幸せだよと嘘をつく
康介と離婚して一年が経った頃、『ワイングラスで日本酒を味わおう』というイベントが行われていたホテルの前で小林大地さんを見かけた。
近くに用事があり、ホテルの前を通った時、偶然会場に入るところの彼に会った。

「お久しぶりですね小林さん」

急に声をかけたので、かなり驚いた様子で小林さんは雪乃を見た。

「ああ……雪乃さん。お久しぶりです」

日曜だから休みだろうと思っていたが、スーツ姿の小林さんは仕事中だったのかもしれない。

「あ、すみません。お仕事中でしたか?」

「ああ、いえ。品評会のイベントの案内来ていたので、見にきたんです。仕事というか、勉強も兼ねてでしょうか」

「そうなんですね。それでは……」

雪乃は長話するのもどうかと思い、頭を下げて立ち去ろうとした。
時間があればと、小林さんに引き止められる。

「雪乃さん、よければ一緒に試飲していきませんか?一般の方も参加されてますから」

「えっと、私はあまり日本酒に詳しくないのでお邪魔かと思います」

そうは言ったものの、日本酒はさておき、その後彼がどういった生活をしているのか気になっていた。
互いに『サレタ側』同士だ、彼も同じだろうと思う。

仕事ではないから気軽にと誘われて、一緒に会場を回ることにした。
小林さんの知り合いも沢山来ていたようだったので、これは私がいていい場所なのか少し焦ってしまった。

「偶然、友人に会いましたので一緒にどうかと誘ったんです」
「若い女性の日本酒ブームは酒造メーカーとしてはありがたいものです」

小林さんは、酒造関係の人たちに雪乃を友人だと紹介した。

「あまり日本酒には詳しくなくて、お役に立てずにすみません」
「いいえ。今から日本酒を好きになっていただくために、貴重なご意見を聞かせて頂ければありがたいと思います」

酒造メーカーの営業の人にすすめられ透き通った綺麗なお酒をいただいた。
ここを一周したら、出来上がりそうだと思った。

小林さんの知り合いの酒蔵の純米酒を試飲させてもらった。

「バナナ……でしょうか?」

「え?」

いやいや米ですよね、と思ったけど、雪乃が飲んだ日本酒からはバナナの匂いがした。

「凄いですね、日本酒にはフルーティーな香りが出ているものがあります。リンゴっぽいものが多いんですが、バナナの香りも最近あるんです」

なぜ、そんな匂いがするんだろう?不思議に思った。
日本酒という物は奥が深い。
まったく知識がなかった雪乃は日本酒に興味がわいた。

それから雪乃は日本酒を飲みに酒蔵を見学するという新しい趣味ができた。
小林さんとはたまに日本酒を飲みに行く友人になった。

***

「あれから河津さんとは会ってないの?」

「そうですね。今は北海道にいるという噂を聞きました」

「へぇ、北海道か……それはまた遠くへ行ったんだね」

「会社を辞めて、自分でやってみたい仕事があったんじゃないですかね。結婚していたら、そういうチャレンジできないでしょうから」

康介とは同じ趣味があるわけでもなく、互いに職場関係の知り合いは少なかった。共通の友人もいない。
物理的に距離が離れると、接点がなかったんだなと改めて思った。

「真奈美に家庭裁判所に調停の申し立てをされたんだ」

小林さんも近況を話してくれた。

「え?それじゃぁ、真奈美さんは……」

「彼女は結婚した。相手はバツイチの弁護士なんだ。親権を取り戻そうと真奈美が相談していた弁護士だそうだ」

真奈美さん、弁護士と結婚したの?
転んでもただでは起きない人だわ……魔性の女とは彼女みたいな人の事なのだろう。

「それじゃぁ、もしかして……」

小林さんの顔を見て理解した。子供の親権を手放したんだと思った。
弁護士相手では勝ち目がなかったのかもしれない。

「結局、子供たちを振り回してしまった。何度も引っ越しさせたり、周りの環境を変えたりしてね。やっぱり、上の子は母親と一緒が良いという。もう5歳で来年小学生だから、少しは自分の意思があるんだよ」

お子さんが母親を選んだのか……
寂しそうにそうに話す小林さんは子どもを渡してしまった自責の念に駆られているようだった。ためらいがちに微笑む姿は少し痛々しい。

「お子さんには、会えるんですよね?」

「ああ。月に一度の面会日に会えるよ。単身赴任中も会えるのは月一だったから、以前とあまり変わらないのかな。これ以上子供たちに調停や審判で辛い思いをさせたくないしね」

大切なのは、子どもにとってどの環境が幸せなのかを考えることだろう。
雪乃は子どもがいないから、何か助言ができるわけではない。

「けれど、また真奈美は子供が邪魔になったと言い出すかもしれない。だから、僕はいつでも子供を迎えられる体制でいようと思ってます」

小林さんは、一番にお子さんのことを考えている。それは父親として当たり前だ。
けど、小林さん自身の幸せを自ら諦める必要はないと感じた。
子どもを愛していても、他の誰かも愛すればいい。




***


お互いに再婚する気はなかった。
小林さんは離れているけど子どもがいるから、この先結婚するつもりはないと言った。

雪乃は今後誰か愛するのが怖かった。

「自信が無いんです。女として、終わっている気がします。康介さんにも言われましたけど、性的な魅力がないみたいです」

「それは……よく分からないな。僕も寝取られ旦那だったから自信がない」

小林さんは苦笑いする。


もう、二人とも良い大人で、独身の男女だ。


小林さんは優しく、そして気持ちよく雪乃を抱いてくれた。

『気持ちいい事をしているんだと、自分から感じて。そうすればもっと高みに昇れる』

小林さんは優しく雪乃に教えてくれた。
今まで乾いていた体が潤っていく感覚を覚え、自分が女として満たされていく気持ちになった。

「男娼を買う女性の気持ちが分かった気がします。性欲は自分にもあるんだと知りました」

「うん……男娼?」

小林さんは驚いて何度も瞬きをした。

***

それから。

二人がお互いの愛に気づき、結婚して新しい命を授かるまで、それほど時間はかからなかった。






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