裏切りの宰相と白いさらわれ妻~結婚してから始まったふたりの恋~
11 打ち明けた心
ヘイゼル伯爵の屋敷からの帰路、ロシェは伯爵から聞かされた話を繰り返し考えていた。
白い結婚の主張は、婚姻に利害がある者なら誰でも主張できる。兄のハリーは侯爵家の子息で、ロシェとジェイドの結婚に反対だった。ジェイドが侯爵家の家柄を得るために、ロシェを利用したと怒っていた。
ロシェもジェイドが自分を選んだ理由はローウェン侯爵家の名だと思って、彼のところにやって来た。
……白い結婚の主張が認められたら、ロシェは母のところに帰ることができる?
ずっと母と二人だけで暮らしていて、他愛ない毎日を送っていた。暮らしは貧しかったし、病気も今よりずっとひどかったが、それでもその日々は幸せだった。
ロシェの考えを中断するように、突然馬車が止まる。
御者が誰かと言い争う声が聞こえた。ロシェは窓から外を伺おうとして、外から扉が開かれる。
ロシェの前に現れたのは私兵らしき男たちで、ロシェはごくりと息を呑む。
私兵の一人が、硬い声音でロシェに告げる。
「ローウェン侯爵家の者です。お嬢様をお迎えに上がりました」
兵士に一少女が抵抗できるはずもなく、ロシェは強制的に別の馬車に乗せられてしまった。
ロシェが連れてこられたのは、貴族の邸宅街からは外れにある、隠れ家のような屋敷だった。兵士たちは乱暴ではなかったが冷たく淡々とした態度で、ロシェが侯爵家にいた頃の使用人たちと同じだった。
居室の一室に通されて、ロシェはようやく見知った顔に出会う。
「苦労をかけたな、ロシェ」
それは兄のハリーで、そう言葉をかけたハリーの方がやつれたように見えた。ハリー自身は謹慎の身ではなかったが、それでも父侯爵が訴追され、この一年間ずいぶん苦労をしたのだろう。
侯爵家でロシェを気に掛けてくれたのはハリーだけだった。そう思うと、心配をかけたのも事実だろうと思う。
ロシェは沈むように椅子にかけたハリーに歩み寄って、その手にキスを落とす。
「ハリー様、またお会いできてうれしいです」
とっさに取ったロシェの貴族的な仕草に驚いたのだろう。ハリーは意外そうにまばたきをしてみせた。
「見違えたな。お前なりに懸命に貴族社会に馴染んだらしい」
「いいえ、一人ではまだ出歩くことも難しい身ですが」
「ジェイドがお前にそのような生活を強いたのだろう」
ハリーの言葉に、ジェイドへの憎しみがにじんでいた。ロシェが首を横に振ろうとすると、ハリーは安心させるように続ける。
「心配するな。……まもなく結婚から一年だ。お前をジェイドから解放してやる」
目を見開いたロシェに、ハリーは苦い笑みを浮かべて言う。
「一年前の俺は、お前が侯爵家の暮らしに馴染まないことばかり責めていた。だがお前はずっと母と暮らしていたんだ。それを望むのも仕方がない……。体調も落ち着いたと聞いているし、今はお前の望みを叶えてやれる」
思えば兄のハリーは、言葉は乱暴だったがいつもロシェに助言をくれた。こうして突然連れてこられたとしても、ロシェはそれが愛情から来るものだと信じられる。
けれどロシェは、ひととき一年の時を思った。
一年前にこうしてハリーの前に立っていたら、ロシェは迷わず母との暮らしに戻してほしいと言っただろう。
今のロシェはジェイドのことを知っている。ロシェが微笑んだときに微笑み返してくれる、優しい顔。王子にダンスに誘われて、割って入ったときの彼のまなざし。何度となくロシェの手を取ってくれた手のぬくもり、隣で眠る安らかな心地。
「ロシェ?」
ロシェは怪訝そうなハリーに、言葉にしてそれを伝えようとする。
「ごめんなさい、ハリー様。私、今は……」
そのとき、にわかに屋敷の中が騒々しくなった。玄関から駆けてくる兵士らしき足音、小競り合いの気配、それらで屋敷の空気が緊張する。
兵士を伴って部屋に現れたのはジェイドだった。元々この屋敷の手勢は少なかったのだろう。素早くこの屋敷の者たちを制圧して、ジェイドはハリーを見据えた。
