたわごとだろう!お互いちゃんと家庭があった。真奈美は子供もいる。旦那さんと別れるなんてできない」
「離婚するわよ!わたしは夫に離婚される。だから、康介と一緒になるわ」
**************************
前島さんは関係ないのに、彼にまで火の粉が降りかかってしまった。
「前島さんは私の会社の上司です。私は水曜と金曜日に彼の家に夕食を作りに行っています。それは、家政婦としてであって、体の関係はありません。私がお願いして、彼の家に行っていただけです」
「……そうだったのか……」
それを聞いて康介はほっとした表情を浮かべた。
「そんなの嘘に決まっているじゃない!」
「真奈美は何もわかってない。君は雪乃の事を知らないだろう」
「なんで奥さんの肩をもつのよ……」
真奈美さんは泣き出してしまった。
「康介さん。真奈美さんの事はあなたの問題です。ちゃんと話をつけて下さい。前島さんは関係ないのでこれで帰ってもらいます。これ以上迷惑をかけたくありませんから」
「いや、帰るんだったら河津さん、雪乃さんも一緒に連れて行く。どう見ても、ご主人はこの女性と二人で話し合う必要があるだろう。奥さんに危害を及ぼしたのは事実だし。ちなみに彼女は殴られたからね」
「え!殴られたのか雪乃」
「とにかく、康介さん。真奈美さんとちゃんと話し合って下さい。結論が出たら私に話して下さい。真奈美さん。私が離婚をしたいと言ったら彼が、康介が嫌だと言ったの。そこだけはちゃんと覚えておいてね。私は離婚しようと夫に言ったわ」
「それじゃあ、奥さんは連れて行きます」
そう言うと前島さんは私の手を引いてカラオケボックスの部屋から出て行こうとした。
「ちょっと待って」
雪乃は前島さんにそう言って、鞄の中からボイスレコーダーを取り出し、康介に渡した。
「録音して。私も後で聞くから」
「わかった」
彼らをその場に残して、雪乃と前島さんはカラオケボックスを出た。
第18話
康介side
真奈美は気でも狂ったのではないか。
彼女の必死の形相に、ただ驚くばかりだった。
正気を失っているような真奈美の発言。
康介はどうやって説得すればいいのか考えていた。
「最初会った時は、ご主人との関係に悩んでいたね?」
「ええ。康介は優しく話を聞いてくれたわ」
「真奈美は悩んでた。俺は、学生時代真奈美に憧れていた。だから頼られるのは嬉しかったし、友人として、君の力になりたいと思った」
「康介さんは私に親切だったわ」
「そうだ。あくまでも友人としてだった。俺には妻がいるし、真奈美はご主人も子供もいた」
彼女はゆっくりと頷いた。
「俺は、ほんの軽い気持ちで君を抱いた。一度だけでいいからと真奈美が願ったからだ。だけど、断ることもできたのにしなかったのは俺の責任だ。だからといって本気で君を好きになった訳ではないし、ただの遊び感覚だった。真剣に妻と別れようとは思っていなかった。真奈美と一緒になりたいとも思っていなかった。その場の雰囲気に流された」
「私だって、あの時はこの関係が長く続くとは思ってなかった。ただ、寂しい気持ちを埋めてくれる存在になって欲しかっただけ。けどね、本気で夫より康介さんを愛してしまったの。何度も会って抱かれるたびに、夢中になっていったわ」
「止めなかった俺にも責任はある。けれど、もう終わった。この関係はただの浮気で、本気ではない」
「あなたは、奥さんとはセックスレスだと言った。なのにずっと私の事は抱いてくれたでしょう?私が奥さんよりも愛されていると思うのは当たり前だわ。今更、妻が大事だと言われても信じられない。康介さんは今、奥さんを抱いているの?彼女は浮気をしているでしょう。あの人、前島とかいう男の人とはそういう関係だわ」
「だから何だ?彼女が外で何をしようが、俺に文句を言う筋合いはない。俺への当てつけだ。雪乃は俺を愛しているから、わざと仕返ししているんだ。心は俺から離れていないと信じている」
「そういうのを独りよがりというのよ。雪乃さんの気持ちはとっくの昔に康介から離れているわ。彼女は私に言った。離婚しようと言っているのに別れてくれないって」
「そうだよ。彼女は離婚を望んでいる。俺は彼女を手放せない。言っている意味が分かるか?浮気しようが何をしようが、俺は彼女を手放すつもりはない。それくらい妻を愛しているんだ」
「だから私とは別れるの?私の家族は崩壊したのに?誰のせいなの?あなたのせいよ」
「なんと言われようが、俺は雪乃と別れない。だから君とは終わりだ」
***************************
話が通じない。
「ここでずっと話をする訳にもいかないわ。康介さんゆっくり話せるところへ行かない?」
ゆっくり話せるところって、どこだよ……
「いや、行かないし、これで話は終わりだ。もう俺たちに関わらないでくれ」
真奈美は悲しそうに眉をひそめた。
彼女に対して、酷いことを言っている自覚はある。
けれど、今、俺が一番に考えなければならないのは雪乃の事だ。
「子供は私の両親に預けているわ。もう、ずっと面倒を見てくれているの。私は夫からの慰謝料が手に入ったら、マンションを借りるのよ。あの人、自分が浮気相手と一緒になる為、私にたくさん慰謝料を支払うわ。子供たちと暮らせる広いマンションも用意してくれるの。そりゃそうよね、子どもを押し付けて、自分だけ新しい女と幸せになるんですもの」
子供を両親に育ててもらっているのか?
旦那さんは雪乃に慰謝料を支払うのか?雪乃自身も俺と浮気したわけだから責任はお互いにあるだろう。
「真奈美、子供たちの面倒は親任せなのか?君はそんな母親じゃなかっただろう」
「康介さんと一緒になる為なら、子どもは手放すわ。あなたのためだけにこれからは生きられる。康介さんを愛しているの、こんなに誰かを愛したことなんてなかった。奥さんよりずっと、あなたを想っているわ」
何てことだ……
彼女の子供も家庭も全て壊したのは俺の責任だ。
けれど、ここで流されてしまったら元の木阿弥だ。
ハッキリ彼女には言わなくてはならない。
「それはできない。お互いに責任がある。君は君の人生を生きてくれ」
「奥さんはもう、他の誰かに抱かれているのよ。あなたに気持ちはない。それでも縋りつくの……私だったら、康介さんを一生愛し続ける。大事にするわ。あなたに全てを捧げられる」
真奈美はこんなにも自分の事を想っていてくれるのか。
けれど、雪乃は彼と体の関係を持っていない。
そんなに軽く他の男と体の関係を持てる女じゃない。
それは長年一緒に暮らした俺が一番よく知っている。
「俺にはどうにもできない」
雪乃は、俺を捨てようとしているのに、彼女は全てを捨てて俺を愛していると言ってくれる。クソッ、気持ちが揺らぐ。
「最後だけ、最後に一度だけでいいわ……私を抱いて。あなたへの気持ちは、それでスッパリ諦めるわ。お願い……私を抱いて」
真奈美は意を決したように、うるんだ瞳で俺を見つめた。
第19話
雪乃side
「申し訳ありません。巻き込んでしまったのは私の責任です」
カラオケボックスから連れ出してくれた前島さんに謝った。
「ああ。そうだな」
「もうこれ以上、迷惑をかけるわけにはいきませんので家に帰ります」
太陽君もいるのに、前島さんを個人的な問題に巻き込んでしまった。
とにかくアパートへは行けない。
家に帰って、康介と真奈美さんがどういう話をしたのか、ちゃんと確認しなければならない。
「いや、駄目だ」
「……え?」
「俺を巻き込んだ責任を取ってもらう。それに、俺は君の浮気相手だと言ったのに、君は家政婦だと説明した。俺はそこに怒っている」
「そ、それは、事実じゃないですか」
「いや、俺と体の関係を持つことは君も承知していただろう。実際にはそうはなっていないけど、最初の約束では俺が君の浮気相手になる予定だった」
「それは、そうですけど……」
「手を出さずに我慢していたのが間違いだったな」
「それは、どういう……」
「今から既成事実を作るから、このままアパートに来るんだ」
前島さんは私の腕を掴むとそのまま歩き出した。
「もうご主人には遠慮しない。雪乃を抱く、嫌ならいってくれ」
「私は前島さんとそういう関係になってもいいと思って、ここに通っていました。後悔なんかはしません。……っけれど、こんな勢いに任せた、やっつけ仕事のような状態で抱かれたいとは思いません」
そう言った雪乃を前島さんは抱きしめた。
体と、心は……別なのだろうか……
「今日は泊まっていって。明日はここから出勤すればいい」
大きな広い男性の胸に抱きしめられ、彼の体温を感じた。
「君を抱くよ」
「……それは」
続く言葉は前島の唇に吸い取られた。
**********************
何かが、気になった。どうしても心に引っ掛かりがある。
「ま、待って下さい!」
雪乃は前島さんを押しのけた。
「おっ……なに?」
「前島さんは、私じゃないですよね?」
「何を言ってる……」
そう。前島さんは雪乃を愛していない。
今までも、何となくは分かっていたけど、彼は違う人を愛している。
それは息子の太陽君への愛情とは違う別の意味での愛だ。
そして、多分それは、亡くなった奥さんの妹である、香さんに向けられている。
「以前から思っていました。私を抱かないのは香さんがいるからだって。太陽君を我が子のように育ててくれている香さんに対して、前島さんは恋愛感情を持っているんじゃないですか?」
「そんな事はないよ」
「奥様の妹さんだから、あえて意識しないようにしている。けれど、毎日彼女に会っているし、彼女を信頼して愛する息子さんを預けているんです。自分の気持ちに正直になって下さい。私が、変なお願いをしたから、こんな茶番に付き合ってくれていましたが、実際は香さんの事を自分の中から追い出すためのスケープゴートとして私を利用していただけですよね?」
私も前島さんを利用していたから、それは同じことだ。前島さんを責めるつもりはない。
香さんはお姉さんが亡くなってからずっと、太陽君を育てていた。保育園や小学校へ通わせて、実家で前島さんとも毎日会って一緒に子育てしている。
二人は太陽君がいるから繋がっている関係だと思っているかもしれないけど、きっとそうじゃない。
太陽君が雪乃に話してくれる香さんの姿は、まさしく母親のそれだった。
「もう少し、太陽君抜きで香さんの事を見てみるべきです。他人の私が言うのは筋違いかもしれないけど、でも、太陽君は香さんを母親のように慕っています」
「……確かに……太陽は、そう思っているかもしれない」
「太陽君が一番だと言っている前島さんの二番目になる人は私ではないですよね」
前島さんは、驚いたように目を丸くして、ふっと笑った。
「君のそういう鋭いところ、やけに勘がいいところには驚かされるよ。それが、旦那さんのこととなるとまったく駄目になるのが不思議でならない」
康介に対しての勘は全く当たらないし、彼の考えを読めないのが何故なのか自分には分からない。
浮気の事もそうだけど、夫の事となると急に鈍感で愚かになってしまう。
「……自分でも不思議です」
ふと思いもよらないことが頭をよぎる。
雪乃にとって康介は特別なんじゃないだろうか。
それは夫に対する愛情なのだろうか……
雪乃はその日、前島さんに、抱かれることはなかった。
第20話
康介はあの日、真奈美さんとの話し合いが長引いたのか終電もなくなった深夜にタクシーで帰宅した。
翌日、雪乃は真奈美さんとカラオケボックスでの話し合いの録音を聞いた。
「真奈美さんは康介を本気で愛しているのね」
「そうだったみたいだ」
康介は眉間にしわを寄せ、苦悶の表情を浮かべた。
録音の中で、康介は何度も真奈美さんに伝えていた。
『あれは遊びだった。妻とは離婚しないし真奈美さんと復縁するつもりはない』と。
『奥さん浮気しているのよ!あなたとは離婚したいって言ってたじゃない』
『妻は、俺が浮気したから、それと同じことをする。それでも離婚したくないと俺が行った。彼女の不倫は俺が認めたことだ』
『それじゃぁ、康介さんもまた私とよりを戻せばいいわ!』
『俺は、妻を愛しているから、真奈美とは付き合わない。今度同じことをしたら離婚すると言われている』
『離婚したらいいじゃない!私だって夫と離婚したわ!』
同じような言い合いの繰り返しだった。
遊びのつもりでも、相手はそうじゃなかったという事だ。
「その場しのぎで甘い言葉を使っていたあなたが悪いわね」
「ああ……彼女には家庭もあり子供もいる。まさか俺に本気になっているとは思わなかった」
康介は辛そうに眉間にしわを寄せた。
「結局、話は終わってないようだけど」
「彼女とまた話し合わなければならない。彼女側も弁護士を立てるべきだと言おうと思っている」
「彼女との話し合いは必要だわ。私は穏便に済まそうと思っていたけど、彼女が直接私に接触してきた。私は最初に謝罪したいと真奈美さんが言ってきた時に弁護士を雇ったわ」
「ああ。分かっているよ。全部、俺が真奈美ときちんと別れられなかったことが原因だ」
「そうね。とにかく、彼女を何とかしてほしい。それができるのはあなただけだから、今後、彼女と二度と会わないでとは言わない。好きにしてちょうだい。けれど、また以前のように体の関係を持つのなら、先に離婚届を書いてからにしてね」
「それはない。もう俺は真奈美に興味はない」
*****************************
そもそも真奈美さんとの始まりは何だったんだろう。
ただ、マンネリ化した夫婦関係のストレスを発散するための浮気だったんだろうか?
「彼女との始まりは何だったの?」
「真奈美のご主人は単身赴任になって3年目だった。彼は赴任先で浮気していた」
なるほどそれで納得がいった。
なぜ真奈美さん夫婦がすんなり離婚になったのかが不思議だった。
いくらなんでも、子供がいるのに決断が早すぎると思っていた。
「そう、真奈美さんはご主人の浮気を知っていたのね」
「ああ。旦那の不倫に悩んでいて、その相談を受けていた。そして、そのうち体の関係を持ってしまった」
浮気を知って、他の男性と自分も関係を持とうとした。けれど私は思いとどまった。
けれど、あのまま前島さんに抱かれてもいいという気持ちはあった。彼に迷惑をかけていたし、康介は他の女を抱いたのだから。
けれど、結婚している状態で関係を持ったら、それは不倫だ。倫理に反している。私は自分をそこまで落としたくない。
結果、抱かれなかったとはいえ、キスはした。雪乃は自分が責められているような気がした。
「どちらが先かとかいう問題ではないわよね。多分……」
浮気をした事実は、理由はどうあれ消えない。
「君は……前島さんと、体の関係を持った?」
「それを聞かない約束のはずでしょう」
「……そうか」
康介は目をぎゅっと瞑って、天井を仰いだ。
「他の男に妻が抱かれたとしても、あなたは私と離婚しないの?」
「契約通りの事をしただけだろう。俺に君は責められない」
康介は耐えられるんだろうか。
長年夫婦をしていると、一度や二度の浮気はあって当たり前だという人もいる。
きっとそうなのかもしれない。
それくらいは許して、皆我慢して夫婦関係を継続させているのだろうか。
*******************
「半年前から私を抱かなくなったのはなぜ?」
聞きたくない。けれど、訊かなくてはならないと思い質問した。
「……そうだな……無茶ができない。雪乃は、上品で、綺麗だ。愛しているし、俺にとっては飾っておきたいような妻だった」
「汚したくないということなのかしら」
「まぁ、そんな感じだったのかな。だから他の女性を性のはけ口にしていた。酷い男だよな」
汚したくないからと、前島さんも同じようなことを言っていた。
だから康介は他でうっぷんを晴らした。
雪乃は結婚してから夫を拒否した事はなかった。
だから、汚したくないというのは彼の気持ちで、私の思いではない。
求められたのはもう随分前だけど、それまでちゃんと性生活はあったのだから、康介の自分勝手な言い訳でしかない。
「私に魅力がなかったのかもしれない。あなた好みにできなかった。相性もあるのかもしれないわね」
体の相性という物があるのなら、雪乃の体は康介とは合わなかったのかもしれない。
雪乃はあまり経験がなかったし、男性を喜ばせる技術も持っていなかった。
面白みに欠ける妻だったのは否めないけど。
「やめてくれないか……」
「え?」
「彼との関係を、終わらせてくれないだろうか……」
自らが望んで契約を交わした康介が、言ってはいけない言葉だ。
「無理よ。あなたが離婚届にサインしない限り契約は続く」
「……わかった。後……3ヶ月」
こんな生活をいつまで続けるつもりだろう。
苦しそうな夫をみるのはつらい。
第21話
雪乃はそれから前島さんの家へ行くのをやめた。
香さんへの愛情に前島さんが気付いたからだ。
前島さんは、雪乃の契約の半年が来るまでは手を貸すと言ってくれた。
自分の気持ちに気付かせてくれた恩があるし、乗りかかった舟だからと。
けれど、香さんは、体の関係がないにしろ他の女が前島さんのアパートに出入りすることをよくは思わないだろう。
「ということで、先輩の面倒を私がみることになったわけですね」
「別に一人でも時間を潰すことはできるわよ」
会社近くの温泉施設で天ざるそばを食べながら綾ちゃんに前島さんの事情を話していた。
「実際は違うけど、康介さんは前島さんを雪乃先輩の不倫相手だと思ってるんですよね?毎週男の家へ通っている妻を、いったいどんな気持ちで見ているんでしょうね。旦那さんって変わってますよね」
「そこまで我慢しても私と別れない理由が分からないわ」
少なくとも雪乃は、当時康介が浮気していることを知らなかったから、同じベッドで眠れたのだと思う。今の夫は、全く違う意味で苦しんでいるはずだ。
「真奈美さんから慰謝料が振り込まれたの」
「そうなんですね。300万でしたっけ?凄いボーナスじゃないですか」
「真奈美さんのご主人が払ったのか夫が払ったのか聞いたわ」
「え!旦那さんが不倫相手の慰謝料を持ったんですか?」
「康介は、私が請求した300万と同じ額を、慰謝料として真奈美さんのご主人に振り込んだの。300万が互いの家を行き来したことになるわ。結果、夫が支払ったと言われればそういう事になるかもしれないわね」
「じゃぁ、先輩が弁護士費用も含めて750万をご主人から受け取った事になったんですね」
「まぁ、そうなるかな。あちらの夫婦は、旦那さんが浮気していたから、その分の慰謝料を妻である真奈美さんに支払ったみたいだし、彼らは離婚した。子共の親権は真奈美さんが持った。養育費は子供さんが成人するまで支払われるそうよ」
「先輩、やけに詳しいですね」
***********************
「離婚の原因はご主人の浮気だけど、結局真奈美さんも康介と浮気していたわけだし、康介も話し合いに参加してたようよ。だから康介からあちらの家庭の事情は聞いているわ。慰謝料の清算が終われば、真奈美さんとは連絡を取らないって言ってた」
康介の帰りはここ何週間か遅かった。
土日も家にいる事が少なかった。
真奈美さんとの話し合いが拗れているんだなと感じていた。
綾ちゃんは首をひねった。
「おかしくないですか?」
「なんで?」
「真奈美さんは自分の旦那さんから慰謝料をもらったんですよね?でも真奈美の浮気に対する、嫁からの慰謝料は支払われなかったんですよね?それって、ご主人は自分の浮気の慰謝料を妻に払って、離婚して子供を取られた。妻は得なだけですよね?」
「ご主人は仕事しているし子供を育てるのって無理でしょう?それに、ご主人はお金を払ってでも、不倫相手と早く一緒になりたかったんじゃないかしら。私は、あちらの家庭がどうなろうが関係ないと思っているから、詳しくは分からないし、知りたくもないわ」
綾ちゃんはスマホを出して何かを検索している。
「私って、雪乃先輩の陰の手下として活躍してたじゃないですか」
「ええ、かなり手助けしてくれたわ。ありがとう」
「真奈美さんの情報をいろいろ探していた時、彼女の子育てブログを発見したんです。まぁ、あまり関係ないなと思ってチラ見しかしていなかったんですが」
雪乃は綾ちゃんが送ってくれたブログのURLで彼女の子育てブログを見る。
「家族仲が悪いようには見えないわね……」
「そうです。単身赴任で夫がいないことは、書いてましたけど、ご主人がたまに帰ってきた時や、お子さんの誕生日には一緒にパーティー開いたりしてたし、幸せ家族そのものですよ」
新米ママの子育て日記っという名前で、日々の子供たちの成長や、ちょっとしたエピソードなんかをあげているものだった。
「旦那さんの浮気には触れてないわね……でも、子育てに関するブログだしわざわざ身内の恥をさらさないでしょう」
「真奈美さんのご主人って、本当に浮気をしてたんですか?これを読んだ限りは、子煩悩なパパにみえるんですけど」
そう言われてみると、確かにパパと会えなくて寂しがっている子供たちの様子や、久しぶりに会えた時の喜びの画像なんかが幸せそうにアップされている。
旦那さんの顔はモザイク処理されているけど、お子さんの写真はデジタルタトゥー状態であがっていた。
「康介は、ご主人が以前から浮気していて、真奈美さんはそれに悩んでいたと言っていたわ。真奈美さんも旦那さんの浮気を、康介に相談していたって」
「康介さんが言ってたんですよね?雪乃さんは康介さんと真奈美さんからそのことを聞いた。あちらのご主人からは聞いていないんですよね」
「そう……だけど……」
第22話
雪乃は弁護士に頼み真奈美さんのご主人に連絡を取ることにした。
そして康介が帰宅するまでの時間、真奈美さんのご主人である小林大地さんとオンラインで話し合う時間を持った。
