裏切りの宰相と白いさらわれ妻~結婚してから始まったふたりの恋~
3 政略結婚
ロシェは侯爵邸から出ることを許されなかったが、屋敷の中ではささやかながら行動を取った。
母の行方を知る者を探して、父である侯爵に直接話ができないか侍女に訴えもした。
しかし屋敷の人たちは愛妾の行方など探すつもりはなく、侯爵は多忙でロシェの相手をする時間がないと言われた。ハリーもロシェが外へ出ることは望んでおらず、この屋敷の生活になじむように告げるくらいだ。
ハリーはこの屋敷の暮らしに抵抗するロシェに、彼なりの優しさをにじませて言った。
「お前は体が弱い。暮らしが変わって不調でもある。大人しく、よく療養するんだ」
ハリーの気持ちはありがたかったが、ロシェは母との街の暮らしが恋しかった。
貧しくて満足に生活の品さえ買えなかったが、時々街にやって来る行商を母と眺めるのが楽しかった。早朝の空の色、夕暮れの街のにぎわい、そういうものがあれば日々は彩られていた。
たとえ食事や衣装が豪勢でも、侯爵家では愛妾の子と蔑まれて暮らすしかない。正妻からの目もある。ロシェは何度も、ここを出て元の家に戻りたいと告げた。すると決まって周囲の人々はロシェに言う。
「お嬢様は、侯爵家のご令嬢です。それをご自覚ください」
ロシェは反発しそうな気持ちを抑える。侯爵と自分とは何の関係もないと言ってしまえば楽になるだろうが、母が失踪した今、生活の手立てを侯爵に頼っているのは事実だ。
ロシェは侯爵が父であるとは、ここに来るまで知らなかった。侯爵は長らく母との関係も伏せていたという。ロシェに愛情があるとも思えなかった。
いっそのこと屋敷を抜け出して遠くの街に行こうか。弱った体を抱えて失踪するのは難しいが、このままこの屋敷で弱っていくよりはいいかもしれない。ロシェが本気でそう考え始めた頃、身の回りに変化が起こった。
屋敷に王宮から使者がやって来て、侯爵を捕縛したのだ。
ロシェは自室から一歩も出ないようにと命じられて、侯爵が何の罪で捕縛されたのかさえわからない。
けれど使用人たちが噂していたことがあった。侯爵は豪商から利権を差し出させて、私腹を肥やしていたと。政治的なことはロシェにはわからなくとも、この家に漂う陰の空気は感じていた。
母が今回の事件に巻き込まれてさえいなければいい。そう思う自分は、きっと侯爵に対して情がない。
でも母は、ロシェが侯爵へ愛着を持つことを望んでいなかった。母はずっと父のことを教えず、ロシェと二人だけで静かに暮らしていたのだから。
庇護を失って、今度こそ一人になるならそれを受け入れよう。ロシェはそう思って、与えられた部屋で息を殺していた。
ふいにノックの音が聞こえて、侍女が部屋の扉を開きに行った。
戸口に現れたのは兵士ではなく、身なりのいい文官風の男だった。彼はロシェに歩み寄ると、恭しく一礼して言う。
「宰相の命で、お迎えに上がりました。ロシェ・ラミアン嬢」
「宰相……?」
王の側にも控える立場の者が、ロシェに何の用があると言うのだろう。
ロシェが不思議そうに首を傾げると、使者は優しく言葉を続ける。
「ジェイド官吏統括官は、この度のことで宰相におなりです。私に、お嬢様を大切にお連れするように申し遣わされました」
ロシェを連れて行くというのはどういうことか。
ロシェにはわからないことがあまりに多い。この度というのは侯爵の捕縛のことだろうが、ロシェにはそれと自分との関係を見いだせなかった。
けれどロシェは一瞬、不謹慎にも喜んだ。
ジェイドはロシェを外に出してくれるという。それは確かにロシェが望んでいたことだ。
