裏切りの宰相と白いさらわれ妻~結婚してから始まったふたりの恋~
10 一年の期限
ロシェとジェイドは隣で休むものの、世間で言う夫婦の仲にならないまま時を過ごしていた。
ジェイドはロシェをこの上なく大切にしてくれて、ロシェにはそれ以上を望むのがためらわれた。ロシェの胸には一年の期限が刻まれていて、寝台の上でジェイドに声をかけることはできなかった。
使用人たちはロシェを煩わせるような噂話を口にしない者たちだったが、社交界へ出入りする侍女のエミリアなどは時々情報を仕入れてきた。
「旦那様と奥様の仲睦まじさは王都でも評判ですよ。冷厳な宰相閣下の御心を、妖精のような令嬢が溶かしたという逸話です。カイル王子殿下も思わずそれをからかいになられたとか」
それを聞いたロシェは、恥ずかしさに赤面して言葉に詰まった。自分がからかわれるのならともかく、ジェイドも巻き込んでしまって申し訳ない思いだった。
ロシェはエミリアにそっと言葉をかける。
「冷厳な宰相閣下と言われますけど……ジェイドは、最初から私に優しかったです」
エミリアは笑って、思い出すように目を伏せる。
「それはもちろん奥様に対してだからです。理不尽な仕打ちをなさる方ではありませんが、元々は厳しい方でした。宰相というお立場がそうさせていたのでしょうね。使用人たちも緊張していました」
そう言ってから、エミリアは顔を上げて微笑む。
「でも奥様がいらしてから、旦那様は冗談を言ったり笑ったりもされるようになりました。花を飾らせたり、奥様に衣装を買っていらして、一週間と置かずに一緒にサロンへお出かけになったり。本当に甲斐甲斐しいご夫君ぶりになられて」
「はい……私がこうして暮らせるのはジェイドのおかげです」
ジェイドはロシェを連れて社交界へ出入りしているが、ふたりの時間も大事にしてくれて、ロシェは屋敷で穏やかな毎日を送っている。
けれど、一年という期限はもう一月後に迫っていた。この屋敷から出た後のことを、もう考えなければならない時期に来ているのはわかっている。
それでもジェイドと過ごした日々が、宝物のように胸に光る。一日でも長くこの時が続けばいいと思ってしまう。
エミリアは心配そうに首を傾けて言う。
「今日は本当に、おひとりでよろしいのでしょうか?」
だからヘイゼル伯爵を一人で訪ねる時期を、こんなにも先延ばしにしてしまったのだった。
ロシェは心配をかけないようにと、淡く微笑んで言う。
「ジェイドは王宮の行事があります。大丈夫ですよ、ヘイゼル伯爵は私が市井にいた頃から存じ上げている方ですから」
「それならよろしいのですが……日取りを改めて、旦那様と行かれては」
エミリアが気がかりそうに言うのは、ジェイドが心配しているからでもあるのだろう。
ロシェがジェイドのエスコートなく他の貴族の屋敷に行くのは初めてのことだ。今朝もジェイドは出仕の前、決して無理をしないようにとロシェに言伝ていた。
ロシェは首を横に振って、落ち着いた声音で告げる。
「この頃はすっかり体調も良いですし、それに私もそろそろジェイドに頼りきりではいけませんから」
ロシェがそう言うと、エミリアはそれ以上引き留めたりはしなかった。
ロシェはジェイドが買ってくれて大切に着ている翠色のドレスをまとい、その上から白いコートを羽織った。
馬車で街を走れば、季節は春に近づいている。冬枯れの木々も芽吹き始めて、きっと間もなく中央通りも華やいだ姿を見せてくれるだろう。
……そのときはジェイドと一緒にここを見ることができるか、まだわからないけれど。
ロシェの胸に寂しさが飛来するも、馬車はまもなく西の邸宅街に入った。ヘイゼル伯爵邸の前に停まると、御者が手を取ってロシェを馬車から降ろす。
ロシェが伯爵邸に歩み寄ると、庭先までヘイゼル伯爵が現れて出迎えてくれた。
「よく来てくれたね。待っていた」
ヘイゼル伯爵はロシェの手を取って屋敷の中に導く。