「私が真奈美さんと夫から聞いた話は、小林さんがずっと浮気をしていたということです。その悩みを康介に相談するうちに、二人は深い仲になったと説明されました」
「僕は浮気なんてしていない。真奈美が嘘を言っているのは確かだけど、それに河津さんのご主人は騙されているのか、それとも二人で雪乃さんを騙しているのか僕には分かりません」
小林さんは憔悴しきっているようだった。
妻に裏切られたあげく子供を奪われたのだ。
夫の康介がした事だけど、雪乃は申し訳ない気持ちになった。
「小林さんの不倫に対して、主人が嘘を言っているようには見えませんでした。けれど……私は夫の嘘を見抜けません。不倫していた事も気がつかなかった妻ですので」
「それを言うなら、僕も同じですから。情けないです」
「お互い辛いですね」
同じ立場で傷をなめ合っているだけでは駄目ですねと大地さんは苦しそうに笑った。
一番恐れていることは、子供たちと会えなくなる事だと彼は言った。
自分は子供を愛しているし、できれば引き取りたい。けれど、ずっと妻と一緒に暮らしてきた子供たちが、自分と共に暮らせるはずがないと。
「僕の場合は、子どもを彼女に渡したくはなかった。けれど育児をできるかと言われたら、仕事をしながらやれる自信はなかった。子供のためだと思い、彼女に親権を渡したんです。子供に罪はないので、成人するまでは養育費も払い続けると約束しました」
「真奈美さんに対する不倫の慰謝料は請求されなかったんですね」
「雪乃さんのご主人から300万受け取ったので、私はそれで十分でした。真奈美から金を取れば、生活費が減り、子供たちに影響しますのでしませんでした」
「私は真奈美さんから慰謝料を受け取ったのですが、それはご主人が支払っていると聞きました」
「いいえ、私は払っていません。真奈美が支払ったと聞きました」
私への慰謝料の出どころは、多分康介だと確信した。
「今も、夫は真奈美さんと関係を続けているかもしれません」
雪乃はその可能性は大きいと感じた。
「ぶしつけな質問ですが、何故ご主人は雪乃さんとの離婚を拒否されるのでしょう?」
「愛しているからだと彼は言います。けれど行動が伴っていない」
「ご主人は、真奈美に脅されているのかもしれません。家庭を壊した責任を取れとか、そう言った感じで無理に関係を続けさせられているのかも」
「それって、拒否できますよね?もう彼女との浮気は私にバレていますし、今更彼女に対して責任を取る必要はないはずです」
「確かにそうですね。情があるとか、愛情が残っているとかでしょうか?確かめる必要がありますね。僕も、正直真奈美が僕の浮気をでっちあげていた事に驚いていますし、もしご主人がその言葉を信じてしまっていたとしたらいい気はしない。真実を突き止めたい」
「確かめる必要がありますね」
「作戦を練りましょう」
「はい」
私たちは協定を結んだ。
*******************
「真奈美さんはそれで納得したんだ」
「ああ。俺は妻とは離婚しない。真奈美に気持ちはないと理解してくれた」
「子供さんが気の毒だわね。あなたも子供さんには会った事があるでしょう」
「子供たちは俺の子じゃない。育てる義務はない」
子供に罪はない。それは当然だ。
けれど康介がここまではっきりと真奈美さんの子供の事を拒否するのに違和感がある。
康介はいったい何を考え、彼の真意は何処にあるんだろう。
「雪乃、契約を交わした日から計算して、君の浮気は後1ヶ月で終わる」
「そうね」
「契約通り、ちゃんと彼との関係を清算してくれ」
康介は前島さんの事を言っているのだ。
もう、そんなものはとっくの昔になくなっているのに。
「大丈夫よ。約束だから、きちんと終わらせるわ」
「ああ……また、昔のように幸せな夫婦関係に戻ろう」
愛し合う夫婦ではない。
幸せな夫婦。
けれどあなたは『幸せだよ』と嘘をつく。
第23話
約束の半年になる。
離婚はしないというあの契約書の期限だった。
康介はよく耐えたと思う。
彼はただの遊びの関係が、ここまで深い爪痕を残すなんて思ってなかっただろう。
そして約半年かけて、康介は真奈美さんとの不倫関係を清算した。
彼は全てが終わったと思っている。
「康介さん。今日はディナーを予約しているのよ。誕生日の翌日予約していたスカイレスト、ランシャノアールに6時よ」
「それはまぁ、雪乃が行きたいのなら勿論付き合うけど、ちょっと悪趣味だなと思うよ」
康介さんは苦笑する。
誕生日の翌日予約していたホテルのディナー。
この離婚問題は、あの日そこから始まったのだから、同じ場所で終わらせようと思った。
「個室を予約したからゆっくり食事を楽しみましょう」
「俺に対する戒めだな。けど、これは俺たち夫婦の門出を祝う食事だと思って、記念に堪能するよ」
「一生忘れられないディナーになるのは間違いないでしょうね」
雪乃は背中の空いた綺麗な黒のワンピースを着た。
フォーマルな装いは今夜の勝負服だ。
誰もが振り返る程、美しく妖艶に見える雪乃の姿に康介も目を奪われている。
『さぁ、断罪の始まりよ』
***************
個室に通されると、そこには小林大地さんと、真奈美さんが座っていた。
康介は驚いて私を振り返る。
「初めまして、真奈美の元夫の小林大地です」
「……」
言葉が出ない康介の代わりに雪乃が挨拶する。
「わざわざお時間をいただきありがとうございました。夫の康介です。真奈美さんも来ていただけて良かったです」
「……ええ」
真奈美さんには、望みのものを与えられるから来てほしいと頼んでいた。
彼女は別れた夫がいることに不満を隠しきれない様子だ。
「いったいどういうことなんだ?雪乃、ちゃんと説明してほしい」
「ええもちろんよ。取り敢えず、席に着きましょう。話はそれからよ」
小林さんが、僕がワインを選びましょうと言い、注文をした。
ソムリエが退出してから、雪乃は話し始めた。
「今日の集まりは、皆で思っていることを嘘偽りなく語り合い、新しい生活を歩んでいく為のものよ」
「そうです。僕と雪乃さんで企画しました」
「君たちは知り合いなのか?いったいどういうことなんだ」
「では、僕が先に説明させてもらいますね」
「お願いします」
雪乃は大地さんに進行を任せた。
「僕は真奈美と結婚してから、一度も浮気をした事はありません。単身赴任でしたが家族は仲良く、子どもたちは可愛かった。勿論妻を愛していました」
「そ、そんな事はもうどうでもいいでしょう!私たちは離婚が成立しているわ」
真奈美さんが焦ったように大地さんの話を止めようとする。
「そうだね。この度、元妻から、子どもたちの親権を取り戻し、私が引き取って育てる事になりました」
「え!そうなのか?」
康介が驚いて真奈美さんを見た。
「そうよ、私は子持ちじゃなくなった」
真奈美さんはなぜか自信に満ちたような顔でそう言った。
まるで子供がいなくなったことを喜んでいるかのようだ。
「真奈美は、育児を親任せにして、殆ど子供たちの面倒を見てこなかった。私は現在会社を退職し、家業を手伝うために東京に戻っています。今は毎日、彼女の実家に通い子供たちに会っています。来週から私の実家でやっと子供と暮らす事ができます」
「子供をよこせって煩かったし、大地さんは造り酒屋の長男よ。跡継ぎなの。子供達も贅沢に暮らせた方が幸せだと思って、私は子供を手放したの」
「お子さんは、元、ご主人に育てられた方が幸せでしょうね。ブログのためだけに子育てしているふりをしていたお母さんと生活するよりよっぽどいいと思います」
雪乃は真奈美に嫌味を言う。
「子供も産んだことないくせに!知ったような口をきかないで」
「いったいどういうことなんだ?」
初めて聞く話に説明を求める康介。
「真奈美さんはご主人が浮気をしていると言っていたけど、大地さんは浮気なんてしていなかった。彼女は康介に嘘をついていたのよ」
「なんだって!何年も旦那の浮気に苦しんできたって言ってたじゃないか」
「単身赴任なんだから、浮気してると思っただけよ。してないっていても真実は分からないでしょう」
開き直った彼女の態度は、非常に不快だ。
「真奈美の言っている意味が分からないよ。浮気をしているでしょうと疑われた事だって一度もなかったし、そんな事実はない。そもそも僕は君を裏切った事なんてなかった」
落ち着いた大地さんの声色が真奈美さんを追い詰める。
真奈美さんが大地さんに罪を着せて、悲劇のヒロインぶってると思うと反吐が出る。
「とにかく、真奈美さんの嘘をここで証明したの」
それに康介さんはまんまと騙されていた。
「わざわざ、そんな事を今更俺に知らせなくても、もう終わった事なんだからいいだろう」
「そうでもないわ」
「そうよ、まだ終わっていないわ!私は今日、康介と雪乃さんが離婚するって聞いてここまで来たのよ」
「なんだって?離婚なんてしない。俺たちはこれから新しくまた夫婦生活を始めるんだ」
「それは無理な話だわ」
雪乃はハッキリとそう告げた。
第24話
「何を言っているんだ雪乃。約束だったはずだ。半年間君の好きなように行動させたら、離婚はしないって契約だっただろう」
「康介さん。あなたは契約を破ったわ」
「どういうことだ?」
「真奈美さんが、3ヶ月前に貴方とホテルで関係を持った証拠を私に渡してくれたの」
「3ヶ月前?」
「カラオケボックスで話し合った日よ。あの日あなたは真奈美さんとホテルへ行った」
真奈美さんが雪乃と前島に突撃してきた日だ。
二人で話し合うように雪乃たちはカラオケボックスを後にした。
康介はその後、真奈美さんとホテルに行って、彼女とまた体の関係を持った。
そして、私に聞かせたボイスレコーダーの録音は肝心なところが切り取られていた。
真奈美さんは涙目でごめんなさいと謝りながら康介に説明する。
「康介、私はあの時動画を撮っていたの、それを雪乃さんに渡したわ。そうするしかなかったの」
「なんだって!君は、最後だからって、これで終わりにするからって願ったんじゃないか。動画なんて……有り得ない」
「私に残された手段はそれしかなかったのよ」
康介はみるみるうちに顔色が悪くなり、頭を抱えた。
真奈美さんは康介に抱かれた証拠を動画で残していた。
完璧な裏切りの証拠だ。
「康介さん、真奈美さんと体の関係を持つなら、離婚届けを書いてからにしてくれってお願いしたわよね?真奈美さんと別れるために話し合うのは仕方がないとしても、彼女を抱くのは流石に違反でしょう」
「やめてくれ……あれは、たった一度だけの話だ。俺は、君が他の男に抱かれている半年の間、誰とも関係を持っていない」
「私と寝たでしょう」
「黙れ!嘘つき女」
醜い争い。
見ていられない。
「真奈美が嘘をつくのは、今に始まった事ではない。彼女はそもそも自分の良いように話を作る女だ」
大地さんが真奈美さんの本性をさも当たり前の事のように話す。
「うるさいわね、あなたはもう関係ないでしょう。帰りなさいよ」
「そうだね。子供達も手に入れたし、君の顔なんて見たくもないよ」
「さっさと帰りなさいよ!」
「真奈美、離婚後3年以内であれば、元配偶者に離婚の慰謝料を請求できるって法律で決まっているの知ってるか?君に300万請求させてもらうから」
大地さんは用意していた書類を真奈美さんに渡す。
「な、何言ってるのよ!今更そんなもの払わないわよ。子供を手に入れたんだから大人しくしていてよ」
「いや、河津康介さんからは慰謝料をもらっている。けれど、君からはまだだからね」
真奈美さんは目じりを険しく吊り上げて大地さんを睨んだ。
「慰謝料と言えば、真奈美さんに請求した300万、康介さんが支払っていたのよね?私が受け取ったお金はあなたのものなのね」
「それは。真奈美の離婚の原因を作ったのは俺だったし、何より、早く決着させたかった。いつまでも真奈美とかかわりを持ちたくなかったからだ」
「康介!何を言っているのよ。私はもう子持ちじゃないわ。一人身になったの。何の障害もないのよ。雪乃さんと離婚して、私と再婚しましょう!」
「何を馬鹿なことを言ってるんだ、そんなことするはずないだろう」
「できるんじゃない?だって私、あなたと離婚するもの」
「た、頼む……雪乃。君が半年間浮気をしていても、それでも俺は我慢して、今まで耐えたんだ。全て、君との結婚生活を継続するための努力だ。分かってくれ……」
修羅場とはまさにこういう場のことを言うのねと思いながら、諦めの悪い夫を冷ややかな目で見つめる。
もう、康介さんの事を何とも思わない。
一緒に過ごした3年はこんな情けない夫とともにここに捨てていく。
「無理」
雪乃は冷たく康介に言い放った。
「証人欄には、私と、雪乃さんの職場の方がサインしています。後は河津さん。ご主人のサインがあれば終わります」
大地さんが雪乃から離婚届けを受け取り、康介さんの前に差し出した。
彼は今、証人としてこの場に立ち会ってくれた第三者だ。
「そうよ、康介、サインして離婚してよ!私は旦那も子供も失ったの。もう康介しかいないわ」
真奈美さんが康介に縋りつく。
「康介さん。約束を守れなかったのはあなたです。潔くサインして下さい。もう、終わりにしましょう」
雪乃はそう言い冷たく笑った。
第25話
三年半一緒に暮らしたマンションに康介と二人で帰ってきた。
帰路はお互い口をきかず、康介はずっと険しい顔をしていた。
部屋に入ったとたん、雪乃は康介に腕を掴まれる。
彼の強い力に驚いた。
「ちょっ……やめてよ、痛い!」
「……そんなに俺と離婚したかったのか!」
康介の責めるような口調に驚いた。
こんな夫の顔は知らない。
彼もことを初めて、怖いと感じた。
「放して!康介さん」
「望み通り離婚してやる。でもまだ今、雪乃は俺の妻だ」
彼はそう言うと無理やりリビングまで雪乃を引きずっていき、上半身をテーブルに押し付けた。
「やめてよ!」
雪乃は康介から逃れようと暴れるが、男性の力にはかなわない。
彼の前で一度も流さなかった涙が頬を伝う。
康介はその涙を見て腕の力を緩めた。
床に座り込み、ソファーに背を預け天井を見上げて深くため息をついた。
「すまない……」
「夫婦間であっても、一方が拒否しているのに無理やり性行為に及ぶのは性的DVよ」
「……ああ」
「最初にすんなり離婚に応じてくれていたら、こんな状態にはならなかった」
再構築をしようと互いが思っていたなら、何とかなったのかもしれない。
真奈美さんが康介を遊びの相手だと割り切っていたのなら、あの半年間のくだらない契約も意味を成したのかもしれない。
全てが最悪の方向へ進んでしまい、もう取り返しがつかない。
「これで最後だからお願いと言われ、真奈美を抱いた。抱きたいわけではなかったが、最後にしてもらえるなら何でもいいと思った」
「私は、あなたが浮気をしてもいいと言った半年の間、誰にも抱かれてないわ」
雪乃は浮気をしていいという契約だった半年の間、他の男性に体を許さなかった。
夫が裏切ったからと言って、自分が同じことをできるかと言われれば、できなかった。
「……そう、だったのか……」
「愛がなくても、体の関係は持てるわよね。世の中にはお金で性を売る商売だってあるんだから。でも、するかしないかは本人の意思の持ちようだと思う」
きっと康介が言うように、真奈美さんが騙して再び体の関係を持ったのかもしれない。
康介は真奈美にまんまと嵌められてしまったのかもしれない。
「俺が、馬鹿だった。雪乃を取り戻したくて必死だった。結果的に辛い思いをさせてしまった。本当にすまなかった」
康介の声は震えていた。
「雪乃……離婚しよう」
翌朝、康介がサインした離婚届がダイニングテーブルの上に置いてあった。
第26話
雪乃は綾ちゃんとスペイン料理を出すバルに来ていた。
ちょうど一年前、全てはここから始まった。
「本当に長い戦いでしたね。雪乃先輩も、ドロドロにはまりまくってましたよね。やっと落ち着いた感じですか?」
「そうね、やっと生活リズムが整ったって感じかな。離婚してからの半年は仕事と引っ越しとでバタバタしてた。あっという間だったわ」
「結局、康介さんと離婚しましたね。元サヤあるかのとか思ったんですけどね」
「一応離婚しないための契約期間は満了してから離婚した。契約を破ったのは康介だったしね。自業自得ってところだわ」
「けど、ご主人の離婚しないって強い意志は本物だったと思います。下半身が緩すぎっていうのは問題でしたけど」
「見境なくってわけではなかったけど、意志が弱すぎだったわね。結局私の事を甘く見ていたのよ」
「一番最初に、スッパリ離婚していれば、こんなに揉めずに被害も最小限で食い止められたのに、残念でしたね」
「そうね。まぁ、私も伴侶を失って、戸籍にバツが付いた。お金は手に入ったけど、今現在恋人がいる訳でもない。結構精神的にもキツかったわ」
「雪乃先輩の周りには、前島課長や、小林大地さんみたいなイケメンがいたのに、色っぽい関係に発展しなかったですね」
「私ってモテないのよね。現実世界で妻にするより、床の間に飾って置きたい人形タイプなんですって」
雪乃は冗談っぽく笑った。
「なんなんですかそれ、そもそも現代の家の間取りで床の間なんてありませんから。和室はいらないです。ダニが湧くし、全部フローリングに限ります」
「そうね……掃除しやすいのが一番ね」
なんか話の流れが家の間取りになっている。
突拍子もない方向へ進む綾ちゃんの話は面白いから時間が経つのも早い。
「まぁ、今どき離婚なんて珍しくもなんともないんですから、前向きに独身ライフを楽しんで下さい。それと、30歳おめでとうございます」
「ありがとう。新しい人生の始まりよ」
雪乃は気分もよく店を後にした。
あれから、真奈美さんの親が大地さんへの慰謝料を肩代わりしたようだ。
孫をずっと押し付けられ、娘の尻拭いまでさせられた真奈美さんのご両親は、彼女を実家から追い出したらしい。
結局、康介とはうまくいかず真奈美さんは一人になった。
彼女は今どこで何をしているのかは知らない。
康介は、会社を辞めて独立したと風の噂で聞いた。
私たちが住んでいたマンションは引き払ったようだ。
もう、東京にはいないのかもしれない。
第27話 最終話
ただの遊びのつもりだったのに、執拗に付きまとい粘着された。
まるでストーカーのようになってしまった真奈美との話し合いは揉めに揉め、弁護士を介入させて、最終的に接近禁止命令を出してやっと関係を切る事ができた。
まさに地獄を味わった。
雪乃がいない生活を、維持していく必要はないと感じ俺は仕事を辞めた。
たかが浮気だろうと思っていた。
世間一般的に、夫が浮気しないで一生妻だけしか抱かない男なんて、よほどモテない奴だろうと思っていた。
駄目だとは分かっているけど、面倒がなければ羽目を外して遊んだりするのは普通だろうと。
甘かった。
雪乃は俺を捨てた。
休日の朝は、旨いと評判のベーカリーでクロワッサンを買って来て、俺がコーヒーを淹れ雪乃の朝食を作った。
眠そうにしながらも、ありがとうと微笑んでくれた妻はもういない。
一人の方が楽だろうというヤツもいるけど、ベッドで目が覚めた時、隣にいるはずの雪乃がいないのは寂しかった。
俺は会社を辞めて、個人トレーダーとして仕事をする事にした。
ネット環境さえあれば、どこでも仕事ができるのならいっそ端っこまで行ってみようと思い、北海道の紋別に住むことにした。
雪と氷に覆われた恐ろしく寒い冬、広大な大地と生命の息吹を感じる春。梅雨のない大自然に覆われる夏に、実りの秋。
人より動物に出くわす方が多いんじゃないかと思われるこの地で3年過ごした。
会社員として客の金を動かしていた時と違い自分の資金を運用するやり方は、損出も全て自分に降りかかる。その代わり、利益が出るとそれは莫大で俺は成功し多くの資金を得た。
3年経った。東京に戻ろうかと思い、駅前に新しく建ったタワマンを購入した。
もし子供ができたなら、こんなマンションに住みたかったという夢みたいなのを一人で叶えた。
虚しいな、と、高層階からの景色を見ながらインスタントコーヒーを飲んだ。
『美味しい』『楽しい』『綺麗だ』『幸せだな』
全ては誰かと分かち合ってこそなんだなと思った。
一人で感想を言っても誰も共感してくれない。
ここは東京だ。もしかしたら雪乃にばったり出会うかもしれない。
その時は自分が成功している姿を見せたいと思った。
このマンションはコストパフォーマンスは抜群だし、共用施設としてスポーツジムとプールがあり便利だ。
夕方、ジムに行こうとマンションの部屋を出る。
仕事がら毎日部屋にこもっている。運動不足解消のためせめてトレーニングだけは続けようと考えていた。
ちょうど、隣の住む住人が玄関ドアを開けた。
引っ越しの挨拶には行かなかったし、あっちからも来なかったので会釈程度の挨拶でいいだろうと彼女を見た。
*******************************
「……雪乃……」
お互い顔を見合わせて、あまりの驚きに目を疑った。
「なんで……」
このマンションは億は下らない高額物件だ。
雪乃がまさかこのマンションに住んでいるなんて思ってもみなかった。
「え?ここに住んでいるのか?」
「……あなたこそ」
偶然なのか、必然なのか。
俺たちはまた出会ってしまった。
「雪乃……良かったら、クロワッサン食べないか?」
昨日、近所においしいベーカリーを見付けて昔を思い出して買ってきたクロワッサンがある。
何か話を繋ぎたくてついクロワッサンをどうかと言った。
もっと気の利いたことが話せたのにと少し後悔する。
雪乃は怪訝そうに眉を上げた。
「いらないわ」
軽く断られる。
彼女も少し居心地が悪いのだろう。
この場からすぐに去っていきそうだ。
「雪乃、少し話がしたいんだけど……」
彼女は少し戸惑ったように俺を見た。
「私、結婚したの」
「えっ……」
嘘だろう?
