幸せだよと嘘をつく
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居酒屋からの帰り大通り、駅までの道を歩く雪乃。
今日は雪乃の誕生日だった。
断れない接待があるからと夫は帰りが遅いらしい。
(綾ちゃんは私の誕生日のお祝いしてくれたけど、私のマンションとは逆の路線って綾ちゃんもなかなか強者だ。しかも自分の家の近くの店を選んでるところが流石……まぁ、後輩なのに奢ってくれたから良しとする)
そんなことを考えながら、まだ混雑する道路を、人を避けながら歩いて行った。
ふと通りの反対側を見ると、夫に似た人物が女性と腕を組んで歩いている。
ここは夫の会社からは遠い。自宅の最寄り駅とも反対方向の町だ。
え……なんで康介さんがここにいるの。仕事の接待があるから遅くなると言っていた。誕生日なのにすまないと謝っていた。
女性は康介に密着して歩いている。まるで恋人同士のようだ。
夫に似ているけど、別人なのかもしれない。
頭の中に、先程の居酒屋での話が蘇る。
(まさか……康介が、浮気……)
確かめずにはいられないと思い、雪乃は気付かれないように離れて二人の後をつける。
(酔った後輩に無理やり腕を組まれているのかもしれない。取引先の女性を接待帰りに送っているだけかもしれない)
何か理由があるのだろうと思いたい。
二人は仲良さそうに、大通りから左に折れて暗い通りへ入って行く。
先にはラブホテルがある。
夫は女性の肩を抱いた。
ホテルの中に入って行く二人。
現場をしっかりと見た雪乃。
青ざめる。
深夜営業しているカフェは、ラブホテルから近い大通りに面していた。
ガラス張りの店内から車道を行き交う人たちを見ている雪乃。
(康介は泊まりはしない。終電には間に合うように帰るだろう。入った時間を考えると2時間後にはホテルから出てくるはず)
先ほどの信じがたい光景が目に焼き付いて離れない。時計に目をやる。時間は9時を過ぎたところだ。
コーヒーを口に運びながら、考え込む雪乃。
出勤前、妻のためにコーヒーを淹れてくれる康介の姿を思い浮かべた。
今朝も普段と変わらない仲の良い夫婦だった。
雪乃が26歳、康介が30歳の時に二人は結婚した。
康介は大手の証券会社で債券トレーダーをしている。
高学歴で高収入、頭の回転が速く、人望も厚い。優しく思いやりがあり最高の夫だと思った。
二人は結婚後お互いしっかり働きながら今後の家族計画を立てていた。
結婚して数年は共働きで資金を貯め、将来的に子供は二人つくる。交通の便がよく子育てにも適したマンションを購入し、温かい家庭を築き幸せに暮らしていくつもりだった。
雪乃は30歳までに子供を産みたいと思っている。
今日で雪乃は29歳になった。
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雪乃はホテルの入り口が見える路上、電柱と看板の後ろに隠れるよう立っていた。
夫と女性が出てきたところを撮るつもりでスマホを構えている。
(時間的に夫がもうすぐ出てくるだろう。しっかりと映像に残そう)
先程カフェで浮気の証拠集めについて検索した。
画像ではなく動画で残すのがいいと書いてあった。
けれど雪乃は夫が言い逃れできないように浮気現場の証拠を残そうと思っている訳ではなかった。
自分がちゃんと現実を受け入れられるように映像に残さなければと感じたのだ。
(私は康介を愛している。出会った時のまま、今もずっと彼のことが好きだ。けれど、その気持ちが一方通行なら意味がない)
さっき綾ちゃんが言った通り、惨めになるくらいなら諦めなければならない。
雪乃にはまだ子どもがいない。
自分は仕事もしっかりしているし、収入もちゃんとある。自分はひとりで生きていく選択ができる。
涙が頬を伝う。
(私は、強いからきっと大丈夫だ)
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朝日が昇っている。疲れた様子で自宅マンションのドアを開ける雪乃。
昨夜はマンションに帰る事ができなかった。
ネットカフェで時間をつぶした。
康介の顔を冷静にみる自信がなかった。
康介には『綾が酔いつぶれたのでアパートまで送る。遅くなったのでそのまま彼女の部屋に泊まる』とメッセージを入れた。
雪乃が誰かの家に泊まるなど、結婚してから一度もなかった。
夫は少しでもおかしいと思うだろうか?