そのままいつものようにテラスに向かうかと思われたが、伯爵が向かったのは書斎だった。
伯爵はマホガニーの机の前に椅子を用意させると、そこにロシェを掛けさせて、自身は机の向こう側に座った。
伯爵は人払いをしてから、静かに切り出した。
「ロシェ、密かに君をここへ呼んだことを許してほしい」
「星見会の日にナッツを手渡されたのは、やはり伯爵だったのですね」
「ああ。伝えたいことがあった。……お母様の行方だ」
ロシェは息を呑んで、震えながらうなずく。
「母の所在をご存じでいらっしゃるのですか?」
ロシェが緊張しながら答えを待つと、伯爵は表情を和らげて言った。
「安心していい。……お元気でいらっしゃるよ。隣国の友人の食堂で働いている」
その言葉を聞いて、ロシェからは一年分の安堵のため息がもれた。母が隣国の友人とたびたび手紙のやり取りをしていたのは知っている。家に戻って古い手紙を見れば、きっと所在もわかることだろう。
「母と、ヘイゼル伯爵は、昔……」
ロシェが問いかけようとして言葉に詰まると、ヘイゼル伯爵は苦笑して答えてくれた。
「君が生まれる前、お母様とは恋仲だったんだ。だがローウェン侯爵にさらわれてしまってね。ローウェン侯爵は気難しい方だが、情熱的で……お母様の心は私には戻らなかった。ローウェン侯爵は君のことも気に掛けていたよ。わかりにくい方だけど、それでも父君なんだ」
ヘイゼル伯爵はそこで、憂いを帯びた目をして言った。
「……これも君に話しておかなければ。ローウェン侯爵の謹慎処分がじきに解けるんだ」
父侯爵はジェイドによって訴追された後、いくつかの領地を奪われて一年の謹慎処分になっていた。
「それに合わせて、君の兄のハリーが訴追の準備をしていると聞く」
「訴追? 誰を訴えるのですか?」
思わずロシェが問いかけると、ヘイゼル伯爵はじっとロシェをみつめて言った。
「……相手は、ジェイドだ。ハリーは、君とジェイドが白い結婚で無効だと訴えようとしている」
ロシェはそれを聞いて目を見開くと、言葉を忘れてヘイゼル伯爵を見返した。
ジェイドはロシェをこの上なく大切にしてくれて、ロシェにはそれ以上を望むのがためらわれた。ロシェの胸には一年の期限が刻まれていて、寝台の上でジェイドに声をかけることはできなかった。
使用人たちはロシェを煩わせるような噂話を口にしない者たちだったが、社交界へ出入りする侍女のエミリアなどは時々情報を仕入れてきた。
「旦那様と奥様の仲睦まじさは王都でも評判ですよ。冷厳な宰相閣下の御心を、妖精のような令嬢が溶かしたという逸話です。カイル王子殿下も思わずそれをからかいになられたとか」
それを聞いたロシェは、恥ずかしさに赤面して言葉に詰まった。自分がからかわれるのならともかく、ジェイドも巻き込んでしまって申し訳ない思いだった。
ロシェはエミリアにそっと言葉をかける。
「冷厳な宰相閣下と言われますけど……ジェイドは、最初から私に優しかったです」
エミリアは笑って、思い出すように目を伏せる。
「それはもちろん奥様に対してだからです。理不尽な仕打ちをなさる方ではありませんが、元々は厳しい方でした。宰相というお立場がそうさせていたのでしょうね。使用人たちも緊張していました」
そう言ってから、エミリアは顔を上げて微笑む。
「でも奥様がいらしてから、旦那様は冗談を言ったり笑ったりもされるようになりました。花を飾らせたり、奥様に衣装を買っていらして、一週間と置かずに一緒にサロンへお出かけになったり。本当に甲斐甲斐しいご夫君ぶりになられて」
「はい……私がこうして暮らせるのはジェイドのおかげです」
ジェイドはロシェを連れて社交界へ出入りしているが、ふたりの時間も大事にしてくれて、ロシェは屋敷で穏やかな毎日を送っている。
けれど、一年という期限はもう一月後に迫っていた。この屋敷から出た後のことを、もう考えなければならない時期に来ているのはわかっている。