「今から夫と待ち合わせなの」
「ああ……そうか」
ショックのあまり、崩れ落ちそうになった。
いつの間に結婚したんだ。あれからまだ3年しか経っていないだろう。
誰からもそんな知らせは聞いていない。
もちろん実家の母からも聞いてなかった。
あの時、彼女は俺以外の男と寝なかった。
まだ俺を愛していたんだと思った。
きっと、まだ愛情は残っているはずだと、もしかしたらまた会えるかもと東京に戻ってきた。
くそっ……
なんとか気合で平静を保つ。
雪乃はこのマンションを夫婦で買ったんだな。
よりによって、なんでここなんだ……
投資目的だったとはいえ、もう引っ越さなければならないなと頭の中で考える。
「康介さん、あなた……今、幸せ?」
雪乃は急にそう訊ねてきた。
俺はできるだけ明るく見えるように、口角を上げた。
「ああ」
幸せそうには見えないだろう。
俺は、一人だ……
「……幸せだよ」
俺は雪乃に嘘をつく。
━━━━完━━━━
第28話エピローグ
康介と離婚して一年が経った頃、『ワイングラスで日本酒を味わおう』というイベントが行われていたホテルの前で小林大地さんを見かけた。
近くに用事があり、ホテルの前を通った時、偶然会場に入るところの彼に会った。
「お久しぶりですね小林さん」
急に声をかけたので、かなり驚いた様子で小林さんは雪乃を見た。
「ああ……雪乃さん。お久しぶりです」
日曜だから休みだろうと思っていたが、スーツ姿の小林さんは仕事中だったのかもしれない。
「あ、すみません。お仕事中でしたか?」
「ああ、いえ。品評会のイベントの案内来ていたので、見にきたんです。仕事というか、勉強も兼ねてでしょうか」
「そうなんですね。それでは……」
雪乃は長話するのもどうかと思い、頭を下げて立ち去ろうとした。
時間があればと、小林さんに引き止められる。
「雪乃さん、よければ一緒に試飲していきませんか?一般の方も参加されてますから」
「えっと、私はあまり日本酒に詳しくないのでお邪魔かと思います」
そうは言ったものの、日本酒はさておき、その後彼がどういった生活をしているのか気になっていた。
互いに『サレタ側』同士だ、彼も同じだろうと思う。
仕事ではないから気軽にと誘われて、一緒に会場を回ることにした。
小林さんの知り合いも沢山来ていたようだったので、これは私がいていい場所なのか少し焦ってしまった。
「偶然、友人に会いましたので一緒にどうかと誘ったんです」
「若い女性の日本酒ブームは酒造メーカーとしてはありがたいものです」
小林さんは、酒造関係の人たちに雪乃を友人だと紹介した。
「あまり日本酒には詳しくなくて、お役に立てずにすみません」
「いいえ。今から日本酒を好きになっていただくために、貴重なご意見を聞かせて頂ければありがたいと思います」
酒造メーカーの営業の人にすすめられ透き通った綺麗なお酒をいただいた。
ここを一周したら、出来上がりそうだと思った。
小林さんの知り合いの酒蔵の純米酒を試飲させてもらった。
「バナナ……でしょうか?」
「え?」
いやいや米ですよね、と思ったけど、雪乃が飲んだ日本酒からはバナナの匂いがした。
「凄いですね、日本酒にはフルーティーな香りが出ているものがあります。リンゴっぽいものが多いんですが、バナナの香りも最近あるんです」
なぜ、そんな匂いがするんだろう?不思議に思った。
日本酒という物は奥が深い。
まったく知識がなかった雪乃は日本酒に興味がわいた。
それから雪乃は日本酒を飲みに酒蔵を見学するという新しい趣味ができた。
小林さんとはたまに日本酒を飲みに行く友人になった。
***
「あれから河津さんとは会ってないの?」
「そうですね。今は北海道にいるという噂を聞きました」
「へぇ、北海道か……それはまた遠くへ行ったんだね」
「会社を辞めて、自分でやってみたい仕事があったんじゃないですかね。結婚していたら、そういうチャレンジできないでしょうから」
康介とは同じ趣味があるわけでもなく、互いに職場関係の知り合いは少なかった。共通の友人もいない。
物理的に距離が離れると、接点がなかったんだなと改めて思った。
「真奈美に家庭裁判所に調停の申し立てをされたんだ」
小林さんも近況を話してくれた。
「え?それじゃぁ、真奈美さんは……」
「彼女は結婚した。相手はバツイチの弁護士なんだ。親権を取り戻そうと真奈美が相談していた弁護士だそうだ」
真奈美さん、弁護士と結婚したの?
転んでもただでは起きない人だわ……魔性の女とは彼女みたいな人の事なのだろう。
「それじゃぁ、もしかして……」
小林さんの顔を見て理解した。子供の親権を手放したんだと思った。
弁護士相手では勝ち目がなかったのかもしれない。
「結局、子供たちを振り回してしまった。何度も引っ越しさせたり、周りの環境を変えたりしてね。やっぱり、上の子は母親と一緒が良いという。もう5歳で来年小学生だから、少しは自分の意思があるんだよ」
お子さんが母親を選んだのか……
寂しそうにそうに話す小林さんは子どもを渡してしまった自責の念に駆られているようだった。ためらいがちに微笑む姿は少し痛々しい。
「お子さんには、会えるんですよね?」
「ああ。月に一度の面会日に会えるよ。単身赴任中も会えるのは月一だったから、以前とあまり変わらないのかな。これ以上子供たちに調停や審判で辛い思いをさせたくないしね」
大切なのは、子どもにとってどの環境が幸せなのかを考えることだろう。
雪乃は子どもがいないから、何か助言ができるわけではない。
「けれど、また真奈美は子供が邪魔になったと言い出すかもしれない。だから、僕はいつでも子供を迎えられる体制でいようと思ってます」
小林さんは、一番にお子さんのことを考えている。それは父親として当たり前だ。
けど、小林さん自身の幸せを自ら諦める必要はないと感じた。
子どもを愛していても、他の誰かも愛すればいい。
***
お互いに再婚する気はなかった。
小林さんは離れているけど子どもがいるから、この先結婚するつもりはないと言った。
雪乃は今後誰か愛するのが怖かった。
「自信が無いんです。女として、終わっている気がします。康介さんにも言われましたけど、性的な魅力がないみたいです」
「それは……よく分からないな。僕も寝取られ旦那だったから自信がない」
小林さんは苦笑いする。
もう、二人とも良い大人で、独身の男女だ。
小林さんは優しく、そして気持ちよく雪乃を抱いてくれた。
『気持ちいい事をしているんだと、自分から感じて。そうすればもっと高みに昇れる』
小林さんは優しく雪乃に教えてくれた。
今まで乾いていた体が潤っていく感覚を覚え、自分が女として満たされていく気持ちになった。
「男娼を買う女性の気持ちが分かった気がします。性欲は自分にもあるんだと知りました」
「うん……男娼?」
小林さんは驚いて何度も瞬きをした。
***
それから。
二人がお互いの愛に気づき、結婚して新しい命を授かるまで、それほど時間はかからなかった。
完
スペイン料理を出すバル。
仕事帰りの客で店内は賑わっている。
河津雪乃と坂本綾は生ハムと魚介のミックスアヒージョを食べながら、ワインを飲んでいた。
「だから、結婚しているっていうだけの話です。愛情が他に移ってしまった夫とずっと一緒に居たいっていう根性が意味不明なんです」
綾は生意気な口はきくが、なかなか根性がある雪乃の3つ下の後輩だ。
良くも悪くも何かを実行する上で恐怖を有していない彼女はある意味尊敬できる。
「そうなんだ」
雪乃はいつもの脈絡のない話の流れに適当に相槌を打った。
「奥さんよりも愛する女の人ができたわけですよ?愛情がなくなっている人と一緒に居ようと思うのがそもそも間違いなんです」
「え……と。それって不倫相手が正しいっていうこと?」
雪乃は驚いた様子で綾を見る。綾は独身だけど自分は既婚者だ。
「正しい、正しくないの問題ではなく。旦那さんの愛情がないのに、夫婦関係を継続しようとする嫁がおかしいって言ってるんです」
「なるほど」
雪乃は苦笑しながらにワインを一口飲む。
「何が言いたいかというと、旦那が浮気して他に好きな人ができた場合、速やかに離婚するべきって話です。結婚って契約みたいなものですよね?でも、契約したからって他に愛する人ができたのなら別れるしかないじゃないですか?旦那さんに執着して、貴方が悪いとか意味が解らない。諦めるしかないじゃないですか?」
「そういう考え方もあるのね」
「ただし、子どもがいたら別です。責任が生じますから。その場合は愛情がなくなっても一緒に居なくてはいけないです。子どもにには未来があるんで、育てる責任は親が同等に持たなくちゃいけません」
「子どもがいなければ、離婚すべきってことね。相手が妻を裏切り浮気してたとしても、離婚は必ずしなくちゃ駄目ってこと」
「逆に、離婚しない理由は何なんだと思います」
綾は身を乗り出し、雪乃に質問する。
雪乃は少し考えて。
「夫を愛しているから、あるいは結婚の誓いを立てから?」
「そんなの一生添い遂げるってその時点で思っていた事に過ぎませんよね」
「時が経てば気持ちは変わるってことが言いたいのね。不倫相手の女性には、問題はないってこと?人の旦那を奪ったのよ」
「相手の男性が妻より不倫相手を選んだ。ただそれだけの話です。不倫相手にはなんの責任もないです。旦那の愛する人が代わったってだけです。それは仕方なくないですか?」
仕方ないの一言で片づけられるような関係でもないと思うけど。
「ただの恋人関係と、婚姻関係は違うんじゃないかしら」
「だから、婚姻届けを出してなかったら同棲している彼氏ってだけで。彼氏に他に好きな子ができたから別れたって話と同じです。その場合、彼氏やその好きになった相手から慰謝料とか取らないですよね?だから、たかが紙一枚での契約にこだわって泥沼離婚劇する嫁側の心理が解らないんです」
「離婚されないように愛情をつなぎとめろってことよね」
まぁ、一理あるのかもしれない。
なにも浮気は夫がするものと決まっている訳ではない。逆もあるんだから。
「自分が愛していたとしても、一方通行じゃ不幸なだけだし、惨めでしょう?」
「確かにね」
「という訳だから、不倫相手に対する慰謝料請求はなしって事でいいですね」
「……?」
「嫁が一番強いって、おかしくないです?」
「不倫は悪でしょう。昔、姦通罪っていう罪もあったんだし」
「それって女性は告訴することができなかった罪ですよね。不公平です。だからそんなくっだらない法律はなくなったんです。今後も変わっていくべきです。不倫相手への慰謝料請求はなしってことで万事OK 」
「嫁が悪いと」
「そうです。愛されなかった嫁が悪い」
雪乃は、呆気にとられた様子で眉を上げた。
愛されなかった嫁が悪い……
第2話
居酒屋からの帰り大通り、駅までの道を歩く雪乃。
今日は雪乃の誕生日だった。
断れない接待があるからと夫は帰りが遅いらしい。
(綾ちゃんは私の誕生日のお祝いしてくれたけど、私のマンションとは逆の路線って綾ちゃんもなかなか強者だ。しかも自分の家の近くの店を選んでるところが流石……まぁ、後輩なのに奢ってくれたから良しとする)
そんなことを考えながら、まだ混雑する道路を、人を避けながら歩いて行った。
ふと通りの反対側を見ると、夫に似た人物が女性と腕を組んで歩いている。
ここは夫の会社からは遠い。自宅の最寄り駅とも反対方向の町だ。
え……なんで康介さんがここにいるの。仕事の接待があるから遅くなると言っていた。誕生日なのにすまないと謝っていた。
女性は康介に密着して歩いている。まるで恋人同士のようだ。
夫に似ているけど、別人なのかもしれない。
頭の中に、先程の居酒屋での話が蘇る。
(まさか……康介が、浮気……)
確かめずにはいられないと思い、雪乃は気付かれないように離れて二人の後をつける。
(酔った後輩に無理やり腕を組まれているのかもしれない。取引先の女性を接待帰りに送っているだけかもしれない)
何か理由があるのだろうと思いたい。
二人は仲良さそうに、大通りから左に折れて暗い通りへ入って行く。
先にはラブホテルがある。
夫は女性の肩を抱いた。
ホテルの中に入って行く二人。
現場をしっかりと見た雪乃。
青ざめる。
深夜営業しているカフェは、ラブホテルから近い大通りに面していた。
ガラス張りの店内から車道を行き交う人たちを見ている雪乃。
(康介は泊まりはしない。終電には間に合うように帰るだろう。入った時間を考えると2時間後にはホテルから出てくるはず)
先ほどの信じがたい光景が目に焼き付いて離れない。時計に目をやる。時間は9時を過ぎたところだ。
コーヒーを口に運びながら、考え込む雪乃。
出勤前、妻のためにコーヒーを淹れてくれる康介の姿を思い浮かべた。
今朝も普段と変わらない仲の良い夫婦だった。
雪乃が26歳、康介が30歳の時に二人は結婚した。
康介は大手の証券会社で債券トレーダーをしている。
高学歴で高収入、頭の回転が速く、人望も厚い。優しく思いやりがあり最高の夫だと思った。
二人は結婚後お互いしっかり働きながら今後の家族計画を立てていた。
結婚して数年は共働きで資金を貯め、将来的に子供は二人つくる。交通の便がよく子育てにも適したマンションを購入し、温かい家庭を築き幸せに暮らしていくつもりだった。
雪乃は30歳までに子供を産みたいと思っている。
今日で雪乃は29歳になった。
第3話
雪乃はホテルの入り口が見える路上、電柱と看板の後ろに隠れるよう立っていた。
夫と女性が出てきたところを撮るつもりでスマホを構えている。
(時間的に夫がもうすぐ出てくるだろう。しっかりと映像に残そう)
先程カフェで浮気の証拠集めについて検索した。
画像ではなく動画で残すのがいいと書いてあった。
けれど雪乃は夫が言い逃れできないように浮気現場の証拠を残そうと思っている訳ではなかった。
自分がちゃんと現実を受け入れられるように映像に残さなければと感じたのだ。
(私は康介を愛している。出会った時のまま、今もずっと彼のことが好きだ。けれど、その気持ちが一方通行なら意味がない)
さっき綾ちゃんが言った通り、惨めになるくらいなら諦めなければならない。
雪乃にはまだ子どもがいない。
自分は仕事もしっかりしているし、収入もちゃんとある。自分はひとりで生きていく選択ができる。
涙が頬を伝う。
(私は、強いからきっと大丈夫だ)
*******************
朝日が昇っている。疲れた様子で自宅マンションのドアを開ける雪乃。
昨夜はマンションに帰る事ができなかった。
ネットカフェで時間をつぶした。
康介の顔を冷静にみる自信がなかった。
康介には『綾が酔いつぶれたのでアパートまで送る。遅くなったのでそのまま彼女の部屋に泊まる』とメッセージを入れた。
雪乃が誰かの家に泊まるなど、結婚してから一度もなかった。
夫は少しでもおかしいと思うだろうか?
それとも、妻が帰らないのなら自分もラブホテルに泊まればよかったと思っただろうか。
何とも言えない表情で雪乃はダイニングテーブルにそっと鞄を置いた。
康介が雪乃が帰って来たことに気がついたのか寝室から出てくる。
部屋着姿でも所帯じみていないかっこいい康介だった。
背が高く短髪で清潔感がある。眼鏡をかけているから端正な顔立ちは優しく見える。
壁にかかっている時計を見ると今は朝の7時30分。
「おかえり。大丈夫だった?」
「ええ。ごめんね。綾ちゃんが酔っぱらっちゃってどうしようもなかったの」
「そうか、大変だったね。綾ちゃんって同期だったっけ?」
綾ちゃんは同期ではなく職場の後輩だ。
今まで何度も話をしたはずだった。それも康介は覚えていなかったのかと思い愛想笑いを浮かべて雪乃は「ウン」と頷いた。
「シャワーを浴びてないから、先にお風呂入ってくるね」
雪乃は寝室のクローゼットに着替えを取りに行った。
康介の顔を直視できない。
まるで自分の方が悪いことをしているみたいな気分になった。
「朝食を作っておくよ」
休日は朝食を作ってくれる夫。
家事も率先してしてくれて、仕事が忙しくても疲れた表情を見せない。
「ありがとう」
いつもと変わらず、優しい夫の態度。
雪乃は涙が出そうになるのを必死に堪えた。
雪乃は洗濯機の前に立っている。
昨夜着ていた夫のシャツの匂いを嗅ぐ。
(ああ……康介の匂いじゃない)
知らない香水の香り。
グッとシャツを握りしめる。
ダイニングテーブルに置かれたスクランブルエッグ、クロワッサンにカフェオレ。ヨーグルトにはベリーソースが添えてある。
用意してくれた朝食を無理やり口に運んだ。
食べられる気分ではなかった。クロワッサンは後で冷蔵庫にしまおうと思った。
「雪乃、誕生日おめでとう」
優しい眼差しで妻を見つめる康介。
「ありがとう」
「雪乃と結婚出来て、幸せだよ」
(誕生日は昨日だったわ)
無理やり笑顔を貼り付ける雪乃。
「今日はエグゼホテルのディナーを予約しているけど、大丈夫かな体調とか問題ない?」
エグゼホテルは最上級ランクのシティーホテルだ。
そこの高層階にあるスカイレストランはミシュランで星を獲得した人気店だ。
「ええ。大丈夫よ。けれど、今、少しだけ眠たいから午前中寝ちゃおうかな」
昼間から寝るなんて珍しいなと少し驚いて康介は眉を上げた。
「出かけるのは夕方からだから、ゆっくりしたらいいよ。昨日は職場の人に誕生日祝ってもらえたんだろう?仲良くていいな」
昨日は夫が接待だった(接待という名の浮気だったけど)から、誕生日は御馳走するからと言って、綾ちゃんが雪乃を誘ってくれた。綾ちゃんは先輩の雪乃に気を遣ってくれたんだと思う。
「そうよ。今の職場は人に恵まれていると思うわ。居心地もいいし楽しいわ」
「君が楽しそうで嬉しいよ」
夫の単純な笑顔が、以前とは違うように見えてしまう。
雪乃を上手に騙している人の顔だ。
「ごめんなさい。2時間くらい眠ってくるわね?洗濯機は回しているし、お昼はパスタでよければ、冷凍した作り置きのソースがあるからそれを食べてくれるとありがたい」
「ああ、わかった。昼まで寝てる?起こした方がいいなら一緒に昼ご飯を食べよう」
「私は適当に何か食べるから大丈夫」
そう言って朝食を終えた食器をシンクに運ぶ。
康介の食器も軽く流して食洗機に入れた。
寝室の夫婦のベッドに入った。
普段と変わらない夫の態度にモヤモヤする。
膝を抱えて寝室を見る。
寝室には、夫と一緒に撮った記念の写真がある。
昨夜はネットカフェで自分がやるべきことを整理した。
『夫と離婚する』
彼に慰謝料を請求したり、不倫相手を責めたりはしない。
雪乃は康介と円満に離婚する事を決意した。
第4話
数時間眠った。
起きてリビングに行くが、康介は出かけているようで誰もいなかった。
雪乃はダイニングテーブルにパソコンを置いて、離婚後の資産の振り分けを打ち込んでいった。
いつか子どもができ、マイホームを買うために2人で貯めていた夫婦の貯金は折半してもらう。
夫婦の財布は別だった。だから自分個人の貯金はある。
ここの家賃や光熱費、もろもろは全て康介が払っていた。大きな買い物をした時の支払いも康介だった。
雪乃は食費を出していた。
外食する場合は各々の財布から、二人で外食した場合は康介が支払った。
だいたい3:7くらいの割合で、康介の方が多く支払っている。
収入は康介が雪乃の倍はあるはずだ。
雪乃は離婚後の生活のことを考えた。
これから住むアパートを探さなければならない。
今後は一人ですべての費用を賄う。
だいたい毎月8万円くらい食費に使っていた。その他、消耗品なども雪乃が購入していた。
そのお金を次の生活費としてスライドさせれば、これからの生活の心配はない。
夫の為に、肉や魚は良いものを買っていた。
一人だったら食材にこだわらなくてもいいし、量も食べない。
食費は大幅に減るだろう。
確認しないと分からないが、会社から少しは家賃補助が出るはずだ。
「……前向きに考えなきゃ」
2
今日食事をする予定のレストランは、何ヶ月も前から予約しなくてはいけないような人気店だ。
時計を見ると現在午後1時。
ガチャリと玄関のドアが開き、夫が帰って来た。
康介は駅前の老舗鰻店の弁当をテイクアウトしてきたようだ。
康介「起きてたんだ。昼飯買ってきたよ」
ついでに、飲料などの重い物を買って来てくれた。
そういうところに気が利く康介。
誰からも羨ましがられるような素敵な旦那様だと思う。
「ありがとう」
「仕事してたの?」
「いろいろ、やらなきゃいけない事があるの。先に食べてもらってもいいかな。実は胃の調子が悪いの」
申し訳なさそうに康介に謝った。
だけど離婚のことを考えながら鰻を食べられるほど胃は頑丈ではない。
「大丈夫?昨日食べ過ぎたのかな?夜の予約は延期しようか」
「ん……当日だから、キャンセル料がかかるんじゃないかな?せっかくだし、行きたいわ」
雪乃は康介が買ってきた自分用の弁当を冷蔵庫に入れて、明日食べるねと言った。
夫が昼を食べている間に、まとめた資料をプリントアウトする雪乃。
康介に食後の緑茶を淹れた。
抹茶の粉末が茶葉に混ぜてあるらしい物で、京都から取り寄せた物だ。
雪乃が気に入って買っていたが、自分がいなくなったら康介はわざわざネットで注文しないだろうと思った。
全てが思い出になっていく。
リビングのソファーに座る康介。
向かいに座る雪乃。
「改まって、話って何?」
緊張するなと冗談めかして言いながら、康介は雪乃を見る。
「康介さん。私は29歳になったわ。3年間一緒にいてくれてありがとぅ」
「いや、なんだか真面目にそんなこと言われても照れるんだけど。こちらこそありがとう」
「私はとても幸せだったし、今も変わらず、あなたを愛しているわ」
「ああ。俺も雪乃を愛してるし、一緒にいられて幸せだよ」
康介の表情が緩んだ。
康介のこの顔が好きだったなと雪乃は思った。
***************************
雪乃は先程打ち込んだ用紙を康介の前にそっと出した。
「康介さん。離婚しましょう」
「……え?」
康介は虚をつかれたように驚いて目を見張る。
そして雪乃がプリントアウトした用紙に目を通す。
離婚までにするべきこと、今後の予定と財産分与の内訳が書いてある。
「この部屋は、賃貸だし、今まで全ての費用を康介さんが払っているからそのままでいいと思う。私は新しく住む部屋が見つかり次第引っ越すわ」
康介は何も言わずに用紙をめくっている。
「家具や家電はそのままここに置いていく。私が買った物、ドレッサーとか本棚とかは私が持って行くわね。食器や調理器具は半分持って行かせてもらうわ、量も多いし邪魔になるだろうから」
「……ちょ、ちょっと待って」
「もう決めたから、私は大丈夫よ」
「冗談だよね?」
康介は険しい表情になり、焦りが伝わってくる。
「冗談じゃないわ」
しっかりと意志を伝えた。
「……な、なんで?」
康介の額に汗が滲んでいる。
雪乃はできるだけ、落ち着いて話ができるように呼吸を整える。
「康介さんは浮気をしているわ。私は自分が身を引きます。だから浮気なのか本気なのかは分からないけど、彼女との新しい人生を考えて下さい」
「は?何を言っているんだ」
「私は、自分に何が足りなかったのか、どこがいけなかったのか分からないわ。だけど、康介さんを大好きだったから、その気持ちは大事に持って行きたいの。嫌いになったり、責めたり、恨んだりしたくない」
「浮気なんて、何かの間違いだし。俺は雪乃を愛している。何か勘違いしてるんじゃないか?」
「勘違いはしていないし、嘘をつくあなたの姿は見たくない。慰謝料とかはいらないし、そこに書いてある通り、相手の方にも請求するつもりもないわ。ただ、離婚届にサインして、離婚すればいいだけ。弁護士に頼んだり、浮気調査に身を削ったり、ダラダラこの状態を続ける事は避けたいの」
「俺は……雪乃と離婚するつもりはない」
「あなたが拒否すれば、それだけ時間も労力もかかってしまう。無駄な時間は必要ないわ」
「無駄な時間ってなんだよ」
「私たちは半年ほどレスだったわよね?昨日はあなたと浮気相手の女の人がホテルに入って行くところを見たわ。出てくるまで待っていたの。動画も撮った」
「っ……それは……」
顔面蒼白とはこういう事だろう。
急所を衝かれ、狼狽している夫の姿は見たくなかった。
「大丈夫。責めるつもりはないの。許す許さないの問題でもないの。私から気持ちが離れてしまったんだなと思った」
康介は言葉を探しているようだ。
時間が過ぎていく。
第5話
「彼女とは……本気じゃない。ただの遊び……言い方は悪いかもしれないけど、ただの気まぐれで関係を持ってしまった。本当にごめん」
康介さんはソファーから降りて雪乃に土下座した。
「そうなのかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。私はあなたじゃないから分からないわ」
「彼女とは別れる。もう二度と間違いは犯さない。本当にすみません。申し訳なかった」
浮気を許すかどうか、ネットにはあらゆる人の意見が書いてあった。
もし、康介が過ちを認めてやり直したいと言ったらどうするのか。
それも考えた。
「スマホを見せてくれる?」
「スマホ……見せるのは良いけど、相手の人とのログは、その都度削除しているから残ってないんだ」
雪乃は手を差し出した。
間違いを認め許しを請うなら、スマホは渡せるはずだ。
「相手の人と揉めようとは思っていないわ。慰謝料請求したりもしない」
康介はスマホのロックを解除して雪乃に渡した。
最近のラインのやり取りが残っている。雪乃の次に表示されているこの人が浮気相手だろう。
「確かに、何も残っていないわね小林真奈美さんっていうのね。彼女のことを教えてもらってもいい?」
「ああ、分かった」
康介は腹をくくったのか、ゆっくり話し始めた。
「彼女は大学の時のサークルで一緒だった同級生だ。当時彼女は恋人がいて俺は彼女に片思いしていた。学生の頃彼女と体の関係はなかった。当時、こんな綺麗な子が彼女だったらいいなと憧れていた」
「そうなのね」
そんなに前から知り合いだったのかと知って驚いた。
十年以上昔だろう。もしかして、ずっと……続いていたの?
