裏切りの宰相と白いさらわれ妻~結婚してから始まったふたりの恋~

2 願った思い

 侯爵はロシェにとって限りなく他人に近い認識だったが、腹違いの兄のハリーは違う。
「お前、今日倒れたんだって?」
 ハリーは侯爵家の嫡子としては言葉遣いが粗野で使用人から嫌われているが、身内には心配性な一面を持っていた。
 夕餉の前のひととき、ハリーはやって来るなりロシェを見て問い詰める。
「医師は何と言ったんだ?」
「その、病というほどではないんです。喉が弱くて」
 ハリーは腫れ物に触れるように扱われているロシェを、唯一見舞いに来てくれる人だ。
 元々、ハリーは何度か母の食堂に来ていて、ロシェとは幼い頃からよく知る仲だった。金髪を首の後ろで無造作に結い、少し着崩したジュストコール姿の青年で、いつも不機嫌な表情をしていた。
 ロシェはハリーに心配をかけたくなくて言いつくろう。
「大丈夫です。調子が悪くて、ちょっと熱が出ただけですから」
「お前って、昔からほんと弱いのな」
 ハリーはロシェの向かいの席に腰を下ろして、紙包みを投げるようによこす。
「これ、街で買ってきた。余ったからやるよ」
「あ、ありがとうございます」
 ハリーはここに来てから、何度か果物を差し入れてくれた。彼は子どもの頃から、病のたびに食が細るロシェをたびたび心配して、ロシェの喉通りのいいものを贈ってくれるのだった。
 ロシェが紙包みを手に頭を下げると、ハリーはむくれながら早口に言う。
「余ったって言ってるだろ。侯爵家の令嬢が頭なんか下げるな。こういうときは、さっさと侍女に紅茶の用意をするように指示するんだ」
 その言い方は乱暴だが、使用人が誰もロシェに言わないことをハリーは気負いなく口にする。お前はこの家の人間だ、令嬢としてすべきことを覚えろと。
 ロシェはこの兄が好きだった。ハリーは子どもの頃から何かとロシェを構ってくれる。疫病が流行って外出もできなかった頃も、自らロシェたち母子の様子を見に来て、食料の類を置いていってくれた。
 着るものもとりあえずここへ連れてこられたロシェに、衣装を用意してくれたのもハリーだ。侍女がいないと着れない服はまだ衣装棚に眠ったままだが、ロシェはそれらを見るだけでもうれしかった。
 ロシェはせめてハリーにくつろいでほしくて、彼女が知っている数少ない話題を振る。
「ハリー様、お茶会はいかがでしたか?」
 愛妾の子にお兄様と呼ばれたくはないだろうと、ロシェは彼のことをハリー様と呼んでいる。
 ハリーは一瞬だけ表情を消したが、すぐに言葉を返した。
「どうってことはない。主役はジェイドだ。俺の初出仕祝いって言いながら、どこの子弟も官吏統括官殿に取り入ることしか考えてない」
 そっぽを向きながら、ハリーは侍女が給仕した紅茶を飲む。
「いいけど。俺は政治に興味ないし、侯爵家の義務を果たせる程度に王宮に仕えればそれでいい。宮仕えが向いてなければ、領地に引っ込んで気楽に暮らすさ」
 ハリーは母親に似て、きつすぎるくらいの華やかな顔立ちをしている。けれど乱暴な言葉使いをしていても、どこか繊細な目をする人だった。
 ロシェは侍女からポットを受け取って、自分のカップに紅茶を淹れた。しばらく紅茶を飲みながら窓の外を眺めていたハリーだったが、やがて切り出す。
「……ジェイド、またお前のところに来たんだって?」
 本当はそれが一番訊きたかったのだろう。長年の付き合いで、ハリーが大事なことを告げる時は目を逸らすことを知っていた。
 ロシェはその仕草に気づかなかったふりをして、微笑んで返した。
「咳を聞きつけてお医者様を呼んでくださったの」
「何の用があってこの部屋の前なんか通りかかったんだ」
 ハリーはじろりとロシェを見る。
「気をつけろよ。あいつは下級貴族からのし上がった奴なんだ。お前を使ってさらに上に行くつもりかもしれない」
「私を使う?」
 それはまるでロシェには思いつかなかったことで、ロシェはきょとんとする。
「まさか。私はこの家の子でもないのに」
 ロシェの言葉に、ハリーは苛立ったようだった。睨むようにロシェをみつめて、ぷいと目を逸らす。
「ふん。じゃ、からかっているんだろう。社交界でも令嬢から寄ってくるような奴だからな」