ジェイドは冷厳なまなざしでハリーに告げる。
「私の妻を誘拐した罪、今度こそ許すことはできません」
「……一年だけの妻だ」
「何?」
「俺はロシェが望むとおりに、結婚の無効を主張するつもりだ」
ハリーは兵士に後ろ手に押さえられながらも、ロシェに問う。
「ロシェは母の元に帰りたい。そうだろう?」
ロシェはごくんと息を呑んで、ハリーとジェイドを交互に見た。
ジェイドはそれを聞いて顔色を変えた。彼は一度顎を引いて唇を噛むと、ロシェに向き直って口を開く。
そのとき、信じられないことが起こった。ジェイドはロシェの前で、王侯に接するように膝をついてロシェの手を取った。
「……ロシェ。聞いてください」
ジェイドはロシェの瞳をみつめながら、許しを請うように口を開く。
「始めは政略結婚だった。結婚はあなたをあの家から解放するためだったが、私が立場を得るためでもあった。打算で動いた私を許してほしい」
ジェイドはそこで息を吸って、切ないような声で言った。
「今の私は、あなたのいない人生は考えられない。あなたは私の伴侶で、これからも私の隣を歩いてほしい。今は侯爵家の名など欲しくない。……これからも、あなたを愛する時だけが欲しい」
それが愛の言葉だとわからないほど、ロシェはもう子どもでなかった。
彼が膝をついたのは、貴族社会でのプロポーズの作法だというのも遅れて気づいた。妻となる人と目を合わせて、その心を希うのだと。
ロシェは胸がいっぱいになって、目をにじませて彼をみつめ返す。
母と一緒に暮らした穏やかな日々に、別れを告げる日が来るとは思っていなかった。
けれど今のロシェにはそれ以上に続いてほしい日常が、彼の隣で過ごす日々だった。
ロシェは息を吸って、誓うように言葉を紡ぐ。
「はい。……ジェイド、あなたと共に歩んでいきます」
それは奇しくも一年前に結婚式で誓った言葉と同じだった。
ロシェはジェイドの手を両手で包んだ。ジェイドは泣き笑いのような顔でその手に頬を寄せて、うなずいた。
白い結婚の主張は、婚姻に利害がある者なら誰でも主張できる。兄のハリーは侯爵家の子息で、ロシェとジェイドの結婚に反対だった。ジェイドが侯爵家の家柄を得るために、ロシェを利用したと怒っていた。
ロシェもジェイドが自分を選んだ理由はローウェン侯爵家の名だと思って、彼のところにやって来た。
……白い結婚の主張が認められたら、ロシェは母のところに帰ることができる?
ずっと母と二人だけで暮らしていて、他愛ない毎日を送っていた。暮らしは貧しかったし、病気も今よりずっとひどかったが、それでもその日々は幸せだった。
ロシェの考えを中断するように、突然馬車が止まる。
御者が誰かと言い争う声が聞こえた。ロシェは窓から外を伺おうとして、外から扉が開かれる。
ロシェの前に現れたのは私兵らしき男たちで、ロシェはごくりと息を呑む。
私兵の一人が、硬い声音でロシェに告げる。
「ローウェン侯爵家の者です。お嬢様をお迎えに上がりました」
兵士に一少女が抵抗できるはずもなく、ロシェは強制的に別の馬車に乗せられてしまった。
ロシェが連れてこられたのは、貴族の邸宅街からは外れにある、隠れ家のような屋敷だった。兵士たちは乱暴ではなかったが冷たく淡々とした態度で、ロシェが侯爵家にいた頃の使用人たちと同じだった。
居室の一室に通されて、ロシェはようやく見知った顔に出会う。
「苦労をかけたな、ロシェ」
それは兄のハリーで、そう言葉をかけたハリーの方がやつれたように見えた。ハリー自身は謹慎の身ではなかったが、それでも父侯爵が訴追され、この一年間ずいぶん苦労をしたのだろう。
侯爵家でロシェを気に掛けてくれたのはハリーだけだった。そう思うと、心配をかけたのも事実だろうと思う。
ロシェは沈むように椅子にかけたハリーに歩み寄って、その手にキスを落とす。
「ハリー様、またお会いできてうれしいです」