「一年前、偶然彼女を町で見かけて、その時連絡先を交換した。彼女は結婚していて、子供も二人いたし、ただ懐かしい友人という立場で話をしただけだった」
「友人ね」
「彼女は、自分の実家近くにマイホームを建てたと言った。けれど、ご主人の単身赴任が決まったらしい。寂しいと言っていた、子育ての悩みも相談する相手がいないって」
話を聞いても納得できないなと感じた。
康介さんは男性。子供もいない康介さんが、子育ての悩みに答えられるわけがない。
「そうやって何度か会ううちに、体の関係になった」
「水曜と金曜が逢瀬の日ね」
ノー残業デイなはずの水曜日、康介は必ず接待だと言って深夜に帰宅していた。
金曜も遅い日が多かった。
「いや、そんなに……水曜は会っていた。金曜はご主人が帰ってくるときは会わなかった」
「半年前から体の関係があったのね」
雪乃と康介のセックスレスが始まった時期だ。
「……ああ。そうだ」
康介は頭を垂れた。
「相手の人も結婚していたのね」
昨夜見た彼女は、ワンピース姿で、フェミニンな感じの可愛らしい女性だった。
雪乃より年上で、しかも子持ちの主婦だとは思ってもみなかった。
「彼女とは別れる。今後一切、二度と会う事はない。頼む、離婚だなんて言わないでほしい」
「彼女を愛していないの?」
「愛していない。俺が愛しているのは雪乃だ。彼女とは、ただの遊びのつもりだった。ご主人と離婚するわけでもないし、彼女もほんの出来心だった。子供がいるんだし、彼女も俺とは遊びだと割り切っている」
スマホの画像に彼女との写真は残っていない。康介さんは証拠を絶対に残していないだろう。
雪乃は康介のスマホから彼女にメッセージを送った。
─────《ラインのメッセージ》─────
雪乃『急だけど、今日の6時からエグゼホテルのディナーを予約してるんだけど行かない?』
彼女と昨日会っていたわけだから、真奈美さんのご主人は週末こっちに帰って来ていないだろう。
ならば土日、彼女は家にいる可能性が高い。
真奈美『どうしたの?今日は奥さんの誕生日ディナーだって言ってたじゃない?都合が悪くなったの?』
雪乃『妻が急に実家に帰らなくならなくなった。キャンセルするのはもったいないから、行ってきたらと言われた。時間が取れるなら君はどうかなと思って』
真奈美『そうなのね。両親に子供たちを預かってもらって、行くわ』
雪乃『良かった。ホテルの37階スカイレスト、ランシャノアールに6時。河津の名前で予約している』
真奈美『分かったわ。昨日も会ったのに、今日も会えるなんて楽しみ。泊まれるの?』
雪乃『部屋も予約してる』
真奈美『両親に、泊りで預かってもらえるか聞いてみるわね。ありがとう。好きよ、愛してる』
雪乃『じゃぁ、6時に待っている』
───────────────
雪乃は康介に成りすまして彼女にメッセージを送った。
そしてキッチンへ行って、タオルにくるみ肉叩きハンマーを持って来た。
「康介さん、真奈美さんにメッセージを送ってみたから読んでくれる」
康介は自分のスマホを見て、真奈美さんと雪乃のやり取りを読んでいく。
驚愕した表情で雪乃を見た。
「な、なんで……!」
最後まで読んだところで、康介が彼女に連絡しようとしたのでスマホを取り上げた。
そして夫のスマホをテーブルの上に置き、ハンマーで液晶を割った。
ガシャ!
「うわぁ!」
康介の肩がビクンと上がる。
壊れた自分のスマホを見てなす術もなく康介は青ざめていた。
「弁償するわ」
「……なんて、ことするんだ……」
『絶望』とはこういう時に使う言葉なのかもしれない。康介は頭を抱えて目を閉じた。
「これで、彼女とは連絡が取れないでしょう。けれど、彼女は時間がくればレストランで待っている。泊まる準備をしているかもしれないわね。お子さんを実家に預けて、あなたが来るのを楽しみにずっと待っている」
「君は……」
「離婚しましょう。きっと康介さんは私をもう愛する事はないでしょう。彼女のところへ行ってあげて。待ちぼうけは可哀そうよ」
康介は振り返って壁の時計を見た。
今は3時だ。
「こんなことをしなくても、真奈美とはちゃんと別れた」
「私は、彼女と別れてなんて言っていないわ。私と離婚してと言っているのよ。申し訳ないけど、次の住まいが見つかるまで、多分長くても2ヶ月。それまではここに住まわせてほしいの」
康介は何も言えずにただ黙っていた。
「私たちには子どもがいないし養育費の必要もないわ。私は自分で仕事をしているし、これからの生活に困るわけでもない」
「君はそれでいいの?俺を愛しているって言ってくれただろう」
康介の目に涙が潤んでいるような気がする。
「ええ。愛しているの。でも、一方通行じゃ駄目でしょう」
「……俺は、離婚したくない。時間をかけてちゃんと話し合おう」
雪乃は首を横に振った。
第6話
雪乃は呆れたように短くため息をつくと話し始めた。
「彼女の旦那さんに、あなたとの不倫関係がバレたらどうするの?もし、そのことが原因で、ご主人が真奈美さんと離婚するって言ったらどうするの?慰謝料だけあちらに支払って済む問題じゃないわよね」
「そんな事にはならない。彼女は離婚するつもりなんてない。子どももいるんだ。家だって、ローンを組んで買ったって言っていた」
「ローンを組んで買ったマイホームも手放して、子供は……小さいから育てるのは奥さんのほうよね?仕事はしていないでしょうから、母子家庭で福祉のお世話になって一人で真奈美さんは頑張っていくのよね?」
「そんな……大げさなことにはならない」
「あなたは無責任にも、彼女を放置して、離婚の原因になったにもかかわらず、私と幸せに結婚生活を続けるの?」
「だから、ご主人には関係はバレていないし、子供がいるのに簡単に離婚なんてしない」
「……康介さん。私からは何も言わないし、関係をバラしたりしない。だけど、彼女はあなたを愛しているかもしれないし、離婚してもいいと思っているかもしれないでしょう。さっきのメッセージにもそれが伝わるような文面があったわ」
「遊びだから、彼女もそんな言葉が言えるんだ」
「彼女が離婚したら、あなたは責任を取って彼女と再婚してあげるべき。子供が二人もいるんだし、今から私と子どもを作る必要もない。私は、揉めずに、できるだけ円満にあなたと離婚したいの。もういいでしょう」
「彼女の子供は俺の子じゃないだろう。もっと考える時間を持ってくれ、時間が経てばもっと冷静に物事を考えられる。離婚だとか簡単に言わないでくれ。雪乃と過ごしてきた3年は何だったんだ」
それをあなたが言うの?
「30歳までに私たちの子供を産みたかったわ。昨日は私の誕生日だった。そろそろ子どものことを話し合えるかなって思ってた。あなたがしたのは、ただの浮気なのかもしれない。無かったことにすればそれでいいのかもしれない。でも、私はあなたの愛情に縋ってしか生きられない人間になりたくないの」
「どちらか片方に縋るんじゃない。お互い支え合って生きていくんだ」
それが裏切られたんだから、どうしようもないじゃない。
「かっこ悪いでしょう。愛した人が別の人を愛してしまったんだから、私はあなたを諦めることを選ぶの」
「だから、俺が愛しているのは君だけだ」
「どうするの?もうすぐ準備して家を出なくちゃ間に合わないわよ。真奈美さんがホテルで待ってるわよ?」
行かないという選択肢があることに康介は気付くだろうか。
「……携帯を壊したりしなければ、連絡できたのに……」
「そうね。弁償するわ」
「そういう問題じゃない!彼女と別れ話をしに行ってくる。雪乃も少し冷静になってもう一度ちゃんと考えてくれ。俺との夫婦生活に不満はあった?お互い愛し合いっていたし思い合っていたと思う。君を大切にしていた」
康介は自分の部屋へ何かを取りに行き、包装された包みを雪乃の前に置いた。
「君の誕生日プレゼントを用意したんだ。今日、ホテルで渡そうと思っていた」
(いらないわよ)
昨日彼女と抱き合って、今日は妻にプレゼントを渡す。
そんな調子がいい夫を軽蔑する。
康介を信用できないのは当たり前だ。
そして、こんなに大事な話をしているのに、遊びだと言っていた浮気相手に会いに行こうとしている。
いくら妻が行くように勧めたからと言ってもだ。
彼女を放置したらいい話だけど、それを康介はしないだろう。
二度と会わないと言ったあなたは真奈美さんに会いに行くのよね。
愛していると言った妻を置いて。
第7話
マンションのリビングに一人残された雪乃。
茫然とした状態でソファーに座っている。
(康介さんは、今頃別れ話でもしているのだろうか)
そう思いながらパソコンを立ち上げた。
なんとなく浮気相手の名前を検索する。
大学名、年齢は分かっている。
SNS更新はされていないが、昔のFBから結婚式の写真を見つけ出す。
旦那さんと奥さんの結婚式の様子だ。彼女は純白のウエディングドレスを着ている。
可愛い感じの人だった。自分とは真逆のタイプの真奈美の姿に驚く。
(この人が康介さんが好きな人なんだ。私と違って、女の子らしく可愛いアイドルのような顔をしている)
康介は学生時代、彼女を好きだったと言っていた。
どちらかというと雪乃は背が高く、目は大きいが吊り目がち。クールビューティーと学生の頃は言われた。
雪乃は冷たそうに見えるからという理由で、雪女というあだ名をつけられたこともある。
見た目も雰囲気も全く違うのに、夫はなぜ自分と結婚したんだろうと不思議に思った。
康介の帰りを待つのをやめて、荷物の整理を始める雪乃。
帰ってくるかどうかわからない人を待つのは辛い。
そんな思いをするくらいならビジネスホテルに泊まったほうがマシだと思った。
どのみち、もう康介と同じ部屋の同じベッドで眠ることはできないだろう。
雪乃は他の女を抱いた夫の横で眠りたくはなかった。
しばらくの間ビジネスホテルに泊まろうと決めた。
ひと月、会社の研修でホテル住まいだった事もあるから、問題はないだろう。
なにも、新しいアパートが見つかるまで康介と共に暮らす必要はない。
その考えにたどりつくと、着替えと化粧品をスーツケースに詰め込んだ。
夫は水曜と金曜、月にだいたい6日彼女と会っていた。
休憩だとしてホテル代が3~4万。食事もしているだろうから、交通費も入れて7万くらいだろうか。
職種が経理だから、思わず計算してしまった。私のために使われたお金じゃなく、彼女と楽しむために使ったお金なんだなと思うと腹が立つなと思った。
「旅行とかにも行ってたのかな……?」
考え出すとキリがない。
さっき康介との話の最中、冷静でいた自分に少し驚いた。
「私って肝が据わっているのかしら」
もともと雪乃は感情をあまり表に出さないタイプだ。
冷たいと言われたこともあり、それで誤解されることも多かった。
けれど感情はある。
辛く哀しい想いだって人間なんだからあるに決まっている。
**********************
帰って来て雪乃がいなくなっていることに気がついただろう夫からの連絡はなかった。
そもそもスマホを壊してしまったから、連絡のしようがないだろう。
パソコンに同期していたら番号くらいは分かっていると思うけど。
そんなことを考えながら、雪乃はビジネスホテルで賃貸住宅情報を検索していた。
トゥルルルル、トゥルルルル……
ホテルの部屋の電話が鳴った。
『河津康介様というお客様がいらっしゃっています』
受付からの電話だった。
どうやって自分の居場所を突きとめたのか雪乃は分からなかった。
連絡せず、直接宿泊先に来る強硬手段は康介の決意表明のような物なのだろう。
長期滞在できて、価格的にも安く雪乃の会社に近いホテルと考えればだいたい察しはついたのかもしれない。
けれど、ビジネスホテルが混在しているこの地区で、泊まっているホテルを特定するのは難しかっただろう。
受けて立つしかないが、雪乃は流されるタイプではない。
静かだが自己主張はするし、怯えて何も言わない性格でもない。
『行きます』
部屋に招くのもどうかと思い、下に降りていく事にした。
雪乃が家を出ていってから5日が経っていた。
康介は仕事帰りに来たのだろう。
時間は夜の8時だった。
第8話
食事とお酒が飲める静かな和食店の個室に康介と共に座っている。
接待で使った事がある店なのか、高級感がありお洒落だった。
「夕飯は食べた?」
「ええ。食べたけど、何か軽く頂くわ」
「分かった」
康介は適当に注文をし、お酒はどうするか雪乃に訊ねた。
一杯だけ付き合うつもりでビールを注文する。
康介が何を話すのか気になった。
外での食事だから険悪なことにはならないだろう。
お互い大人だ冷静に話ができればいいと雪乃は思った。
「スマホを修理した。というか新しく買いかえた。データはそのまま移行できたよ」
「そうなのね」
「弁償してもらう約束だからね」
雪乃はふふふと笑った。
まさか最初の会話が、スマホの弁償の話だとは思わなかった。
「彼女と別れたよ」
「そうなんだ。すんなり別れられたんだ?」
「正直言うと、そうでもなかった」
やはりそうかと思った。
真奈美さんは少なくとも康介に恋愛感情を持っていた。
そうでなければ、子供を預けてまで会いに行ったりはしないだろう。
「私は巻き込まれたくないから、できるだけ早く離婚届にサインして欲しいの。今日、持って来たわ」
鞄の中から封筒を出した。私の分は記入済みだ。
「俺は、離婚するつもりはない。というより、もう一度チャンスをくれないか?」
無理だというより、嫌だった。
長引くのも嫌だし、彼が私との結婚にこだわる意味も分からなかった。
「住む場所もそうだし、会社関係の手続きもなんだけど、ちゃんと離婚してもらわなくては困るの」
「ああ。わかっている。だけど、俺は君と離婚する気はない。だから、離婚しないで済む条件を出して欲しい」
ネゴが得意な康介らしい言い方だなと思った。
*****************************
飲み物と料理が来た。
冬筍穂無、里芋田楽、黒豆みぞれ寄せがお上品な小鉢に盛り付けられていた。
デートで訪れたとしたらきっと素敵だっただろうなと雪乃は思った。
「なぜ康介さんが私との結婚生活にこだわるのか分からないわ」
乾杯はせずに、ビールを一口だけ飲んで康介さんに訊ねた。
「愛しているからだよ」
康介さんはこれからの話の中で、この甘い言葉を連呼するだろうと想像がつく。
「半年も妻を抱かなかったのに?」
「ああ。抱かなかったけど、君を愛している」
「体と心は別物だって言うけど、男性の言い訳にしか聞こえない文言よね」
雪乃はわざと嫌味っぽく言ってみた。
「言い訳というより、実際俺の場合、体の関係は愛がなくてもできた。けして許される事じゃないのは分かっている。本当に必要なのは君だって気付かされた」
「後悔先に立たずってよく言ったものだわ」
「ぐうの音も出ないよ」
笑い話にはさせない。冗談で済まされる話ではない。
「康介さんを責めたくないけど、遊びで他の人を抱いたあなたの事は軽蔑するわ」
「君は俺を愛していると言ってくれた。だから、それに縋りたいと思っている。もう嫌いになったのかもしれないけど。もう一度だけチャンスが欲しい」
「あなたのことは本当に大好きだった。こんな素敵な人、他にいないと思う。理想の旦那様よ」
「それなら……」
「その愛する人を繋ぎとめられなかった自分に嫌気がさしたの。身を引こうと思った。あなたは他の人でも愛せるんだろうって思った」
「体だけの関係だった。もう二度としない」
この話には終わりが来ないだろう。
雪乃は一気にビールを飲んだ。
埒が明かないし、無駄な時間だ。
****************************
康介の話に流されないよう、いったん別の話に切り替えた。
「私の居場所、よく分かったわね」
「あらゆるホテルに電話しまくった」
康介さんの、まさかのアナログ戦法に驚いた。
彼女との別れ話に雪乃との離婚問題、妻の捜索。
そこまで康介さんが必死になるほど、自分の存在が大きかったとは雪乃には思えなかった。
「結婚生活にそれほど重きを置いていたとは思えない。戸籍にバツが付くことがそんなに嫌なの?」
「戸籍がどうなろうが問題はない。ただ、離婚すれば君とは夫婦でいられなくなるだろう。俺は雪乃と他人になりたくないし、雪乃が別の人生を歩むのも嫌だ。俺と一緒にいてほしい」
ただの自己満足なのだろうか。
雪乃は康介がどれほど自分を傷つけたのかを知ってほしいと思った。
「離婚……離婚しないで済む条件を出して欲しいって言ったわね?」
「ああ。君と離婚しないで済むならなんだってする」
「じゃぁ、この先半年間、私が浮気をするわ」
「……え?」
「私が、他の男性に抱かれるの」
「それは……いや、そんな事君ができるはずがないだろう」
思っても見ない言葉に康介は唖然とする。
雪乃からそんな条件が出るなんて考えてもみなかったのだろう。
「できる」
「……や、できない。雪乃はさっき、遊びで他の女を抱いた俺を軽蔑すると言った。軽蔑するような事を君がするはずはない」
雪乃はどうかしらというふうに首を傾げた。
「私はこの先半年間、水曜と金曜に他の男性に抱かれるわ。食事に行ったりデートしたり、旅行に行くかもしれない」
「俺は旅行には行ってない」
「そんなの知らない」
「雪乃は他に好きな人がいるの?」
「いいえ」
「なら、そんな無茶なことできるはずがないだろう」
できるわ。体の関係は、愛がなくてももてるってあなたが言ったんだから。
第9話
会社の慰労会が行われた。
大規模な物だったが、年末でクリスマスの時期と被ったので参加者が限られていた。
雪乃はメーカーの財務部、経理課に所属している。
「家族がいるとか、彼女持ちの人は参加してませんね」
雪乃は苦笑いしながら職場の上司である前島に話しかけた。
「まさに、寂しい者たちの集まりだ。『慰』は、なぐさめるとも読むだろう。相手の気持ちをいたわり労うための会だな。よし、君たちは俺をねぎらえ」
部署の課長の前島は36歳、バツイチで現在独身。一見チャラそうに見えるが、浮いた噂はない。
離婚してお子さんを引き取っていると噂で聞いた。
前島は仕事ができ人望も厚い、いつも冗談を言い場の空気を和ませてくれる。
雪乃にとっては尊敬できる頼もしい上司だった。
会場は島が分かれていて、このテーブルは前島と雪乃、そして綾の3人だけが座っていた。
綾ちゃんは前島課長に住まいを聞いていた。
「前島課長は、会社近くのアパートに住んでますよね」
「会社から2駅、駅近、格安、住人少なめ、緑多め。最高の賃貸物件に住んでいる」
「なんですかそれ、凄くないですか?」
「築50年の団地なんだよ」
笑いながら生ビールをぐびぐびと飲む前島。
男性特有の喉仏に雪乃は目がいく。
「50年って、なんか凄そうですね」
「壁にさ、水道とかガスとかのパイプがむき出しについてるんだ。なんていうか凄いレトロ?」
綾がレトロという表現に喰いついた。
「レトロって使い方で合ってるんですか?」
「家賃6万の3LDKなんだけど、完全にリノベーションしてあるから、キッチンとかバスルームとか最新だし、何より2階のベランダからすぐに緑が見えるんだよ。壁も漆喰でお洒落だし、賃貸だけど売っているなら買いたいレベル」
「なんですか、それ魅力しかないじゃないですか。先輩いい物件ゲットですよ」