「そうなのですか」
 ジェイドは禁欲的な雰囲気で、端正な姿に見とれる令嬢は多いことだろう。出自こそ下級貴族だが、王宮内ではどんな貴族の子弟も配下に治める立場だ。
 からかうような人には見えないけれど、ロシェに言い寄るような理由はない。ロシェは諦めの心境で相槌を打った。
 ハリーはそんなロシェの様子を見てますます機嫌を悪くする。
「お前の卑屈さは、確かに侯爵家の令嬢には向いてないな」
 それはこの家で一番親しい人から言われるには悲しいはずの言葉だったのに、ロシェは何も感じなかった。
 ロシェはただ下を向いて謝罪する。
「申し訳ありません」
 けれどハリーの機嫌を直すには足らなかったようだ。ハリーはむしろきっと目をとがらせて言う。
「そうじゃなくて……っ!」
 ハリーは乱暴にロシェの手をつかむ。
 ロシェが持っていたティーボットから、少し湯がこぼれてしまった。
「あ……」
 慌てて拭くために立ち上がろうとしたが、ハリーはロシェの手をつかんだまま離さない。
 ロシェがハリーを見やると、彼はあふれそうな感情をこらえるように、唇を噛んでいた。食い入るようにロシェをみつめて、ぽつりとつぶやく。
「他人だって言いたいのか?」
 それは問いかけではなく、独り言のように聞こえた。
「……お前には、たぶんそうなんだろうな。俺も、父上も」
 ハリーは顔を背けて、自嘲気味に笑った。
 そのとき、侍女がハリーに歩み寄って言う。
「ハリー様、夕餉の支度が整ったと……」
「今話してるのが聞こえないか? 後で行くから、下がっていろ」
「……お時間です、ハリー様」
 静かな男の声が重なって、ハリーは振り向いた。ロシェも声の方を見ると、扉の内側にジェイドが入って来ていた。
 ハリーはとっさにというようにロシェの手を離した。けれどジェイドの目は確かに二人の重なった手を見ていた。
 ハリーは鼻を鳴らしてジェイドを笑う。
「俺を自ら呼びに来るとは、ずいぶんお暇なようだな。官吏統括官殿?」
 その言葉は官吏としてはジェイドの配下にあるハリーが口にするには、ずいぶん横柄だ。
 けれどハリーはこの家の正当な後継者で、ジェイドは元々はその侍従だった。今もこの家の中では、ハリーはジェイドより立場が上だ。
 ハリーがジェイドに掛ける言葉には、不満じみた嘲りがにじむ。
「ジェイド、自分の立場をわきまえてもらおうか」
 ロシェはハリーのその言葉の危うさに不安を抱いて、ふとジェイドの目の鋭さに怯む。
 ジェイドは普段極めて穏やかで、意味もなく侯爵家の嫡男をそんな目で見ることはない。ハリーもそれを知っていて、息を呑んでジェイドを見返した。
 けれどジェイドはもう、言葉をなくしたハリーではなくロシェを見ていた。
「よくわかりました。今の立場がどういうものか」
 ロシェはジェイドの眼差しに怯える。彼の怒りは自分に向いているらしいと気付く。
 ロシェは先ほどハリーがつかんだ手のことを思う。
 きっとジェイドは、自らがお仕えした正当な後継者が、突然引き取られた庶子を気に掛けているのが快くないのだ。
 ロシェはハリーの来訪が嬉しかったが、ロシェは王宮にお仕えし始めて忙しいハリーの時間を奪ってしまっている
 どうすればいいだろう。沈黙するジェイドに早く返答しなければと焦りながら、ロシェは言葉を切り出した。
「私、早くここを出て行きますから」
「馬鹿を言うな」
 ハリーが怒ったように言葉を挟む。
「体の弱い侯爵家令嬢がどこに行くっていうんだ。父上だってお許しにはならない」
「でも」
「それがロシェ様のお望みなのですね?」
 ジェイドがハリーを黙らせるように言った。ロシェは慌ててうなずく。
 ジェイドは目を細めてロシェをみつめると、短く告げた。
「お任せください。お望みに添えるようにいたしましょう」
 ロシェはそれを聞いて、やはり彼にとって自分は邪魔者なのだと悲しくなった。
 だけどここが本来の自分の居場所でないこともわかっている。
 目を伏せて礼を言ったロシェを、ジェイドは食い入るようにみつめていた。
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