とっさに取ったロシェの貴族的な仕草に驚いたのだろう。ハリーは意外そうにまばたきをしてみせた。
「見違えたな。お前なりに懸命に貴族社会に馴染んだらしい」
「いいえ、一人ではまだ出歩くことも難しい身ですが」
「ジェイドがお前にそのような生活を強いたのだろう」
ハリーの言葉に、ジェイドへの憎しみがにじんでいた。ロシェが首を横に振ろうとすると、ハリーは安心させるように続ける。
「心配するな。……まもなく結婚から一年だ。お前をジェイドから解放してやる」
目を見開いたロシェに、ハリーは苦い笑みを浮かべて言う。
「一年前の俺は、お前が侯爵家の暮らしに馴染まないことばかり責めていた。だがお前はずっと母と暮らしていたんだ。それを望むのも仕方がない……。体調も落ち着いたと聞いているし、今はお前の望みを叶えてやれる」
思えば兄のハリーは、言葉は乱暴だったがいつもロシェに助言をくれた。こうして突然連れてこられたとしても、ロシェはそれが愛情から来るものだと信じられる。
けれどロシェは、ひととき一年の時を思った。
一年前にこうしてハリーの前に立っていたら、ロシェは迷わず母との暮らしに戻してほしいと言っただろう。
今のロシェはジェイドのことを知っている。ロシェが微笑んだときに微笑み返してくれる、優しい顔。王子にダンスに誘われて、割って入ったときの彼のまなざし。何度となくロシェの手を取ってくれた手のぬくもり、隣で眠る安らかな心地。
「ロシェ?」
ロシェは怪訝そうなハリーに、言葉にしてそれを伝えようとする。
「ごめんなさい、ハリー様。私、今は……」
そのとき、にわかに屋敷の中が騒々しくなった。玄関から駆けてくる兵士らしき足音、小競り合いの気配、それらで屋敷の空気が緊張する。
兵士を伴って部屋に現れたのはジェイドだった。元々この屋敷の手勢は少なかったのだろう。素早くこの屋敷の者たちを制圧して、ジェイドはハリーを見据えた。
ジェイドは冷厳なまなざしでハリーに告げる。
「私の妻を誘拐した罪、今度こそ許すことはできません」
「……一年だけの妻だ」
「何?」
「俺はロシェが望むとおりに、結婚の無効を主張するつもりだ」
ハリーは兵士に後ろ手に押さえられながらも、ロシェに問う。
「ロシェは母の元に帰りたい。そうだろう?」
ロシェはごくんと息を呑んで、ハリーとジェイドを交互に見た。
ジェイドはそれを聞いて顔色を変えた。彼は一度顎を引いて唇を噛むと、ロシェに向き直って口を開く。
そのとき、信じられないことが起こった。ジェイドはロシェの前で、王侯に接するように膝をついてロシェの手を取った。
「……ロシェ。聞いてください」
ジェイドはロシェの瞳をみつめながら、許しを請うように口を開く。
「始めは政略結婚だった。結婚はあなたをあの家から解放するためだったが、私が立場を得るためでもあった。打算で動いた私を許してほしい」
ジェイドはそこで息を吸って、切ないような声で言った。
「今の私は、あなたのいない人生は考えられない。あなたは私の伴侶で、これからも私の隣を歩いてほしい。今は侯爵家の名など欲しくない。……これからも、あなたを愛する時だけが欲しい」
それが愛の言葉だとわからないほど、ロシェはもう子どもでなかった。
彼が膝をついたのは、貴族社会でのプロポーズの作法だというのも遅れて気づいた。妻となる人と目を合わせて、その心を希うのだと。
ロシェは胸がいっぱいになって、目をにじませて彼をみつめ返す。
母と一緒に暮らした穏やかな日々に、別れを告げる日が来るとは思っていなかった。
けれど今のロシェにはそれ以上に続いてほしい日常が、彼の隣で過ごす日々だった。
ロシェは息を吸って、誓うように言葉を紡ぐ。
「はい。……ジェイド、あなたと共に歩んでいきます」
それは奇しくも一年前に結婚式で誓った言葉と同じだった。
ロシェはジェイドの手を両手で包んだ。ジェイドは泣き笑いのような顔でその手に頬を寄せて、うなずいた。