昨日私は夫が不倫して離婚するかもしれないと綾ちゃんに話した。
綾ちゃんに「先輩!この前話したこと地で行く?」と、言われた。彼女の軽いノリは今の私にとっては励ましだった。
前向きに行きましょう!応援します!と言われ、強力な味方を得た気持ちになった。
「築50年だし、古すぎて人気がない。全部がリノベーションしている訳じゃないから、他はもし住むのなら自分でリノベする必要が出てくる」
「売りに出てないかな、リノベ済みのやつ」
「なに?河津さん引っ越しするの?」
「もし、一人になったら住む場所が必要ですから」
「え!マジで?」
前島は驚いてジョッキを置いた。
「もしもの話です。新しく自分の住むアパートなりマンションなりを探しておけば、いざという時、素早く動けますから」
「うわ、そうなんだ……バツイチ仲間が増えるかもしれないな。よろしくな」
「課長もバツイチでしたよね。もしもの時は、先輩としていろいろご教授頂ければありがたいです」
「雪乃先輩、今の時代バツイチなんて珍しくも何でもないんです。逆にモテたりしますからね。これからは合コン誘いまくりますね」
お酒も入っているせいか、綾の明るさに気分がよくなる。
落ち込んでても仕方がない。前に進んで、これからどんどん新しい出会いを求めていこうと思う雪乃。
「急いで物件探さなきゃいけないの?」
少し真面目な様子で前島は雪乃に訊ねた。
「一応半年後をめどに考えています」
「そうなんだ。不動産屋さんに聞いてみるか?良かったら俺の部屋、見学してもいいけど。セクハラ案件ではないぞ親切心でだ」
「ああ、そういう心配はしてません。課長は対象外ですから」
「それ酷いな、ちょっと落ち込むんだけど」
「確か、前の奥さんとの間にお子さんいらっしゃいましたよね」
「そうなんだよね。可愛い息子を育てているよ」
「父子家庭ですね。課長は、なんていうか優良物件ではなく、事故物件的な危うさを感じます」
「綾ちゃんそれは……課長、お気になさらず。綾ちゃんは酔っぱらってます」
「綾ちゃん、言っとくけど、ボーナスの査定ね俺が出してるからね、減っちゃうかもしれないよ」
「パワハラって言葉を知っていますか?」
綾ちゃんはお酒のペースが速かったせいか目が据わっている。
「綾ちゃん、俺も今、酔っぱらっているからね。大丈夫だ、ある程度は無礼講だ」
「課長、雪乃先輩が美人だからって狙わないで下さいね。まだ離婚してませんから、今の状態で口説いたら不倫になります。時間をかけてゆっくりモノにして下さい」
「よし、そうしよう」
ハハハと笑って、前島はウーロン茶を注文する。
綾のための物だろうと思った。
雪乃は冗談とも本気ともつかない二人の言い合いに愛想笑いで相槌を打った。
第10話
康介は雪乃の条件を呑んだ。
康介は今後雪乃に嘘はつかない。
真奈美さんとは連絡も取らないし二度と会わない。
半年間妻を抱かない。これは半年間雪乃とはレスだったからだ。
その半年の間に雪乃は他の男性と浮気をする。
それに対して文句は言わず、質問は一切しない。
雪乃は康介がやっていた事と同じことをするだけだ。
それに康介が耐えられ、尚且つまだ私との結婚生活を続けるつもりなら、離婚はしない。
約束を守ってくれるなら、元通りの生活に戻ると約束をした。
そして水曜の夜、雪乃は前島のアパートへ来ていた。
「いいだろう。結構広いし何より住人があまりいないから静かだ」
住人がいないのは、人気がない物件だという事だろう。
「静かでいいですが少し怖いかもしれません」
「確かに女性の一人暮らしに向いているとは言い難いかもね」
前島さんは冷蔵庫からビールを出してくれた。
駅前で牛丼をテイクアウトしてきて、二人で食べることにした。
「お子さんにと思って、お土産を買ったんですけど今日は留守ですか?」
「義実家が近いんだ。小学校に入学する事になったから、学区の事もあるし平日はそこに住んでいる。土日はこっちで過ごしている感じだな」
「おじいちゃんおばあちゃんと一緒なんですね。それは有り難いですね。前島さんが時短勤務ってわけにもいきませんしね」
お土産は渡しておくよ。ありがとうと言って彼は笑った。
「よかったら、ご主人と何があったか聞くけど?いい助言ができるかは別だが」
「そうですね。前島さんに聞いていただこうと思ってました」
リノベーションされた物件を見てみたかったというのもあるが、離婚経験者の彼に夫のことを相談したかった。
別に隠し立てするつもりもなかったが、前島にだけしか話せない内容もあった。
雪乃は今まで自分に起こった事を全て前島に話した。
「なるほど……なんていうか、君ら夫婦はかなり拗らせてるね」
妻が他で浮気をしても構わないという契約をしたというくだりは、前島さんを驚かせた。
雪乃は、前島となら一線を越えられるような気がしていた。
「心と体は別物だという夫の心情を理解し、同じことを私がしても彼がそれを許せるのなら復縁という話をしています」
「そんな無茶苦茶な条件、旦那さんよく呑んだな」
「嫁が他の男に抱かれるんです。普通なら許せない。けれど、離婚しないで済む条件を提示するよう彼が求めましたので……」
前島さんは頷いた。
「よく分からないんだけど、普通なら許せないだろう浮気をして、河津さんは最終的にご主人と離婚するわけ?それとも、旦那が君の浮気を許せば元サヤに戻るのが目標?」
「それが、自分でもよく分からないんです。自分が愛する人以外に抱かれることができるのかも分からない」
支離滅裂な内容に、自分でも何を言っているのだろうと思ってしまった。
「で、河津さんはその体を許す相手に俺を選んだわけ?」
雪乃はそうですと頷いた。
「前島さんは今後結婚するつもりないでしょう?お子さんを大事にしてらっしゃいます。今まで、いろんな女性が前島さんを口説こうとしていましたよね?職場でモテているのは知っていました。けれど、真剣に交際するつもりはないとすべて断っていることも知ってます」
「よくご存じで」
そう言って前島は缶酎ハイのプルトップに指をかけた。
「お金を払って、女性専用の風俗みたいな場所に行こうかと思ったんです。いろいろ調べました。けれど、私はあまり性欲がないというか、それ自体に魅力を感じないし、ちょっと嫌で……けれど、前島さんとなら一線を越えてもいいかなと思ったんです」
前島は雪乃の言葉を聞いて酎ハイを吹き出した。
「まぁ、嫌なもんに金を払う必要はないよな。ってか、河津さんってそんな人だったんだね。あ、これは別に悪い意味ではないよ。なんていうか、もっと真面目で冷静に物事を判断するというか、どちらかというと冒険心はなさそうなタイプにみえた」
「冒険なんでしょうかね……」
「う……ん?なんていうか、君を抱くことはやぶさかではない。けど、ご主人以外の男に体を触られるんだぞ?平気なの?」
前島さんは右の眉を上げて雪乃に問いかけた。
「そうですね……やってみないと分からないです。ただ、そういう行為がしたいかと言えば、あんまりしたくないかな」
「なんだそれ、ならば、しなくていいだろう。した振りでもしておいたらどうだ?金払ってまで無理にしなくていいだろう」
前島さんは呆れたようにそう言うと黙り込んだ。
雪乃は彼を怒らせてしまったと思い、話したことを後悔した。
第11話
けれど前島さんは、少し考えた後、『協力をしてもいいけど』と続けた。
「俺は、子どもがいる。男の子で名前は太陽。妻とは死別だ。5年前に事故で亡くなった」
離婚じゃなくて奥さんとは死別だったんだ。
初めて聞いた話だった。
雪乃はなんと言っていいのか言葉が出なかった。
「妻を愛していたし、今でも彼女の事は忘れられない。この先結婚するつもりもない。いや、まぁ、先のことは分からないが、とにかく一番大事なのは太陽だ」
「なんか……すみません。私の話なんか、くだらないですよね」
凄く重い話をされて、軽率な自分が恥ずかしくなった。
「くだらないというか、簡単に自分の体を好きでもない相手に許すのはちょっと違うような気がするな」
「心と体は別という真偽を確定するために、実践してみようかと思ったんです」
何だそれと前島さんは笑った。
「性欲的なことで言うと、男性と女性で違うのかもしれないな。人によるのかもしれない。少なくとも河津さんは誰にでも体を許せるタイプではないと思う」
「そうなんですかね……」
「俺だって、男だし。まぁ、性欲はあるから風俗に行ったりするし、一夜限りの女性と関係を持ったこともある。妻が亡くなってずいぶん経ったから、いつまでも自分で慰めてるって訳にもいかないしな」
「そう……なんですね。亡くなった奥様に操を立てているとかいう訳ではないんですね」
「そうだな。男だしって言ってしまうと、ご主人と同じかもしれないな」
操を立てるって男にも使う言葉だっけ?と言いながら前島さんは立ち上がった。
冷蔵庫から酎ハイのおかわりを出し、雪乃にも一本持って来てくれた。
「今日は水曜日だし、河津さんが遅くに帰ったら、ご主人は浮気したって思う?」
「はい。そうかもしれません」
「実際、体の関係がなくても、水曜と金曜だっけ?は、うちに来ればいいよ。ただし条件がある。お手伝いさんだ」
「お手伝いさん?」
「そう。河津さんは家事代行のお姉さんだ。太陽もこの家にいる事があるから、表向きは家事代行のお姉さん」
「家事労働を私に強いる訳ですね」
「そういう事。晩飯を作ってくれたら嬉しい。材料費は出す」
「夫には浮気をしてきたと思わせる事ができるし、一石二鳥という訳ですね」
「いや、そうでもないな。だってさ、そんなことしなくても水曜と金曜はどこか別の場所で時間をつぶせばいいだけだし、河津さんがわざわざ家事するためにうちに来る必要はないだろう」
「そうですね」
「だから、俺は出張ホスト、なんだ……女性専用風俗のキャスト?になるよ。本番は有りでも無しでもいい」
「え……と?」
「だって、河津さん。俺に抱かれてもいいって思ってここに来たんだよね?分からないとは言ってたけど、相手として俺ならば一線を越えられるかもしれないって思ったんだよね?」
「そう……ですね」
前島さんになら抱かれる事ができるかもしれないと思ったのは確かだ。
やってみなくては分からない、それをお願いできるのが前島さんだと思った。
「OK、じゃあ、河津さんが望まない限り一線は越えない。けど、嫌じゃなければ体を触る。体と心が別だと確かめてみればいい。もし、無理なら、河津さんは体と心は一緒の人間なんだ。無理強いはしない。けれど、君が望むなら……抱くよ」
一気に心臓がドキドキしだした。
私は、前島さんに抱かれるのか……
「もう一つ条件がある」
「えっ、条件?」
「俺との関係、半年間だっけ。その間、絶対に旦那に抱かれないこと」
「夫に抱かれないこと」
「そうだ」
「それならば、問題ないです。私たち夫婦はセックスレスでした。もう半年以上も夫との間にそういう事はなかったので」
前島さんは少し驚いたようだった。
「うわぁ……もったいないね」
そう言って、前島さんはニッと笑った。
第12話
それからしばらくして、雪乃の仕事場に電話がかかってきた。
相手は康介の不倫相手だった小林真奈美だった。
取引先のふりをして雪乃に電話をしてきたのだ。
『会社に電話してしまい申し訳ありません。どうしても、会って謝罪したいのでお時間をいただきたいです』
『謝罪は結構ですし、職場に個人的な電話をしてこられるのは困ります』
『連絡手段がこれしかなく、仕方なくこういう方法を取らせて頂きました。どうか一度お会いできませんか?仕事が終わる時間帯に会社の近くで待たせて頂くこともできますので』
『それは迷惑ですので、やめて下さい。こちらから改めて電話しますので』
なんて常識のない人なんだろうと驚いた。
謝罪はいらないし会いたくはない。
けれど、考えてみると、もしかして彼女は怯えているのかもしれないと思った。
慰謝料請求や、ご主人にバラされると思い謝罪と言っているのかもしれない。
とにかく一度、真奈美さんと会う必要がある。
雪乃は事情を知っている前島さんに相談してみた。
「会社に直接電話をしてくるなんて、少しおかしい人じゃないのか?しかも会社の近くで待っているとか、普通なら有り得ないだろう」
「そうですよね。もしかしたら、ご主人にバラされることを恐れているのかもしれないと思ったんですけど」
「そうだな。その口止めをするために会いたいと言っているのかもしれないな」
「バラすつもりもありませんし、慰謝料請求もしません。関わり合いたくないんですが、それをはっきり言おうと思います」
「河津さんのご主人を呼んだ方がいいのかもしれないな」
康介に彼女から電話があったと伝えたら、彼は彼女に話をするだろう。
そうなるとまた、事が拗れる。
雪乃は眉間にしわを寄せる。
「彼女は謝罪したいと言っているので、とにかく私だけで会ってみます」
事を大きくしたくないし、彼女が謝りたいというのならそうさせよう。
面倒事はさっさと終わらせたい。
「ボイスレコーダーを持っていって。録音した方がいい」
「わかりました」
前島さんは私物のボイスレコーダーを雪乃に貸してくれた。
********************
小林真奈美とは個室のあるカフェで会う事になった。
「この度は、ご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした」
深く頭を下げ彼女は雪乃に謝罪した。
「もう二度と会社に電話はしてこないで下さい。私は今後一切、あなたとかかわりを持ちたくありませんから」
「ただ……聞いてほしかったんです」
なにを?
「私と康介さんは学生時代からの友人でした。ずっと会っていませんでしたが、1年前に偶然町で会いました」
「いえ、そんな事はどうでもいいです。聞く必要がありません」
「どうしてそうなったかを知っていただきたいんです」
なんで?
「ほんとに出来心で、1年前に体の関係を持ってしまいました。やめよう、これで終わりにしようと思いながらも、1年も関係を続けてしまいました。本当にごめんなさい」
「1年……」
康介は彼女と深い関係を持ったのは半年前だと言っていた。
「はい。主人が単身赴任で、ワンオペの育児に疲れていた私を慰めてくれたのは康介さんです。食事や旅行にも連れて行って下さって。子供達にも良くしてくれて。私は彼に甘えていました」
「旅行……子供と会っていた」
そんな話は聞いていない。
いや、雪乃が康介に聞かなかっただけかもしれない。
「誕生日やクリスマスなどの記念日を独占していまいすみませんでした。奥様と過ごされなければならないのに、一緒に過ごしたのも私の我儘です。どうかお許しください」
真奈美さんは目に涙を浮かべながら謝罪する。
謝ってもらった気がしないのは、彼女の言っていることはおかしいからだ。
「あの……何を言っているんですか?」
彼女は、自分がいかに康介と仲良くしていたのかを雪乃に報告している。
「証拠はあります。その都度、写真を撮りましたし、顔を隠していますがSNSにアップしていました。それが私の生きがいみたいになっていて、癒しでした。悪いとは思っていたのですが、彼から想われているという実感が欲しかったんです」
この人はふざけているのかしら?
「SNSにあげていたんですか?」
「え!奥様はご存じなかったんですか?てっきり全て知っていて、それで浮気がバレたのかと思っていました」
いや、知らないわよ。というか、康介も絶対知らないだろう。
彼は、ラインのログも即削除するタイプだ。ネットに上げている事を知っていたら許すはずがない。
「あの、それって私は知リませんでした。今更ですが、アカウントを教えてもらってもいいですか?」
「はい……そうですよね。もう、バレてしまっていますので、教えますね」
第13話
真奈美さんは自分のSNSのアカウントを簡単に雪乃に教えた。
馬鹿でもなければ、自ら不倫の証拠なんて提示しない。
この人は、自分の不倫の写真をわざわざ妻である私に見せたいんだ。
雪乃はそう確信した。
「これが証拠になって、あなたは私から慰謝料請求されるかもしれません」
「それも覚悟の上です。だいたい200万くらいが上限ですよね。1年の不倫ですし。けれど、それは康介さんが払うと言ってくれているので。もう、私には何もできません」
この女の慰謝料を、康介が……支払うの?
嘘でしょう。
「康介とはまだ付き合いが続いているのですか?」
「あの日、エグゼホテルのディナーのときに別れました。康介さんは奥様に関係がバレたので別れると言っていました」
「ホテルのディナーを……もしかして康介と一緒に食べました?」
「はい。最後の晩餐と言いますか、もうお別れだという事で一緒に食事をしました」
離婚を切り出したあの日、彼女に別れを告げに行くと焦ってマンションを飛び出して、エグゼホテルでディナー?食べたの?
信じられない。
「……嘘でしょう」
「ホテルのレストランで、奥さんにスマホを壊されたから、もう連絡ができないと康介さんが言っていました。彼は私の番号を記憶してませんし、今は連絡が取れません」
いや、もうとっくにスマホのデータは復活してるし。
連絡を取ることは可能だろう。
しないのであって、できないわけではない。
「ひとつだけ、大事なことを聞きますね。真奈美さんは、現在のご主人と離婚して康介と一緒になりたいと思っていますか?」
「……ううっ……それは……私には子供がいます。離婚はできません。けれど、康介さんは私にとって一番大事な人で、今でも愛しています。もし、もし……奥様との離婚が成立し康介さんが独身になったら、私は夫と離婚してでも、彼と生きていきたいと思っています」
「は?」
もはや、驚きを通り越して悪寒がする。
「ごめんなさい……ううっ……正直な気持ちです。本当に申し訳ありません」
彼女は泣きながらテーブルに突っ伏してしまった。もうなんか、わざとらしいというか、演技ですよね、としか言いようがない。呆れて物が言えないとはこういう事だと思った。
真奈美さんが泣いている間に、スマホで彼女のSNSを確認した。
アカウント名は『MANA=KOU』1年前に作られている裏垢だ。
行ったレストラン、泊まったホテル。旅行した温泉宿。もらったプレゼント。
私は急いでアカウント情報を綾ちゃんにラインで送って、証拠を確保して貰う。
綾ちゃんはこういった作業は得意だ。
スクショ案件は全て完璧にこなす。
あとから真奈美さんが削除しても、綾ちゃんが魚拓で残す。
もう、完全に終わったわ。
康介さん、あなた地雷女を引き当てたわね。
************************
雪乃は今日の事は康介に話さないと決めた。
弁護士を雇って、彼女を訴えるつもりだ。
もう、事を荒立てず穏便に済ますという考えは雪乃にはなかった。
彼女から宣戦布告されたんだから、なにも遠慮する事はないだろう。
徹底的にやっつける。
準備期間が必要だった。
弁護士を雇い、証拠を揃えなければならない。
康介との話し合いも何度かしなくてはならないだろう。
真奈美さんは慰謝料を支払い謝罪をすればそれで事は終わると思っている。
彼女は自分がしたことを軽く考えすぎている。
康介とは3年夫婦として過ごしてきた。
彼は策士だし、頭もキレる。
けれど、そんな彼が選んだ相手が、子持ちの真奈美さん?