それでもジェイドと過ごした日々が、宝物のように胸に光る。一日でも長くこの時が続けばいいと思ってしまう。
エミリアは心配そうに首を傾けて言う。
「今日は本当に、おひとりでよろしいのでしょうか?」
だからヘイゼル伯爵を一人で訪ねる時期を、こんなにも先延ばしにしてしまったのだった。
ロシェは心配をかけないようにと、淡く微笑んで言う。
「ジェイドは王宮の行事があります。大丈夫ですよ、ヘイゼル伯爵は私が市井にいた頃から存じ上げている方ですから」
「それならよろしいのですが……日取りを改めて、旦那様と行かれては」
エミリアが気がかりそうに言うのは、ジェイドが心配しているからでもあるのだろう。
ロシェがジェイドのエスコートなく他の貴族の屋敷に行くのは初めてのことだ。今朝もジェイドは出仕の前、決して無理をしないようにとロシェに言伝ていた。
ロシェは首を横に振って、落ち着いた声音で告げる。
「この頃はすっかり体調も良いですし、それに私もそろそろジェイドに頼りきりではいけませんから」
ロシェがそう言うと、エミリアはそれ以上引き留めたりはしなかった。
ロシェはジェイドが買ってくれて大切に着ている翠色のドレスをまとい、その上から白いコートを羽織った。
馬車で街を走れば、季節は春に近づいている。冬枯れの木々も芽吹き始めて、きっと間もなく中央通りも華やいだ姿を見せてくれるだろう。
……そのときはジェイドと一緒にここを見ることができるか、まだわからないけれど。
ロシェの胸に寂しさが飛来するも、馬車はまもなく西の邸宅街に入った。ヘイゼル伯爵邸の前に停まると、御者が手を取ってロシェを馬車から降ろす。
ロシェが伯爵邸に歩み寄ると、庭先までヘイゼル伯爵が現れて出迎えてくれた。
「よく来てくれたね。待っていた」
ヘイゼル伯爵はロシェの手を取って屋敷の中に導く。
そのままいつものようにテラスに向かうかと思われたが、伯爵が向かったのは書斎だった。
伯爵はマホガニーの机の前に椅子を用意させると、そこにロシェを掛けさせて、自身は机の向こう側に座った。
伯爵は人払いをしてから、静かに切り出した。
「ロシェ、密かに君をここへ呼んだことを許してほしい」
「星見会の日にナッツを手渡されたのは、やはり伯爵だったのですね」
「ああ。伝えたいことがあった。……お母様の行方だ」
ロシェは息を呑んで、震えながらうなずく。
「母の所在をご存じでいらっしゃるのですか?」
ロシェが緊張しながら答えを待つと、伯爵は表情を和らげて言った。
「安心していい。……お元気でいらっしゃるよ。隣国の友人の食堂で働いている」
その言葉を聞いて、ロシェからは一年分の安堵のため息がもれた。母が隣国の友人とたびたび手紙のやり取りをしていたのは知っている。家に戻って古い手紙を見れば、きっと所在もわかることだろう。
「母と、ヘイゼル伯爵は、昔……」
ロシェが問いかけようとして言葉に詰まると、ヘイゼル伯爵は苦笑して答えてくれた。
「君が生まれる前、お母様とは恋仲だったんだ。だがローウェン侯爵にさらわれてしまってね。ローウェン侯爵は気難しい方だが、情熱的で……お母様の心は私には戻らなかった。ローウェン侯爵は君のことも気に掛けていたよ。わかりにくい方だけど、それでも父君なんだ」
ヘイゼル伯爵はそこで、憂いを帯びた目をして言った。
「……これも君に話しておかなければ。ローウェン侯爵の謹慎処分がじきに解けるんだ」
父侯爵はジェイドによって訴追された後、いくつかの領地を奪われて一年の謹慎処分になっていた。
「それに合わせて、君の兄のハリーが訴追の準備をしていると聞く」
「訴追? 誰を訴えるのですか?」
思わずロシェが問いかけると、ヘイゼル伯爵はじっとロシェをみつめて言った。
「……相手は、ジェイドだ。ハリーは、君とジェイドが白い結婚で無効だと訴えようとしている」
ロシェはそれを聞いて目を見開くと、言葉を忘れてヘイゼル伯爵を見返した。