それとも、妻が帰らないのなら自分もラブホテルに泊まればよかったと思っただろうか。
何とも言えない表情で雪乃はダイニングテーブルにそっと鞄を置いた。
康介が雪乃が帰って来たことに気がついたのか寝室から出てくる。
部屋着姿でも所帯じみていないかっこいい康介だった。
背が高く短髪で清潔感がある。眼鏡をかけているから端正な顔立ちは優しく見える。
壁にかかっている時計を見ると今は朝の7時30分。
「おかえり。大丈夫だった?」
「ええ。ごめんね。綾ちゃんが酔っぱらっちゃってどうしようもなかったの」
「そうか、大変だったね。綾ちゃんって同期だったっけ?」
綾ちゃんは同期ではなく職場の後輩だ。
今まで何度も話をしたはずだった。それも康介は覚えていなかったのかと思い愛想笑いを浮かべて雪乃は「ウン」と頷いた。
「シャワーを浴びてないから、先にお風呂入ってくるね」
雪乃は寝室のクローゼットに着替えを取りに行った。
康介の顔を直視できない。
まるで自分の方が悪いことをしているみたいな気分になった。
「朝食を作っておくよ」
休日は朝食を作ってくれる夫。
家事も率先してしてくれて、仕事が忙しくても疲れた表情を見せない。
「ありがとう」
いつもと変わらず、優しい夫の態度。
雪乃は涙が出そうになるのを必死に堪えた。
雪乃は洗濯機の前に立っている。
昨夜着ていた夫のシャツの匂いを嗅ぐ。
(ああ……康介の匂いじゃない)
知らない香水の香り。
グッとシャツを握りしめる。
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ダイニングテーブルに置かれたスクランブルエッグ、クロワッサンにカフェオレ。ヨーグルトにはベリーソースが添えてある。
用意してくれた朝食を無理やり口に運んだ。
食べられる気分ではなかった。クロワッサンは後で冷蔵庫にしまおうと思った。
「雪乃、誕生日おめでとう」
優しい眼差しで妻を見つめる康介。
「ありがとう」
「雪乃と結婚出来て、幸せだよ」
(誕生日は昨日だったわ)
無理やり笑顔を貼り付ける雪乃。
「今日はエグゼホテルのディナーを予約しているけど、大丈夫かな体調とか問題ない?」
エグゼホテルは最上級ランクのシティーホテルだ。
そこの高層階にあるスカイレストランはミシュランで星を獲得した人気店だ。
「ええ。大丈夫よ。けれど、今、少しだけ眠たいから午前中寝ちゃおうかな」
昼間から寝るなんて珍しいなと少し驚いて康介は眉を上げた。
「出かけるのは夕方からだから、ゆっくりしたらいいよ。昨日は職場の人に誕生日祝ってもらえたんだろう?仲良くていいな」
昨日は夫が接待だった(接待という名の浮気だったけど)から、誕生日は御馳走するからと言って、綾ちゃんが雪乃を誘ってくれた。綾ちゃんは先輩の雪乃に気を遣ってくれたんだと思う。
「そうよ。今の職場は人に恵まれていると思うわ。居心地もいいし楽しいわ」
「君が楽しそうで嬉しいよ」
夫の単純な笑顔が、以前とは違うように見えてしまう。
雪乃を上手に騙している人の顔だ。
「ごめんなさい。2時間くらい眠ってくるわね?洗濯機は回しているし、お昼はパスタでよければ、冷凍した作り置きのソースがあるからそれを食べてくれるとありがたい」
「ああ、わかった。昼まで寝てる?起こした方がいいなら一緒に昼ご飯を食べよう」
「私は適当に何か食べるから大丈夫」
そう言って朝食を終えた食器をシンクに運ぶ。
康介の食器も軽く流して食洗機に入れた。
寝室の夫婦のベッドに入った。
普段と変わらない夫の態度にモヤモヤする。
膝を抱えて寝室を見る。
寝室には、夫と一緒に撮った記念の写真がある。
昨夜はネットカフェで自分がやるべきことを整理した。
『夫と離婚する』
彼に慰謝料を請求したり、不倫相手を責めたりはしない。
雪乃は康介と円満に離婚する事を決意した。
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数時間眠った。
起きてリビングに行くが、康介は出かけているようで誰もいなかった。
雪乃はダイニングテーブルにパソコンを置いて、離婚後の資産の振り分けを打ち込んでいった。
いつか子どもができ、マイホームを買うために2人で貯めていた夫婦の貯金は折半してもらう。
夫婦の財布は別だった。だから自分個人の貯金はある。
ここの家賃や光熱費、もろもろは全て康介が払っていた。大きな買い物をした時の支払いも康介だった。
雪乃は食費を出していた。
外食する場合は各々の財布から、二人で外食した場合は康介が支払った。
だいたい3:7くらいの割合で、康介の方が多く支払っている。
収入は康介が雪乃の倍はあるはずだ。
雪乃は離婚後の生活のことを考えた。
これから住むアパートを探さなければならない。
今後は一人ですべての費用を賄う。
だいたい毎月8万円くらい食費に使っていた。その他、消耗品なども雪乃が購入していた。
そのお金を次の生活費としてスライドさせれば、これからの生活の心配はない。
夫の為に、肉や魚は良いものを買っていた。
一人だったら食材にこだわらなくてもいいし、量も食べない。
食費は大幅に減るだろう。
確認しないと分からないが、会社から少しは家賃補助が出るはずだ。
「……前向きに考えなきゃ」