康介はいったい何を思っているのかが知りたかった。
なぜ?どうして?理由はあるはずだと思った。
ただの浮気で遊びの関係の真奈美さんの方が私より優れていたのか。
もう女として雪乃を見られなくなったのか。
真奈美さんの言うことを全て信じれば、康介はまだ真奈美さんのことを愛していて別れたくないと心の中で思っているはずだ。
第14話
雪乃は毎週水曜日と金曜は隔週で前島さんの家へ通うようになった。
前島の子どもの太陽君とも仲良くなり、家事代行の雪乃さんという存在になる。
「雪乃さん今日の晩御飯は何?」
くりんとした目の可愛い男の子が雪乃のエプロンを掴んで訊ねてくる。
リンゴみたいな可愛い頬っぺたも、小さな手のひらも全てが愛おしく感じる。
「今日は、太陽君リクエストのグラタンにしようと思ってるの。エビグラタンとサラダとフライドポテトね」
太陽君はフライドポテトを毎日食べたいという。
揚げ物だからどうかなと思い前島さんに聞くと、週に一度だけだしあまり気にしないよと言われた。
「おばあちゃんの料理はいつも香ちゃんが作るんだけど、煮物や魚が多いから、あまり好きではないんだ」
香ちゃんとは亡くなった奥さんの妹さんだという。
前島さんにとっては義理の妹にあたる人で、独身で実家住みだから太陽君の母親代わりをしてくれているらしい。
「フライドポテトも毎日食べたら飽きちゃうでしょう?」
「飽きないよ。でも香ちゃんはあまりポテトを出してくれないんだ」
「きっと太陽君が健康でいられるように、香ちゃんは考えてくれているのね。私は適当だから、そのうち晩御飯がお菓子になっちゃうかもよ」
「それなら、毎日作ってくれていいよ!お父さんに、毎日来てもらうようにお願いする」
「ふふふ。お菓子の晩御飯になったらお父さんが嫌がるよ。それに、これはお仕事だから毎日来るのは無理なの」
子どもがこんなに可愛いなんて思わなかった。
太陽君が特別可愛いのかもしれない。一緒に過ごす時間が増えると情も湧いてしまう。
一定の距離感は保たなければならないなと自分にいい聞かせた。
****************************
食事の片付けをしている間に前島さんは太陽君を送っていった。
戻ってきたら一緒に晩酌をする。
前島さんと過ごすようになってからのルーティーンだった。
「ここへ来るようになって2ヶ月経つけど、旦那さんは何か言ってる?」
前島さんが訊いてきた。
「そうですね。とことん見て見ぬふりって感じですかね。夫は水曜日、外で食事を済ませているみたいで帰宅時間は私より遅いです」
「雪乃さんより先に帰りたくないのかもしれないな」
いつの間にか河津さんから雪乃さんに呼び方が変わった。
太陽君が雪乃に懐くようにという配慮なのかもしれない。
「多分、私が男性と一緒にいるとは思ってないでしょう。水曜日に何をしているか聞かない約束ですから、聞いてこないです」
「旦那さんは、そんなに簡単に浮気相手が見つかるはずはないと思っているだろうね。まぁ、今のところ健全な関係を保っているしね僕ら」
「そうでしょうね。でも水曜と金曜必ず家を空けるので、定期的に行く場所があるのは分かってると思います」
前島さんは、風俗のキャストになると言ってはいたが、雪乃に手を出してこなかった。
そういう雰囲気にはならない。
太陽君を義実家に送ってから、一時間ほど二人だけの時間がある。
それでも前島さんの食指が動かないのは、自分に魅力がないせいだろうと感じた。
「私は女性としての魅力に欠けるんです。色っぽさっていうか、そういうのが無いんでしょうね。だから夫ともレスが続いてしまって、彼に浮気されたのかもしれません」
「……本当にそう思っているの?」
「なんかね、昔から言われるんですが、高潔って感じなんですって。触ってはいけないみたいな存在らしいです」
「それは、褒め言葉だろう。でも、確かに汚してはならない感はあるな」
「そうなんですね」
ショックだった。
雪乃は特に潔癖症というわけではないし、処女でもない。ましてやシスターとか尼さんでもない。
一般的なアラサーの女だ。
もしかしたら自分はこの先、男の人に触れられず生きていくのかもしれない。
第15話
「時間を置いて、関係を復活させる気でいるのかもしれないわね」
「ん?どうしたの」
康介が風呂上がりにビールを飲みながら雪乃に訊ねてきた。
残業を減らしたのか、彼は最近、早い時間に帰宅する。
康介が先に帰っている時は、雪乃の夕飯を作ってくれていた。
嫁に尽くす旦那作戦だと思うけど、仕事を早く終える事ができたのかと思うと腹立たしい。
今更感が否めない。
雪乃は平穏な夫婦を演じている。
今までと変わらず、仲の良い夫婦だ。
ただ、執拗なボディータッチは心情的に無理だ。
それに愛しているとか、好きだとか、幸せだと口にだして言わなくなった。
「今日はちょっと疲れたの。先に休んでいいかしら?」
「ああ……その……明日って水曜日だよね」
「ええ」
「帰りは、やっぱり遅いのかな?」
「そうよ、接待だから遅くなるわ」
水曜と金曜の雪乃の予定は接待だ。
康介は半年間「今日は接待で遅くなる」と言って不倫していた。
だから雪乃も同じ言葉をそのまま夫に伝える。
訊かれても雪乃は接待としか言わない。
本当のことを言うはずないのに、わざわざ確認してくるのはなんでなんだろう。
「適当に晩飯食って帰るよ」
「そうね。美味しいものでも食べてきてね」
笑顔でそう返事をして寝室へ向かった。
明日は、前島さんと、綾ちゃんと3人で焼き肉を食べに行く。
決起会だ。もちろん雪乃が御馳走する。
雪乃は康介に300万プラス弁護士費用とこれまでに彼女に使ったホテル代など150万、真奈美さんに慰謝料300万を請求する。
***********************
弁護士に依頼して真奈美さん宛に内容証明を送った。
そして、単身赴任しているご主人と真奈美さんの実家宛に彼女の浮気の証拠を弁護士を介して送り付けた。
真奈美さんのご主人が、康介に慰謝料を請求できるよう丁寧に全ての証拠を揃えて送った。
真奈美さんのご主人には、個人的に連絡を取り、康介相手に慰謝料請求して下さいと伝えた。
「自分の責任だから、弁護士費用もまとめて雪乃に支払う」
康介はテーブルに置かれた書類に目を通した。
真奈美さんがカフェで話したすべてを文字に起こし、雪乃は彼に渡した。
SNSを見せて、1年前から関係を持っていた事を証明した。
「彼女の分も慰謝料をあなたが支払ってくれるのよね?」
「そのつもりはないよ。彼女とはもう関係を断っている。ご主人の小林さんから俺に慰謝料請求が来るだろう。その分は彼女の旦那さんに支払う」
「謝罪しに行かなくちゃいけないわね。しっかり謝ってね。真奈美さんはご主人と離婚して、あなたと子供たちを育てるつもりみたいよ。新しい家族と共に頑張ってね。責任を取ってあげなきゃね」
「……真奈美との関係は終わっている。子供は俺の子じゃない。育てるつもりはない」
流石に他人の子どもを育てる気はないのかもしれない。
けれど全て、康介が起こした不始末。
「不倫したあなたは有責配偶者だから私との離婚には応じてもらうわ」
第16話
「君と交わした契約は有効だ」
彼は私の前に離婚しないための条件と書かれた用紙を出した。
一、康介は今後雪乃に絶対に嘘はつかない。
二、小林真奈美とは連絡は取らない。二度と会わない。
三、この先半年間、妻である雪乃と性行為を行わない。
四、康介は半年間、雪乃の不貞行為を容認する。
(それに対して文句は言わず、質問は一切しない。)
五、雪乃は康介が妻の不貞行為に耐え、尚且つこの先結婚生活を継続すると願うなら離婚はしない。
「これは私たち二人の間だけで交わされた契約だわ。有効性はない」
「いや、ちゃんとした物だ。署名捺印もあるし、もし無効だと言うなら裁判で争う」
「民法第754条に『夫婦間でした契約は、婚姻中いつでも夫婦の一方からこれを取消すことができる』とあるわ」
これが「夫婦間の契約の取消権」と呼ばれるもので、夫婦間のことに法律は介入しないという趣旨だ。
「夫婦関係が破綻しているときに契約した場合は取り消せない。僕は不倫した。そして君も浮気を宣言して離婚したいと言っている。これは夫婦関係が波状しているといえるだろう。ということは、契約は取り消せない」
「ああ言えばこう言う。あなたはわざわざ物事を面倒にしているとしか思えない」
この人は交渉が得意だ。意思、利害を調整して合意に持ってくるタイプ。
理詰めで丸め込もうとしてくる康介だが、離婚したくないという彼の思いと、夫婦関係は破錠しているという言葉の意味は相反するものだ。
「君は、この契約を守るなら元通りの生活に戻ると約束をした。契約後、俺は君に嘘はついていない。そして真奈美とも連絡は取っていない。そして三の条件は守っている」
「私はあなたのせいで、真奈美さんから辱めを受けたわ」
「その点は慰謝料という形でしか償えない」
「もうあなたを愛していない」
「これから、もう一度愛してもらえるよう努力する」
雪乃は大きくため息をついた。
********************
「私の誕生日に、接待だと言って不倫相手とラブホ?」
「なんで今更終わったことを蒸し返す」
「私とはセックスレス半年だった。真奈美さんとは1年前からしてたのよね?」
「初めは定期的にじゃなくて。月に1度だけの関係だった。嘘をつかないという契約前の話だ」
「去年のクリスマスは、真奈美さんの子供たちとパーティー?確か忘年会があるって言ってたわよね。ゴルフも、出張も全て真奈美さんと会うための嘘だった」
「クリスマスは彼女の旦那が仕事で帰れなくて子供たちが可哀そうだったからだ。接待が全て嘘ではない。出張もしかりだ」
「箱根に温泉旅行にいったのね。部屋に露天風呂がついていたらしいわね。一人一泊8万円だっけ」
「嘘をつかないという契約書を書く前の話だ」
「私のネックレスとお揃いの物を彼女にプレゼントしたわね。後、ブランド物のバッグも欲しいと強請られて買ったんだっけ」
「全て自分のカード決済にしている。同じ金額を現金で雪乃に渡す」
「全部、真奈美さんがSNSにご丁寧に上げてるから、食べたレストランや泊まったホテルも全てわかっているの」
「ああ……確認した」
「あなた、こんなに私を裏切って、それでもまだ結婚生活を続けようと思っているの?」
「雪乃がいなくなるなんて考えられない」
「私をそこまで想っているのなら、離婚して」
「……無理だ」
康介さんは意地になっているようだった。
契約書なんて書くんじゃなかった。
離婚しないなんて言うんじゃなかった。
雪乃は今、大いに後悔していた。
第17話
前島さんと次の水曜は仕事帰りにスーパーで買い物をしてから、一緒にアパートへ帰ろうと約束をした。
重い買い物袋を前島さんが持ってくれた。
まるで夫婦のようだなと雪乃は思った。
「あなただって浮気してるじゃない!」
後ろから女性の声が聞こえた。
「なに?」
振り返ると、そこには小林真奈美さんが立っていた。
「あなただって……浮気してるじゃない……」
彼女は目に涙を浮かべて、鬼のような形相で雪乃を睨んでいる。
前島さんは雪乃を守ろうと、真奈美さんとの間に体ごと入ってきた。
「自分の事は棚に上げて、康介の浮気を責めて、無理やり別れさせたでしょう?それに慰謝料請求ですって?酷い女ね」
「なに……」
「私たちは愛し合っていたのよ。それなのに、スマホを壊して連絡が取れないようにするなんて卑怯よ。自分だけ新しい男とよろしくやって全部自分のものにして満足?別れなさいよ!離婚してよ……康介さんを私に……ちょうだい」
「私は、あなたと話すことは何もありません。弁護士を通して」
急に突撃してくるなんて異常だ。
スーパーの帰りに、こんな目立つ場所で修羅場を演じるつもりはない。
「あなた知ってるの?この女は結婚しているのよ?立派なご主人がいるの。不倫関係になっていることを知ってる?」
今度は前島さんに向かって真奈美さんが突っかかってくる。
彼女は興奮している。
雪乃は、関係のない前島さんを巻き込みたくないと思った。
「この人は夫の不倫相手だった小林真奈美さんです」
前島さんに説明する。
「ここではなんだから場所を変えて話した方がいい。ご主人に連絡して、ここに来てもらおう」
前島さんが真奈美さんに話しかけ、道の端に誘導した。
「この女が、康介さんに私と会うなって言ったのよ。この女が、別れろ、二度と話をするなって言ったから康介さんは連絡をくれないの。全部この女のせいよ」
確かに、それが離婚しないための条件のひとつだった。
「雪乃さん。ご主人に連絡をした方がいい。ここに来てもらって」
前島さんが「落ち着いて下さい」と真奈美さんに声をかける。
**********************
「康介に電話するわ」
雪乃は康介に電話をかけた。
まだ家には帰っていないだろう。
けれど仕事が終わっているなら電話を取ってと雪乃は願う。
「……繋がらないわ」
焦っている雪乃に前島さんが提案する。
「雪乃さん。そして、真奈美さん。ここではなんですから、場所を移動しましょう。雪乃さんのご主人には連絡がつき次第来ていただくという事で、そこの……カラオケボックスに行きます」
前島さんは私たちを連れてカラオケボックスに入った。
この場所だったら、防音も利くし個室だから他の人の迷惑にはならないだろう。
「実家に電話して、太陽を預かってもらうよ」
「いいえ、前島さんはもう帰って下さい。これ以上迷惑をかけられません」
前島さんにはこれ以上迷惑をかけられない。
「なんで!この人だけ逃がそうとしないで!あなた不倫相手のことが康介にバレるのが嫌なんでしょう。駄目よ!康介さんに浮気していることをちゃんと知らせてよ。卑怯者!」
彼女は私の服を掴んで、頬をひっぱたいた。
「おい!やめろ」
前島さんが真奈美さんの腕を掴んで押さえつけた。
私はゆっくりと彼女を見据えて。
「冷静に話ができないなら、夫は呼びません。康介と話がしたいのなら、真奈美さん、冷静に振る舞って下さい」
***************************
結局康介がやってきたのは一時間ほどしてからだった。
「いったいどういう事なんだ?真奈美なんで君がここにいるんだ!」
「康介が、私と別れようとするからこうなったの。知ってるの?奥さんは浮気しているのよ?」
康介は前島を見た。
「公認ですから、何ら問題はないでしょう」
前島さんは康介に堂々と告げた。
「問題があるとすれば、別れたと言っていた真奈美さんと、康介さんがちゃんと関係を終わらせていなかった事です」
雪乃は、きっぱりと言い切ると康介を睨んだ。
「いや、俺は真奈美とちゃんと別れた」
「別れていないわ!康介は私を愛してるって言ったでしょう?私たちはお互い離婚して、一緒になるの。約束したわ」
埒が明かない。
「そんな約束は遊びの中でのたわごとだろう!お互いちゃんと家庭があった。真奈美は子供もいる。旦那さんと別れるなんてできない」
「離婚するわよ!わたしは夫に離婚される。だから、康介と一緒になるわ」
**************************
前島さんは関係ないのに、彼にまで火の粉が降りかかってしまった。
「前島さんは私の会社の上司です。私は水曜と金曜日に彼の家に夕食を作りに行っています。それは、家政婦としてであって、体の関係はありません。私がお願いして、彼の家に行っていただけです」
「……そうだったのか……」
それを聞いて康介はほっとした表情を浮かべた。
「そんなの嘘に決まっているじゃない!」
「真奈美は何もわかってない。君は雪乃の事を知らないだろう」
「なんで奥さんの肩をもつのよ……」
真奈美さんは泣き出してしまった。
「康介さん。真奈美さんの事はあなたの問題です。ちゃんと話をつけて下さい。前島さんは関係ないのでこれで帰ってもらいます。これ以上迷惑をかけたくありませんから」
「いや、帰るんだったら河津さん、雪乃さんも一緒に連れて行く。どう見ても、ご主人はこの女性と二人で話し合う必要があるだろう。奥さんに危害を及ぼしたのは事実だし。ちなみに彼女は殴られたからね」
「え!殴られたのか雪乃」
「とにかく、康介さん。真奈美さんとちゃんと話し合って下さい。結論が出たら私に話して下さい。真奈美さん。私が離婚をしたいと言ったら彼が、康介が嫌だと言ったの。そこだけはちゃんと覚えておいてね。私は離婚しようと夫に言ったわ」
「それじゃあ、奥さんは連れて行きます」
そう言うと前島さんは私の手を引いてカラオケボックスの部屋から出て行こうとした。
「ちょっと待って」
雪乃は前島さんにそう言って、鞄の中からボイスレコーダーを取り出し、康介に渡した。
「録音して。私も後で聞くから」
「わかった」
彼らをその場に残して、雪乃と前島さんはカラオケボックスを出た。
第18話
康介side
真奈美は気でも狂ったのではないか。
彼女の必死の形相に、ただ驚くばかりだった。
正気を失っているような真奈美の発言。
康介はどうやって説得すればいいのか考えていた。
「最初会った時は、ご主人との関係に悩んでいたね?」
「ええ。康介は優しく話を聞いてくれたわ」
「真奈美は悩んでた。俺は、学生時代真奈美に憧れていた。だから頼られるのは嬉しかったし、友人として、君の力になりたいと思った」
「康介さんは私に親切だったわ」
「そうだ。あくまでも友人としてだった。俺には妻がいるし、真奈美はご主人も子供もいた」
彼女はゆっくりと頷いた。
「俺は、ほんの軽い気持ちで君を抱いた。一度だけでいいからと真奈美が願ったからだ。だけど、断ることもできたのにしなかったのは俺の責任だ。だからといって本気で君を好きになった訳ではないし、ただの遊び感覚だった。真剣に妻と別れようとは思っていなかった。真奈美と一緒になりたいとも思っていなかった。その場の雰囲気に流された」
「私だって、あの時はこの関係が長く続くとは思ってなかった。ただ、寂しい気持ちを埋めてくれる存在になって欲しかっただけ。けどね、本気で夫より康介さんを愛してしまったの。何度も会って抱かれるたびに、夢中になっていったわ」
「止めなかった俺にも責任はある。けれど、もう終わった。この関係はただの浮気で、本気ではない」
「あなたは、奥さんとはセックスレスだと言った。なのにずっと私の事は抱いてくれたでしょう?私が奥さんよりも愛されていると思うのは当たり前だわ。今更、妻が大事だと言われても信じられない。康介さんは今、奥さんを抱いているの?彼女は浮気をしているでしょう。あの人、前島とかいう男の人とはそういう関係だわ」
「だから何だ?彼女が外で何をしようが、俺に文句を言う筋合いはない。俺への当てつけだ。雪乃は俺を愛しているから、わざと仕返ししているんだ。心は俺から離れていないと信じている」
「そういうのを独りよがりというのよ。雪乃さんの気持ちはとっくの昔に康介から離れているわ。彼女は私に言った。離婚しようと言っているのに別れてくれないって」
「そうだよ。彼女は離婚を望んでいる。俺は彼女を手放せない。言っている意味が分かるか?浮気しようが何をしようが、俺は彼女を手放すつもりはない。それくらい妻を愛しているんだ」
「だから私とは別れるの?私の家族は崩壊したのに?誰のせいなの?あなたのせいよ」
「なんと言われようが、俺は雪乃と別れない。だから君とは終わりだ」
***************************
話が通じない。
「ここでずっと話をする訳にもいかないわ。康介さんゆっくり話せるところへ行かない?」
ゆっくり話せるところって、どこだよ……
「いや、行かないし、これで話は終わりだ。もう俺たちに関わらないでくれ」
真奈美は悲しそうに眉をひそめた。
彼女に対して、酷いことを言っている自覚はある。
けれど、今、俺が一番に考えなければならないのは雪乃の事だ。
「子供は私の両親に預けているわ。もう、ずっと面倒を見てくれているの。私は夫からの慰謝料が手に入ったら、マンションを借りるのよ。あの人、自分が浮気相手と一緒になる為、私にたくさん慰謝料を支払うわ。子供たちと暮らせる広いマンションも用意してくれるの。そりゃそうよね、子どもを押し付けて、自分だけ新しい女と幸せになるんですもの」
子供を両親に育ててもらっているのか?
