裏切りの宰相と白いさらわれ妻~結婚してから始まったふたりの恋~

1 青年貴族

 いつもの視線を感じて、ロシェは足を止めた。
 振り向くと、涼やかな面立ちをした青年がこちらを見ている。その視線は優しさと鋭さが混じりあっていて、ロシェは親しみと不安を同時に抱く。
 ロシェはスカートの端をつまんで礼を返すと、そろそろと足を進めた。
 青年がまだこちらを見ている気配を背中に受けながら、それを振り切るように歩き去った。





 星と花の王国、レグルス。ロシェが生まれ育った国だ。
 ロシェはその一隅で、食堂を営む母と穏やかに暮らしていた。
 ところがロシェの母が、貴族のルーウェン侯爵の寵を受けていたことを知る。その母が行方をくらまして、今日で三か月になる。
 父である侯爵に呼び寄せられた邸宅で、ロシェはうろたえながら生活していた。父の本妻の手前もあったし、腹違いの兄への遠慮もある。家に仕える大勢の使用人も、命じたことなどないロシェには声をかけるのもためらった。
 元々ロシェは病弱で、食堂で無理に遅くまで働くと倒れてしまうこともあった。そんなロシェを母は労わってくれていたからよかったが、暮らしが変わって体調も崩しやすくなった。
 結局、ロシェは部屋で寝込みがちで、食事も少しだけしか摂れずに日々弱っていた。
 屋敷の人には、ここを出て食堂に戻りたいと言ったが、許してはもらえなかった。屋敷の人たちは、庶子とはいえローウェン侯爵の令嬢が食堂で働くなどとんでもないと言うのだ。
 そうはいっても自分は邪魔者なのだし、今のままでは少しずつ死んでいくようだ。けれどそう思えば思うほど体は言う事を聞かない。幼い頃からの持病である咳の発作が出て、その後には熱が高くなる。
 ふと鏡を覗けば、亜麻色の癖のない髪と、頼りない赤茶色の瞳をした自分が青白い顔色で見返している。
 ……今日こそ侯爵にお会いして、懇願しようと決めていたのに。
 熱の中、少しだけ休もうと目を閉じると、水の中に沈んでいくような眠気に襲われた。
 重苦しくのしかかるような時間だった。それを和らげてくれるようなひんやりとした感触を額に受けて、ロシェは目を開いた。
「あ……」
「今、医師を呼びましたから」
 ロシェをベッドの脇からのぞきこんでいたのは、白のサーコート姿の男性だった。
 ロシェは慌てて起き上がって言う。濡れたハンカチがその拍子に落ちた。
「だ、大丈夫です。すぐ治ります」
「無理なさらないでください。廊下まで咳が聞こえていましたよ」
 その言葉を聞いて、ロシェは恥ずかしくなった。屋敷の人たちの迷惑にだけはなりたくないのに、自分は満足に静かにしていることもできないのだ。
「ごめんなさい……」
 消え入りそうな声で告げたロシェに、男は苦笑して告げた。
「謝ることはありません。子どもは手間がかかった方がかわいいのです」
 そう言った男の姿を、ロシェはそっと見上げた。
 彼はジェイドという。元は下級貴族の出だが、ローウェン侯爵が保証人になって仕官し、二十七の若さで官吏統括官になった人だ。ダークブロンドを肩の辺りで切りそろえ、海のように深い青の瞳をしている。涼やかな目鼻立ちをしているが、目は上に立つ者らしく鋭い。官吏の制服である灰色のサーコートの中で、唯一白色をまとうことができる。彼はそれに一つも装飾をつけていないのに、その姿はひどく目立つ。
 ジェイドが立っていると、月光をまとっているように輝いて見えた。
 まもなくローウェン家付きの医師が呼ばれて来て、ロシェは診察を受ける。一時的な発作だろうと診断されて、薬が足りているのを確認して帰って行く。
 ジェイドはその間、ロシェの側について見守ってくれていた。ロシェはここに来るまで医師の診察さえ受けたことがほとんどなかった。そんなロシェを安心させるように、ジェイドは時折ロシェの代わりに受け答えもしてくれた。
 ジェイドはロシェより十も年上で、ロシェが来たばかりの庶子であっても、彼女を姫君のように扱う。けれどロシェのことを、子どもともいう。ロシェにはその距離感が心地いい。
 ジェイドはそっとロシェに告げる。
「甘い飲み物でもいかがですか? 侍女に言って給仕させましょう」
 彼はたぶんほんの気まぐれなのだろうけど、ロシェに優しかった。
 けれど庶子の立場のロシェは、姫君のように当然にはそれを受けることができなかった。
「お気遣い、大変うれしく思います。でも、私はここでは厄介者ですから」
 ロシェはなるべく丁寧に返したつもりだったが、ジェイドの表情が曇る。
 ジェイドの目が鋭くなる。ロシェは怯えて目を逸らした。
 ジェイドは優しい。だけど時々、射るようにロシェを見る時がある。まるで不本意な運命を睨んでいる時のような顔をしている。
 ロシェは声を落として言葉を返す。
「あの、気を悪くされましたか。ごめんなさい、私はこういう性格なのです」
 自分の気弱な性分は、栄光ある地位についた彼には卑屈に見えることだろう。
 ジェイドは息をつく。それから気持ちを切り替えるように声を和らげて問いかけた。
「ロシェ様は、いつ社交界へデビューされるのでしょうか」
 ロシェは首を横に振って、うつむいたまま言う。
「その機会はないと思います。必要も、ないかと」
「機会がない?」
 ジェイドは思わずといったようにロシェを見た。その目の鋭さにうろたえて、ロシェはまた目を逸らす。
「ローウェン侯爵のご令嬢でいらっしゃるのに?」
「母が不在で、一時的に保護を受けているだけの身です。時期が来れば……」
「ご令嬢の当然の権利であるデビューもなしに……ご結婚を?」
 それは仕方のないこと、とロシェは口には出さずに諦観する。
 やむを得ず引き取った厄介者を、簡単に家から追い出す方法。それはローウェン家に不利でない家に、ロシェを花嫁として差し出すことだ。
 ロシェは母の後を継いで食堂で働いて、いずれ街の誰かと結婚するという淡い夢を持っていた。でもローウェン侯爵の名前がついてしまった今、その夢は遠ざかってしまった。
 ジェイドは明らかに不快という顔をして言う。
「私からお父様にお話ししましょうか」
「とんでもない。私の身の上などお気にされず」
 ロシェは父侯爵にその願いを伝えたいが、他人に力を借りようとは思わない。
 ジェイドはまたため息をつく。自分の中途半端なわがままが呆れられたのだろうかと、ロシェはしょんぼりする。
 やがてジェイドは席を立って言った。
「私にできることがあったらいつでも仰ってください」
 長身痩躯の背中が遠ざかっていくのを、ロシェは惜しむように見送った。
 ……恋というには、あまりにも淡い憧れだと思う。
 二十七という若さで官吏たちを統べるジェイドのことを、ロシェはただ憧れていた。そこに至るまでには政略も苦境もあっただろうに、乗り越えて辿り着いたジェイドは、ロシェには眩しく見えた。
 ここでの暮らしは、ロシェには馴染めない。でもここに来なかったなら、ジェイドに気にかけてもらうこともなかっただろう。
 やはりあまり長くここにいてはいけない。そう思いながら、ロシェはジェイドを見送った。
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