旦那さんは雪乃に慰謝料を支払うのか?雪乃自身も俺と浮気したわけだから責任はお互いにあるだろう。
「真奈美、子供たちの面倒は親任せなのか?君はそんな母親じゃなかっただろう」
「康介さんと一緒になる為なら、子どもは手放すわ。あなたのためだけにこれからは生きられる。康介さんを愛しているの、こんなに誰かを愛したことなんてなかった。奥さんよりずっと、あなたを想っているわ」
何てことだ……
彼女の子供も家庭も全て壊したのは俺の責任だ。
けれど、ここで流されてしまったら元の木阿弥だ。
ハッキリ彼女には言わなくてはならない。
「それはできない。お互いに責任がある。君は君の人生を生きてくれ」
「奥さんはもう、他の誰かに抱かれているのよ。あなたに気持ちはない。それでも縋りつくの……私だったら、康介さんを一生愛し続ける。大事にするわ。あなたに全てを捧げられる」
真奈美はこんなにも自分の事を想っていてくれるのか。
けれど、雪乃は彼と体の関係を持っていない。
そんなに軽く他の男と体の関係を持てる女じゃない。
それは長年一緒に暮らした俺が一番よく知っている。
「俺にはどうにもできない」
雪乃は、俺を捨てようとしているのに、彼女は全てを捨てて俺を愛していると言ってくれる。クソッ、気持ちが揺らぐ。
「最後だけ、最後に一度だけでいいわ……私を抱いて。あなたへの気持ちは、それでスッパリ諦めるわ。お願い……私を抱いて」
真奈美は意を決したように、うるんだ瞳で俺を見つめた。
第19話
雪乃side
「申し訳ありません。巻き込んでしまったのは私の責任です」
カラオケボックスから連れ出してくれた前島さんに謝った。
「ああ。そうだな」
「もうこれ以上、迷惑をかけるわけにはいきませんので家に帰ります」
太陽君もいるのに、前島さんを個人的な問題に巻き込んでしまった。
とにかくアパートへは行けない。
家に帰って、康介と真奈美さんがどういう話をしたのか、ちゃんと確認しなければならない。
「いや、駄目だ」
「……え?」
「俺を巻き込んだ責任を取ってもらう。それに、俺は君の浮気相手だと言ったのに、君は家政婦だと説明した。俺はそこに怒っている」
「そ、それは、事実じゃないですか」
「いや、俺と体の関係を持つことは君も承知していただろう。実際にはそうはなっていないけど、最初の約束では俺が君の浮気相手になる予定だった」
「それは、そうですけど……」
「手を出さずに我慢していたのが間違いだったな」
「それは、どういう……」
「今から既成事実を作るから、このままアパートに来るんだ」
前島さんは私の腕を掴むとそのまま歩き出した。
「もうご主人には遠慮しない。雪乃を抱く、嫌ならいってくれ」
「私は前島さんとそういう関係になってもいいと思って、ここに通っていました。後悔なんかはしません。……っけれど、こんな勢いに任せた、やっつけ仕事のような状態で抱かれたいとは思いません」
そう言った雪乃を前島さんは抱きしめた。
体と、心は……別なのだろうか……
「今日は泊まっていって。明日はここから出勤すればいい」
大きな広い男性の胸に抱きしめられ、彼の体温を感じた。
「君を抱くよ」
「……それは」
続く言葉は前島の唇に吸い取られた。
**********************
何かが、気になった。どうしても心に引っ掛かりがある。
「ま、待って下さい!」
雪乃は前島さんを押しのけた。
「おっ……なに?」
「前島さんは、私じゃないですよね?」
「何を言ってる……」
そう。前島さんは雪乃を愛していない。
今までも、何となくは分かっていたけど、彼は違う人を愛している。
それは息子の太陽君への愛情とは違う別の意味での愛だ。
そして、多分それは、亡くなった奥さんの妹である、香さんに向けられている。
「以前から思っていました。私を抱かないのは香さんがいるからだって。太陽君を我が子のように育ててくれている香さんに対して、前島さんは恋愛感情を持っているんじゃないですか?」
「そんな事はないよ」
「奥様の妹さんだから、あえて意識しないようにしている。けれど、毎日彼女に会っているし、彼女を信頼して愛する息子さんを預けているんです。自分の気持ちに正直になって下さい。私が、変なお願いをしたから、こんな茶番に付き合ってくれていましたが、実際は香さんの事を自分の中から追い出すためのスケープゴートとして私を利用していただけですよね?」
私も前島さんを利用していたから、それは同じことだ。前島さんを責めるつもりはない。
香さんはお姉さんが亡くなってからずっと、太陽君を育てていた。保育園や小学校へ通わせて、実家で前島さんとも毎日会って一緒に子育てしている。
二人は太陽君がいるから繋がっている関係だと思っているかもしれないけど、きっとそうじゃない。
太陽君が雪乃に話してくれる香さんの姿は、まさしく母親のそれだった。
「もう少し、太陽君抜きで香さんの事を見てみるべきです。他人の私が言うのは筋違いかもしれないけど、でも、太陽君は香さんを母親のように慕っています」
「……確かに……太陽は、そう思っているかもしれない」
「太陽君が一番だと言っている前島さんの二番目になる人は私ではないですよね」
前島さんは、驚いたように目を丸くして、ふっと笑った。
「君のそういう鋭いところ、やけに勘がいいところには驚かされるよ。それが、旦那さんのこととなるとまったく駄目になるのが不思議でならない」
康介に対しての勘は全く当たらないし、彼の考えを読めないのが何故なのか自分には分からない。
浮気の事もそうだけど、夫の事となると急に鈍感で愚かになってしまう。
「……自分でも不思議です」
ふと思いもよらないことが頭をよぎる。
雪乃にとって康介は特別なんじゃないだろうか。
それは夫に対する愛情なのだろうか……
雪乃はその日、前島さんに、抱かれることはなかった。
第20話
康介はあの日、真奈美さんとの話し合いが長引いたのか終電もなくなった深夜にタクシーで帰宅した。
翌日、雪乃は真奈美さんとカラオケボックスでの話し合いの録音を聞いた。
「真奈美さんは康介を本気で愛しているのね」
「そうだったみたいだ」
康介は眉間にしわを寄せ、苦悶の表情を浮かべた。
録音の中で、康介は何度も真奈美さんに伝えていた。
『あれは遊びだった。妻とは離婚しないし真奈美さんと復縁するつもりはない』と。
『奥さん浮気しているのよ!あなたとは離婚したいって言ってたじゃない』
『妻は、俺が浮気したから、それと同じことをする。それでも離婚したくないと俺が行った。彼女の不倫は俺が認めたことだ』
『それじゃぁ、康介さんもまた私とよりを戻せばいいわ!』
『俺は、妻を愛しているから、真奈美とは付き合わない。今度同じことをしたら離婚すると言われている』
『離婚したらいいじゃない!私だって夫と離婚したわ!』
同じような言い合いの繰り返しだった。
遊びのつもりでも、相手はそうじゃなかったという事だ。
「その場しのぎで甘い言葉を使っていたあなたが悪いわね」
「ああ……彼女には家庭もあり子供もいる。まさか俺に本気になっているとは思わなかった」
康介は辛そうに眉間にしわを寄せた。
「結局、話は終わってないようだけど」
「彼女とまた話し合わなければならない。彼女側も弁護士を立てるべきだと言おうと思っている」
「彼女との話し合いは必要だわ。私は穏便に済まそうと思っていたけど、彼女が直接私に接触してきた。私は最初に謝罪したいと真奈美さんが言ってきた時に弁護士を雇ったわ」
「ああ。分かっているよ。全部、俺が真奈美ときちんと別れられなかったことが原因だ」
「そうね。とにかく、彼女を何とかしてほしい。それができるのはあなただけだから、今後、彼女と二度と会わないでとは言わない。好きにしてちょうだい。けれど、また以前のように体の関係を持つのなら、先に離婚届を書いてからにしてね」
「それはない。もう俺は真奈美に興味はない」
*****************************
そもそも真奈美さんとの始まりは何だったんだろう。
ただ、マンネリ化した夫婦関係のストレスを発散するための浮気だったんだろうか?
「彼女との始まりは何だったの?」
「真奈美のご主人は単身赴任になって3年目だった。彼は赴任先で浮気していた」
なるほどそれで納得がいった。
なぜ真奈美さん夫婦がすんなり離婚になったのかが不思議だった。
いくらなんでも、子供がいるのに決断が早すぎると思っていた。
「そう、真奈美さんはご主人の浮気を知っていたのね」
「ああ。旦那の不倫に悩んでいて、その相談を受けていた。そして、そのうち体の関係を持ってしまった」
浮気を知って、他の男性と自分も関係を持とうとした。けれど私は思いとどまった。
けれど、あのまま前島さんに抱かれてもいいという気持ちはあった。彼に迷惑をかけていたし、康介は他の女を抱いたのだから。
けれど、結婚している状態で関係を持ったら、それは不倫だ。倫理に反している。私は自分をそこまで落としたくない。
結果、抱かれなかったとはいえ、キスはした。雪乃は自分が責められているような気がした。
「どちらが先かとかいう問題ではないわよね。多分……」
浮気をした事実は、理由はどうあれ消えない。
「君は……前島さんと、体の関係を持った?」
「それを聞かない約束のはずでしょう」
「……そうか」
康介は目をぎゅっと瞑って、天井を仰いだ。
「他の男に妻が抱かれたとしても、あなたは私と離婚しないの?」
「契約通りの事をしただけだろう。俺に君は責められない」
康介は耐えられるんだろうか。
長年夫婦をしていると、一度や二度の浮気はあって当たり前だという人もいる。
きっとそうなのかもしれない。
それくらいは許して、皆我慢して夫婦関係を継続させているのだろうか。
*******************
「半年前から私を抱かなくなったのはなぜ?」
聞きたくない。けれど、訊かなくてはならないと思い質問した。
「……そうだな……無茶ができない。雪乃は、上品で、綺麗だ。愛しているし、俺にとっては飾っておきたいような妻だった」
「汚したくないということなのかしら」
「まぁ、そんな感じだったのかな。だから他の女性を性のはけ口にしていた。酷い男だよな」
汚したくないからと、前島さんも同じようなことを言っていた。
だから康介は他でうっぷんを晴らした。
雪乃は結婚してから夫を拒否した事はなかった。
だから、汚したくないというのは彼の気持ちで、私の思いではない。
求められたのはもう随分前だけど、それまでちゃんと性生活はあったのだから、康介の自分勝手な言い訳でしかない。
「私に魅力がなかったのかもしれない。あなた好みにできなかった。相性もあるのかもしれないわね」
体の相性という物があるのなら、雪乃の体は康介とは合わなかったのかもしれない。
雪乃はあまり経験がなかったし、男性を喜ばせる技術も持っていなかった。
面白みに欠ける妻だったのは否めないけど。
「やめてくれないか……」
「え?」
「彼との関係を、終わらせてくれないだろうか……」
自らが望んで契約を交わした康介が、言ってはいけない言葉だ。
「無理よ。あなたが離婚届にサインしない限り契約は続く」
「……わかった。後……3ヶ月」
こんな生活をいつまで続けるつもりだろう。
苦しそうな夫をみるのはつらい。
第21話
雪乃はそれから前島さんの家へ行くのをやめた。
香さんへの愛情に前島さんが気付いたからだ。
前島さんは、雪乃の契約の半年が来るまでは手を貸すと言ってくれた。
自分の気持ちに気付かせてくれた恩があるし、乗りかかった舟だからと。
けれど、香さんは、体の関係がないにしろ他の女が前島さんのアパートに出入りすることをよくは思わないだろう。
「ということで、先輩の面倒を私がみることになったわけですね」
「別に一人でも時間を潰すことはできるわよ」
会社近くの温泉施設で天ざるそばを食べながら綾ちゃんに前島さんの事情を話していた。
「実際は違うけど、康介さんは前島さんを雪乃先輩の不倫相手だと思ってるんですよね?毎週男の家へ通っている妻を、いったいどんな気持ちで見ているんでしょうね。旦那さんって変わってますよね」
「そこまで我慢しても私と別れない理由が分からないわ」
少なくとも雪乃は、当時康介が浮気していることを知らなかったから、同じベッドで眠れたのだと思う。今の夫は、全く違う意味で苦しんでいるはずだ。
「真奈美さんから慰謝料が振り込まれたの」
「そうなんですね。300万でしたっけ?凄いボーナスじゃないですか」
「真奈美さんのご主人が払ったのか夫が払ったのか聞いたわ」
「え!旦那さんが不倫相手の慰謝料を持ったんですか?」
「康介は、私が請求した300万と同じ額を、慰謝料として真奈美さんのご主人に振り込んだの。300万が互いの家を行き来したことになるわ。結果、夫が支払ったと言われればそういう事になるかもしれないわね」
「じゃぁ、先輩が弁護士費用も含めて750万をご主人から受け取った事になったんですね」
「まぁ、そうなるかな。あちらの夫婦は、旦那さんが浮気していたから、その分の慰謝料を妻である真奈美さんに支払ったみたいだし、彼らは離婚した。子共の親権は真奈美さんが持った。養育費は子供さんが成人するまで支払われるそうよ」
「先輩、やけに詳しいですね」
***********************
「離婚の原因はご主人の浮気だけど、結局真奈美さんも康介と浮気していたわけだし、康介も話し合いに参加してたようよ。だから康介からあちらの家庭の事情は聞いているわ。慰謝料の清算が終われば、真奈美さんとは連絡を取らないって言ってた」
康介の帰りはここ何週間か遅かった。
土日も家にいる事が少なかった。
真奈美さんとの話し合いが拗れているんだなと感じていた。
綾ちゃんは首をひねった。
「おかしくないですか?」
「なんで?」
「真奈美さんは自分の旦那さんから慰謝料をもらったんですよね?でも真奈美の浮気に対する、嫁からの慰謝料は支払われなかったんですよね?それって、ご主人は自分の浮気の慰謝料を妻に払って、離婚して子供を取られた。妻は得なだけですよね?」
「ご主人は仕事しているし子供を育てるのって無理でしょう?それに、ご主人はお金を払ってでも、不倫相手と早く一緒になりたかったんじゃないかしら。私は、あちらの家庭がどうなろうが関係ないと思っているから、詳しくは分からないし、知りたくもないわ」
綾ちゃんはスマホを出して何かを検索している。
「私って、雪乃先輩の陰の手下として活躍してたじゃないですか」
「ええ、かなり手助けしてくれたわ。ありがとう」
「真奈美さんの情報をいろいろ探していた時、彼女の子育てブログを発見したんです。まぁ、あまり関係ないなと思ってチラ見しかしていなかったんですが」
雪乃は綾ちゃんが送ってくれたブログのURLで彼女の子育てブログを見る。
「家族仲が悪いようには見えないわね……」
「そうです。単身赴任で夫がいないことは、書いてましたけど、ご主人がたまに帰ってきた時や、お子さんの誕生日には一緒にパーティー開いたりしてたし、幸せ家族そのものですよ」
新米ママの子育て日記っという名前で、日々の子供たちの成長や、ちょっとしたエピソードなんかをあげているものだった。
「旦那さんの浮気には触れてないわね……でも、子育てに関するブログだしわざわざ身内の恥をさらさないでしょう」
「真奈美さんのご主人って、本当に浮気をしてたんですか?これを読んだ限りは、子煩悩なパパにみえるんですけど」
そう言われてみると、確かにパパと会えなくて寂しがっている子供たちの様子や、久しぶりに会えた時の喜びの画像なんかが幸せそうにアップされている。
旦那さんの顔はモザイク処理されているけど、お子さんの写真はデジタルタトゥー状態であがっていた。
「康介は、ご主人が以前から浮気していて、真奈美さんはそれに悩んでいたと言っていたわ。真奈美さんも旦那さんの浮気を、康介に相談していたって」
「康介さんが言ってたんですよね?雪乃さんは康介さんと真奈美さんからそのことを聞いた。あちらのご主人からは聞いていないんですよね」
「そう……だけど……」
第22話
雪乃は弁護士に頼み真奈美さんのご主人に連絡を取ることにした。
そして康介が帰宅するまでの時間、真奈美さんのご主人である小林大地さんとオンラインで話し合う時間を持った。
「私が真奈美さんと夫から聞いた話は、小林さんがずっと浮気をしていたということです。その悩みを康介に相談するうちに、二人は深い仲になったと説明されました」
「僕は浮気なんてしていない。真奈美が嘘を言っているのは確かだけど、それに河津さんのご主人は騙されているのか、それとも二人で雪乃さんを騙しているのか僕には分かりません」
小林さんは憔悴しきっているようだった。
妻に裏切られたあげく子供を奪われたのだ。
夫の康介がした事だけど、雪乃は申し訳ない気持ちになった。
「小林さんの不倫に対して、主人が嘘を言っているようには見えませんでした。けれど……私は夫の嘘を見抜けません。不倫していた事も気がつかなかった妻ですので」
「それを言うなら、僕も同じですから。情けないです」
「お互い辛いですね」
同じ立場で傷をなめ合っているだけでは駄目ですねと大地さんは苦しそうに笑った。
一番恐れていることは、子供たちと会えなくなる事だと彼は言った。
自分は子供を愛しているし、できれば引き取りたい。けれど、ずっと妻と一緒に暮らしてきた子供たちが、自分と共に暮らせるはずがないと。
「僕の場合は、子どもを彼女に渡したくはなかった。けれど育児をできるかと言われたら、仕事をしながらやれる自信はなかった。子供のためだと思い、彼女に親権を渡したんです。子供に罪はないので、成人するまでは養育費も払い続けると約束しました」
「真奈美さんに対する不倫の慰謝料は請求されなかったんですね」
「雪乃さんのご主人から300万受け取ったので、私はそれで十分でした。真奈美から金を取れば、生活費が減り、子供たちに影響しますのでしませんでした」
「私は真奈美さんから慰謝料を受け取ったのですが、それはご主人が支払っていると聞きました」
「いいえ、私は払っていません。真奈美が支払ったと聞きました」
私への慰謝料の出どころは、多分康介だと確信した。
「今も、夫は真奈美さんと関係を続けているかもしれません」
雪乃はその可能性は大きいと感じた。
「ぶしつけな質問ですが、何故ご主人は雪乃さんとの離婚を拒否されるのでしょう?」
「愛しているからだと彼は言います。けれど行動が伴っていない」
「ご主人は、真奈美に脅されているのかもしれません。家庭を壊した責任を取れとか、そう言った感じで無理に関係を続けさせられているのかも」
「それって、拒否できますよね?もう彼女との浮気は私にバレていますし、今更彼女に対して責任を取る必要はないはずです」
「確かにそうですね。情があるとか、愛情が残っているとかでしょうか?確かめる必要がありますね。僕も、正直真奈美が僕の浮気をでっちあげていた事に驚いていますし、もしご主人がその言葉を信じてしまっていたとしたらいい気はしない。真実を突き止めたい」
「確かめる必要がありますね」
「作戦を練りましょう」
「はい」
私たちは協定を結んだ。
*******************
「真奈美さんはそれで納得したんだ」
「ああ。俺は妻とは離婚しない。真奈美に気持ちはないと理解してくれた」
「子供さんが気の毒だわね。あなたも子供さんには会った事があるでしょう」
「子供たちは俺の子じゃない。育てる義務はない」
子供に罪はない。それは当然だ。
けれど康介がここまではっきりと真奈美さんの子供の事を拒否するのに違和感がある。
康介はいったい何を考え、彼の真意は何処にあるんだろう。
「雪乃、契約を交わした日から計算して、君の浮気は後1ヶ月で終わる」
「そうね」
「契約通り、ちゃんと彼との関係を清算してくれ」
康介は前島さんの事を言っているのだ。
もう、そんなものはとっくの昔になくなっているのに。
「大丈夫よ。約束だから、きちんと終わらせるわ」
「ああ……また、昔のように幸せな夫婦関係に戻ろう」
愛し合う夫婦ではない。
幸せな夫婦。
けれどあなたは『幸せだよ』と嘘をつく。
第23話
約束の半年になる。
離婚はしないというあの契約書の期限だった。
康介はよく耐えたと思う。
彼はただの遊びの関係が、ここまで深い爪痕を残すなんて思ってなかっただろう。
そして約半年かけて、康介は真奈美さんとの不倫関係を清算した。
彼は全てが終わったと思っている。
「康介さん。今日はディナーを予約しているのよ。誕生日の翌日予約していたスカイレスト、ランシャノアールに6時よ」
「それはまぁ、雪乃が行きたいのなら勿論付き合うけど、ちょっと悪趣味だなと思うよ」
康介さんは苦笑する。
誕生日の翌日予約していたホテルのディナー。
この離婚問題は、あの日そこから始まったのだから、同じ場所で終わらせようと思った。
「個室を予約したからゆっくり食事を楽しみましょう」
「俺に対する戒めだな。けど、これは俺たち夫婦の門出を祝う食事だと思って、記念に堪能するよ」
「一生忘れられないディナーになるのは間違いないでしょうね」
雪乃は背中の空いた綺麗な黒のワンピースを着た。
フォーマルな装いは今夜の勝負服だ。
誰もが振り返る程、美しく妖艶に見える雪乃の姿に康介も目を奪われている。
『さぁ、断罪の始まりよ』
***************
個室に通されると、そこには小林大地さんと、真奈美さんが座っていた。
康介は驚いて私を振り返る。
「初めまして、真奈美の元夫の小林大地です」
「……」
言葉が出ない康介の代わりに雪乃が挨拶する。
「わざわざお時間をいただきありがとうございました。夫の康介です。真奈美さんも来ていただけて良かったです」
「……ええ」
真奈美さんには、望みのものを与えられるから来てほしいと頼んでいた。
彼女は別れた夫がいることに不満を隠しきれない様子だ。
「いったいどういうことなんだ?雪乃、ちゃんと説明してほしい」
「ええもちろんよ。取り敢えず、席に着きましょう。話はそれからよ」
小林さんが、僕がワインを選びましょうと言い、注文をした。
ソムリエが退出してから、雪乃は話し始めた。
「今日の集まりは、皆で思っていることを嘘偽りなく語り合い、新しい生活を歩んでいく為のものよ」
「そうです。僕と雪乃さんで企画しました」
「君たちは知り合いなのか?いったいどういうことなんだ」
「では、僕が先に説明させてもらいますね」
「お願いします」
雪乃は大地さんに進行を任せた。
「僕は真奈美と結婚してから、一度も浮気をした事はありません。単身赴任でしたが家族は仲良く、子どもたちは可愛かった。勿論妻を愛していました」
「そ、そんな事はもうどうでもいいでしょう!私たちは離婚が成立しているわ」
真奈美さんが焦ったように大地さんの話を止めようとする。
「そうだね。この度、元妻から、子どもたちの親権を取り戻し、私が引き取って育てる事になりました」
「え!そうなのか?」
康介が驚いて真奈美さんを見た。
「そうよ、私は子持ちじゃなくなった」
真奈美さんはなぜか自信に満ちたような顔でそう言った。
まるで子供がいなくなったことを喜んでいるかのようだ。
「真奈美は、育児を親任せにして、殆ど子供たちの面倒を見てこなかった。私は現在会社を退職し、家業を手伝うために東京に戻っています。今は毎日、彼女の実家に通い子供たちに会っています。来週から私の実家でやっと子供と暮らす事ができます」
「子供をよこせって煩かったし、大地さんは造り酒屋の長男よ。跡継ぎなの。子供達も贅沢に暮らせた方が幸せだと思って、私は子供を手放したの」
「お子さんは、元、ご主人に育てられた方が幸せでしょうね。ブログのためだけに子育てしているふりをしていたお母さんと生活するよりよっぽどいいと思います」
雪乃は真奈美に嫌味を言う。
「子供も産んだことないくせに!知ったような口をきかないで」
「いったいどういうことなんだ?」
初めて聞く話に説明を求める康介。
「真奈美さんはご主人が浮気をしていると言っていたけど、大地さんは浮気なんてしていなかった。彼女は康介に嘘をついていたのよ」
「なんだって!何年も旦那の浮気に苦しんできたって言ってたじゃないか」
「単身赴任なんだから、浮気してると思っただけよ。してないっていても真実は分からないでしょう」
開き直った彼女の態度は、非常に不快だ。
「真奈美の言っている意味が分からないよ。浮気をしているでしょうと疑われた事だって一度もなかったし、そんな事実はない。そもそも僕は君を裏切った事なんてなかった」
落ち着いた大地さんの声色が真奈美さんを追い詰める。
真奈美さんが大地さんに罪を着せて、悲劇のヒロインぶってると思うと反吐が出る。
「とにかく、真奈美さんの嘘をここで証明したの」
それに康介さんはまんまと騙されていた。
「わざわざ、そんな事を今更俺に知らせなくても、もう終わった事なんだからいいだろう」
「そうでもないわ」
「そうよ、まだ終わっていないわ!私は今日、康介と雪乃さんが離婚するって聞いてここまで来たのよ」
「なんだって?離婚なんてしない。俺たちはこれから新しくまた夫婦生活を始めるんだ」
「それは無理な話だわ」
雪乃はハッキリとそう告げた。
第24話
「何を言っているんだ雪乃。約束だったはずだ。半年間君の好きなように行動させたら、離婚はしないって契約だっただろう」
「康介さん。あなたは契約を破ったわ」
「どういうことだ?」
「真奈美さんが、3ヶ月前に貴方とホテルで関係を持った証拠を私に渡してくれたの」
「3ヶ月前?」
「カラオケボックスで話し合った日よ。あの日あなたは真奈美さんとホテルへ行った」
真奈美さんが雪乃と前島に突撃してきた日だ。
二人で話し合うように雪乃たちはカラオケボックスを後にした。
康介はその後、真奈美さんとホテルに行って、彼女とまた体の関係を持った。
そして、私に聞かせたボイスレコーダーの録音は肝心なところが切り取られていた。
真奈美さんは涙目でごめんなさいと謝りながら康介に説明する。
「康介、私はあの時動画を撮っていたの、それを雪乃さんに渡したわ。そうするしかなかったの」
「なんだって!君は、最後だからって、これで終わりにするからって願ったんじゃないか。動画なんて……有り得ない」
「私に残された手段はそれしかなかったのよ」
康介はみるみるうちに顔色が悪くなり、頭を抱えた。
真奈美さんは康介に抱かれた証拠を動画で残していた。
完璧な裏切りの証拠だ。
「康介さん、真奈美さんと体の関係を持つなら、離婚届けを書いてからにしてくれってお願いしたわよね?真奈美さんと別れるために話し合うのは仕方がないとしても、彼女を抱くのは流石に違反でしょう」
「やめてくれ……あれは、たった一度だけの話だ。俺は、君が他の男に抱かれている半年の間、誰とも関係を持っていない」
「私と寝たでしょう」
「黙れ!嘘つき女」
醜い争い。
見ていられない。
「真奈美が嘘をつくのは、今に始まった事ではない。彼女はそもそも自分の良いように話を作る女だ」
大地さんが真奈美さんの本性をさも当たり前の事のように話す。
「うるさいわね、あなたはもう関係ないでしょう。帰りなさいよ」
「そうだね。子供達も手に入れたし、君の顔なんて見たくもないよ」
「さっさと帰りなさいよ!」
「真奈美、離婚後3年以内であれば、元配偶者に離婚の慰謝料を請求できるって法律で決まっているの知ってるか?君に300万請求させてもらうから」
大地さんは用意していた書類を真奈美さんに渡す。
「な、何言ってるのよ!今更そんなもの払わないわよ。子供を手に入れたんだから大人しくしていてよ」
「いや、河津康介さんからは慰謝料をもらっている。けれど、君からはまだだからね」
真奈美さんは目じりを険しく吊り上げて大地さんを睨んだ。
「慰謝料と言えば、真奈美さんに請求した300万、康介さんが支払っていたのよね?私が受け取ったお金はあなたのものなのね」
「それは。真奈美の離婚の原因を作ったのは俺だったし、何より、早く決着させたかった。いつまでも真奈美とかかわりを持ちたくなかったからだ」
「康介!何を言っているのよ。私はもう子持ちじゃないわ。一人身になったの。何の障害もないのよ。雪乃さんと離婚して、私と再婚しましょう!」
「何を馬鹿なことを言ってるんだ、そんなことするはずないだろう」
「できるんじゃない?だって私、あなたと離婚するもの」
「た、頼む……雪乃。君が半年間浮気をしていても、それでも俺は我慢して、今まで耐えたんだ。全て、君との結婚生活を継続するための努力だ。分かってくれ……」
修羅場とはまさにこういう場のことを言うのねと思いながら、諦めの悪い夫を冷ややかな目で見つめる。
もう、康介さんの事を何とも思わない。
一緒に過ごした3年はこんな情けない夫とともにここに捨てていく。
「無理」
雪乃は冷たく康介に言い放った。
「証人欄には、私と、雪乃さんの職場の方がサインしています。後は河津さん。ご主人のサインがあれば終わります」
大地さんが雪乃から離婚届けを受け取り、康介さんの前に差し出した。
彼は今、証人としてこの場に立ち会ってくれた第三者だ。
「そうよ、康介、サインして離婚してよ!私は旦那も子供も失ったの。もう康介しかいないわ」
真奈美さんが康介に縋りつく。
「康介さん。約束を守れなかったのはあなたです。潔くサインして下さい。もう、終わりにしましょう」
雪乃はそう言い冷たく笑った。
第25話
三年半一緒に暮らしたマンションに康介と二人で帰ってきた。
帰路はお互い口をきかず、康介はずっと険しい顔をしていた。
部屋に入ったとたん、雪乃は康介に腕を掴まれる。
彼の強い力に驚いた。
「ちょっ……やめてよ、痛い!」
「……そんなに俺と離婚したかったのか!」
康介の責めるような口調に驚いた。
こんな夫の顔は知らない。
彼もことを初めて、怖いと感じた。
「放して!康介さん」
「望み通り離婚してやる。でもまだ今、雪乃は俺の妻だ」
彼はそう言うと無理やりリビングまで雪乃を引きずっていき、上半身をテーブルに押し付けた。
「やめてよ!」
雪乃は康介から逃れようと暴れるが、男性の力にはかなわない。
彼の前で一度も流さなかった涙が頬を伝う。
康介はその涙を見て腕の力を緩めた。
床に座り込み、ソファーに背を預け天井を見上げて深くため息をついた。
「すまない……」
「夫婦間であっても、一方が拒否しているのに無理やり性行為に及ぶのは性的DVよ」
「……ああ」
「最初にすんなり離婚に応じてくれていたら、こんな状態にはならなかった」
再構築をしようと互いが思っていたなら、何とかなったのかもしれない。
真奈美さんが康介を遊びの相手だと割り切っていたのなら、あの半年間のくだらない契約も意味を成したのかもしれない。
全てが最悪の方向へ進んでしまい、もう取り返しがつかない。
「これで最後だからお願いと言われ、真奈美を抱いた。抱きたいわけではなかったが、最後にしてもらえるなら何でもいいと思った」
「私は、あなたが浮気をしてもいいと言った半年の間、誰にも抱かれてないわ」
雪乃は浮気をしていいという契約だった半年の間、他の男性に体を許さなかった。
夫が裏切ったからと言って、自分が同じことをできるかと言われれば、できなかった。
「……そう、だったのか……」
「愛がなくても、体の関係は持てるわよね。世の中にはお金で性を売る商売だってあるんだから。でも、するかしないかは本人の意思の持ちようだと思う」
きっと康介が言うように、真奈美さんが騙して再び体の関係を持ったのかもしれない。
康介は真奈美にまんまと嵌められてしまったのかもしれない。
「俺が、馬鹿だった。雪乃を取り戻したくて必死だった。結果的に辛い思いをさせてしまった。本当にすまなかった」
康介の声は震えていた。
「雪乃……離婚しよう」
翌朝、康介がサインした離婚届がダイニングテーブルの上に置いてあった。
第26話
雪乃は綾ちゃんとスペイン料理を出すバルに来ていた。
ちょうど一年前、全てはここから始まった。
「本当に長い戦いでしたね。雪乃先輩も、ドロドロにはまりまくってましたよね。やっと落ち着いた感じですか?」
「そうね、やっと生活リズムが整ったって感じかな。離婚してからの半年は仕事と引っ越しとでバタバタしてた。あっという間だったわ」
「結局、康介さんと離婚しましたね。元サヤあるかのとか思ったんですけどね」
「一応離婚しないための契約期間は満了してから離婚した。契約を破ったのは康介だったしね。自業自得ってところだわ」
「けど、ご主人の離婚しないって強い意志は本物だったと思います。下半身が緩すぎっていうのは問題でしたけど」
「見境なくってわけではなかったけど、意志が弱すぎだったわね。結局私の事を甘く見ていたのよ」
「一番最初に、スッパリ離婚していれば、こんなに揉めずに被害も最小限で食い止められたのに、残念でしたね」
「そうね。まぁ、私も伴侶を失って、戸籍にバツが付いた。お金は手に入ったけど、今現在恋人がいる訳でもない。結構精神的にもキツかったわ」
「雪乃先輩の周りには、前島課長や、小林大地さんみたいなイケメンがいたのに、色っぽい関係に発展しなかったですね」
「私ってモテないのよね。現実世界で妻にするより、床の間に飾って置きたい人形タイプなんですって」
雪乃は冗談っぽく笑った。
「なんなんですかそれ、そもそも現代の家の間取りで床の間なんてありませんから。和室はいらないです。ダニが湧くし、全部フローリングに限ります」
「そうね……掃除しやすいのが一番ね」
なんか話の流れが家の間取りになっている。
突拍子もない方向へ進む綾ちゃんの話は面白いから時間が経つのも早い。
「まぁ、今どき離婚なんて珍しくもなんともないんですから、前向きに独身ライフを楽しんで下さい。それと、30歳おめでとうございます」
「ありがとう。新しい人生の始まりよ」
雪乃は気分もよく店を後にした。
あれから、真奈美さんの親が大地さんへの慰謝料を肩代わりしたようだ。
孫をずっと押し付けられ、娘の尻拭いまでさせられた真奈美さんのご両親は、彼女を実家から追い出したらしい。
結局、康介とはうまくいかず真奈美さんは一人になった。
彼女は今どこで何をしているのかは知らない。
康介は、会社を辞めて独立したと風の噂で聞いた。
私たちが住んでいたマンションは引き払ったようだ。
もう、東京にはいないのかもしれない。
第27話 最終話
ただの遊びのつもりだったのに、執拗に付きまとい粘着された。
まるでストーカーのようになってしまった真奈美との話し合いは揉めに揉め、弁護士を介入させて、最終的に接近禁止命令を出してやっと関係を切る事ができた。
まさに地獄を味わった。
雪乃がいない生活を、維持していく必要はないと感じ俺は仕事を辞めた。
たかが浮気だろうと思っていた。
世間一般的に、夫が浮気しないで一生妻だけしか抱かない男なんて、よほどモテない奴だろうと思っていた。
駄目だとは分かっているけど、面倒がなければ羽目を外して遊んだりするのは普通だろうと。
甘かった。
雪乃は俺を捨てた。
休日の朝は、旨いと評判のベーカリーでクロワッサンを買って来て、俺がコーヒーを淹れ雪乃の朝食を作った。
眠そうにしながらも、ありがとうと微笑んでくれた妻はもういない。
一人の方が楽だろうというヤツもいるけど、ベッドで目が覚めた時、隣にいるはずの雪乃がいないのは寂しかった。
俺は会社を辞めて、個人トレーダーとして仕事をする事にした。
ネット環境さえあれば、どこでも仕事ができるのならいっそ端っこまで行ってみようと思い、北海道の紋別に住むことにした。
雪と氷に覆われた恐ろしく寒い冬、広大な大地と生命の息吹を感じる春。梅雨のない大自然に覆われる夏に、実りの秋。
人より動物に出くわす方が多いんじゃないかと思われるこの地で3年過ごした。
会社員として客の金を動かしていた時と違い自分の資金を運用するやり方は、損出も全て自分に降りかかる。その代わり、利益が出るとそれは莫大で俺は成功し多くの資金を得た。
3年経った。東京に戻ろうかと思い、駅前に新しく建ったタワマンを購入した。
もし子供ができたなら、こんなマンションに住みたかったという夢みたいなのを一人で叶えた。
虚しいな、と、高層階からの景色を見ながらインスタントコーヒーを飲んだ。
『美味しい』『楽しい』『綺麗だ』『幸せだな』
全ては誰かと分かち合ってこそなんだなと思った。
一人で感想を言っても誰も共感してくれない。
ここは東京だ。もしかしたら雪乃にばったり出会うかもしれない。
その時は自分が成功している姿を見せたいと思った。
このマンションはコストパフォーマンスは抜群だし、共用施設としてスポーツジムとプールがあり便利だ。
夕方、ジムに行こうとマンションの部屋を出る。
仕事がら毎日部屋にこもっている。運動不足解消のためせめてトレーニングだけは続けようと考えていた。
ちょうど、隣の住む住人が玄関ドアを開けた。
引っ越しの挨拶には行かなかったし、あっちからも来なかったので会釈程度の挨拶でいいだろうと彼女を見た。
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「……雪乃……」
お互い顔を見合わせて、あまりの驚きに目を疑った。
「なんで……」
このマンションは億は下らない高額物件だ。
雪乃がまさかこのマンションに住んでいるなんて思ってもみなかった。
「え?ここに住んでいるのか?」
「……あなたこそ」
偶然なのか、必然なのか。
俺たちはまた出会ってしまった。
「雪乃……良かったら、クロワッサン食べないか?」
昨日、近所においしいベーカリーを見付けて昔を思い出して買ってきたクロワッサンがある。
何か話を繋ぎたくてついクロワッサンをどうかと言った。
もっと気の利いたことが話せたのにと少し後悔する。
雪乃は怪訝そうに眉を上げた。
「いらないわ」
軽く断られる。
彼女も少し居心地が悪いのだろう。
この場からすぐに去っていきそうだ。
「雪乃、少し話がしたいんだけど……」
彼女は少し戸惑ったように俺を見た。
「私、結婚したの」
「えっ……」
嘘だろう?
「今から夫と待ち合わせなの」
「ああ……そうか」
ショックのあまり、崩れ落ちそうになった。
いつの間に結婚したんだ。あれからまだ3年しか経っていないだろう。
誰からもそんな知らせは聞いていない。
もちろん実家の母からも聞いてなかった。
あの時、彼女は俺以外の男と寝なかった。
まだ俺を愛していたんだと思った。
きっと、まだ愛情は残っているはずだと、もしかしたらまた会えるかもと東京に戻ってきた。
くそっ……
なんとか気合で平静を保つ。
雪乃はこのマンションを夫婦で買ったんだな。
よりによって、なんでここなんだ……
投資目的だったとはいえ、もう引っ越さなければならないなと頭の中で考える。
「康介さん、あなた……今、幸せ?」
雪乃は急にそう訊ねてきた。
俺はできるだけ明るく見えるように、口角を上げた。
「ああ」
幸せそうには見えないだろう。
俺は、一人だ……
「……幸せだよ」
俺は雪乃に嘘をつく。
━━━━完━━━━
第28話エピローグ
康介と離婚して一年が経った頃、『ワイングラスで日本酒を味わおう』というイベントが行われていたホテルの前で小林大地さんを見かけた。
近くに用事があり、ホテルの前を通った時、偶然会場に入るところの彼に会った。
「お久しぶりですね小林さん」
急に声をかけたので、かなり驚いた様子で小林さんは雪乃を見た。
「ああ……雪乃さん。お久しぶりです」
日曜だから休みだろうと思っていたが、スーツ姿の小林さんは仕事中だったのかもしれない。
「あ、すみません。お仕事中でしたか?」
「ああ、いえ。品評会のイベントの案内来ていたので、見にきたんです。仕事というか、勉強も兼ねてでしょうか」
「そうなんですね。それでは……」
雪乃は長話するのもどうかと思い、頭を下げて立ち去ろうとした。
時間があればと、小林さんに引き止められる。
「雪乃さん、よければ一緒に試飲していきませんか?一般の方も参加されてますから」
「えっと、私はあまり日本酒に詳しくないのでお邪魔かと思います」
そうは言ったものの、日本酒はさておき、その後彼がどういった生活をしているのか気になっていた。
互いに『サレタ側』同士だ、彼も同じだろうと思う。
仕事ではないから気軽にと誘われて、一緒に会場を回ることにした。
小林さんの知り合いも沢山来ていたようだったので、これは私がいていい場所なのか少し焦ってしまった。
「偶然、友人に会いましたので一緒にどうかと誘ったんです」
「若い女性の日本酒ブームは酒造メーカーとしてはありがたいものです」
小林さんは、酒造関係の人たちに雪乃を友人だと紹介した。
「あまり日本酒には詳しくなくて、お役に立てずにすみません」
「いいえ。今から日本酒を好きになっていただくために、貴重なご意見を聞かせて頂ければありがたいと思います」
酒造メーカーの営業の人にすすめられ透き通った綺麗なお酒をいただいた。
ここを一周したら、出来上がりそうだと思った。
小林さんの知り合いの酒蔵の純米酒を試飲させてもらった。
「バナナ……でしょうか?」
「え?」
いやいや米ですよね、と思ったけど、雪乃が飲んだ日本酒からはバナナの匂いがした。
「凄いですね、日本酒にはフルーティーな香りが出ているものがあります。リンゴっぽいものが多いんですが、バナナの香りも最近あるんです」
なぜ、そんな匂いがするんだろう?不思議に思った。
日本酒という物は奥が深い。
まったく知識がなかった雪乃は日本酒に興味がわいた。
それから雪乃は日本酒を飲みに酒蔵を見学するという新しい趣味ができた。
小林さんとはたまに日本酒を飲みに行く友人になった。
***
「あれから河津さんとは会ってないの?」
「そうですね。今は北海道にいるという噂を聞きました」
「へぇ、北海道か……それはまた遠くへ行ったんだね」
「会社を辞めて、自分でやってみたい仕事があったんじゃないですかね。結婚していたら、そういうチャレンジできないでしょうから」
康介とは同じ趣味があるわけでもなく、互いに職場関係の知り合いは少なかった。共通の友人もいない。
物理的に距離が離れると、接点がなかったんだなと改めて思った。
「真奈美に家庭裁判所に調停の申し立てをされたんだ」
小林さんも近況を話してくれた。
「え?それじゃぁ、真奈美さんは……」
「彼女は結婚した。相手はバツイチの弁護士なんだ。親権を取り戻そうと真奈美が相談していた弁護士だそうだ」
真奈美さん、弁護士と結婚したの?
転んでもただでは起きない人だわ……魔性の女とは彼女みたいな人の事なのだろう。
「それじゃぁ、もしかして……」
小林さんの顔を見て理解した。子供の親権を手放したんだと思った。
弁護士相手では勝ち目がなかったのかもしれない。
「結局、子供たちを振り回してしまった。何度も引っ越しさせたり、周りの環境を変えたりしてね。やっぱり、上の子は母親と一緒が良いという。もう5歳で来年小学生だから、少しは自分の意思があるんだよ」
お子さんが母親を選んだのか……
寂しそうにそうに話す小林さんは子どもを渡してしまった自責の念に駆られているようだった。ためらいがちに微笑む姿は少し痛々しい。
「お子さんには、会えるんですよね?」
「ああ。月に一度の面会日に会えるよ。単身赴任中も会えるのは月一だったから、以前とあまり変わらないのかな。これ以上子供たちに調停や審判で辛い思いをさせたくないしね」
大切なのは、子どもにとってどの環境が幸せなのかを考えることだろう。
雪乃は子どもがいないから、何か助言ができるわけではない。
「けれど、また真奈美は子供が邪魔になったと言い出すかもしれない。だから、僕はいつでも子供を迎えられる体制でいようと思ってます」
小林さんは、一番にお子さんのことを考えている。それは父親として当たり前だ。
けど、小林さん自身の幸せを自ら諦める必要はないと感じた。
子どもを愛していても、他の誰かも愛すればいい。
***
お互いに再婚する気はなかった。
小林さんは離れているけど子どもがいるから、この先結婚するつもりはないと言った。
雪乃は今後誰か愛するのが怖かった。
「自信が無いんです。女として、終わっている気がします。康介さんにも言われましたけど、性的な魅力がないみたいです」
「それは……よく分からないな。僕も寝取られ旦那だったから自信がない」
小林さんは苦笑いする。
もう、二人とも良い大人で、独身の男女だ。
小林さんは優しく、そして気持ちよく雪乃を抱いてくれた。
『気持ちいい事をしているんだと、自分から感じて。そうすればもっと高みに昇れる』
小林さんは優しく雪乃に教えてくれた。
今まで乾いていた体が潤っていく感覚を覚え、自分が女として満たされていく気持ちになった。
「男娼を買う女性の気持ちが分かった気がします。性欲は自分にもあるんだと知りました」
「うん……男娼?」
小林さんは驚いて何度も瞬きをした。
***
それから。
二人がお互いの愛に気づき、結婚して新しい命を授かるまで、それほど時間はかからなかった。
完