でも次の瞬間、貧しく育ったロシェの感覚が違和感を訴えた。
誰かが願いを無条件で叶えてくれる。そんな夢見がちなことは起こらない。
けれどロシェが声を上げる前に、部屋に駆けこんできた影があった。
「ロシェ、行くな!」
部屋に飛び込んできたのはハリーだった。常ならば、貴族の子弟が息せき切って走るなどしない。それを圧してでも彼がそんな行動を取った理由があるはずだった。
ハリーはジェイドからの使者につかみかかろうとして、控えていた兵士に逆に動きを封じられる。けれど腕を後ろにつかまれたままでも、ハリーは声を上げた。
「ジェイドは父上を裏切って、父上を訴追したんだ! しかも……」
ハリーはごくんと息を呑んで、吐き捨てるように言う。
「……お前を妻に迎えると、国王陛下と約束した。ジェイドは出自が卑しいから、侯爵家を利用するつもりだ」
ロシェも息を呑んだとき、戸口から別の影が歩み出る。
「いいえ。私は侯爵家からロシェ様を出して差し上げたいのです」
均整の取れた長身にサーコートをまとった立ち姿は、ジェイドだった。
ジェイドはゆっくりとロシェに歩み寄る。ハリーは鋭くそれを制止した。
「ロシェに近寄るな!」
けれどハリーは後ろ手に拘束されていて、それ以上二人には近づけない。その間に、ジェイドは数歩でロシェの元までたどり着いた。
ジェイドはロシェの手を両手で包み込む。ロシェをみつめる目には、庇護する子どもに対するような慈愛があった。
「妹は社交界に出入りしたこともない子どもだぞ。そんな子どもを利用する気か!」
ハリーの声に振り向きもせず、ジェイドはロシェをみつめ続ける。
子どもという言葉を、ロシェは心の中でつぶやいた。
「大切にいたします。私のところにいらしてください」
ジェイドがそっと告げる。ほとんどさらうように連れて行こうとするこんな状況であっても、その声音は優しかった。
ロシェはすとんと理解した。ジェイドは侯爵家の令嬢を妻に迎えたいだけだ。所詮それだけのことで、政略結婚でなければジェイドが自分のような子どもを選ぶはずがない。
……でも胸の奥が焼け焦げるように痛いのは、どうしてなのだろう。
視界の隅では、今もハリーがジェイドをにらみつけている。捕縛されたという侯爵は、当然この場にはいない。
抵抗してみようなどとは思わなかった。ロシェがジェイドの妻になるのは決定事項で、ロシェの意思程度ではどうにも動かない。
まだジェイドはロシェの手を握っていた。ロシェは指先が冷たくなっていくのを感じた。
「……わかりました」
ロシェには、そう答えるしかなかった。
母の行方を知る者を探して、父である侯爵に直接話ができないか侍女に訴えもした。
しかし屋敷の人たちは愛妾の行方など探すつもりはなく、侯爵は多忙でロシェの相手をする時間がないと言われた。ハリーもロシェが外へ出ることは望んでおらず、この屋敷の生活になじむように告げるくらいだ。
ハリーはこの屋敷の暮らしに抵抗するロシェに、彼なりの優しさをにじませて言った。
「お前は体が弱い。暮らしが変わって不調でもある。大人しく、よく療養するんだ」
ハリーの気持ちはありがたかったが、ロシェは母との街の暮らしが恋しかった。
貧しくて満足に生活の品さえ買えなかったが、時々街にやって来る行商を母と眺めるのが楽しかった。早朝の空の色、夕暮れの街のにぎわい、そういうものがあれば日々は彩られていた。
たとえ食事や衣装が豪勢でも、侯爵家では愛妾の子と蔑まれて暮らすしかない。正妻からの目もある。ロシェは何度も、ここを出て元の家に戻りたいと告げた。すると決まって周囲の人々はロシェに言う。
「お嬢様は、侯爵家のご令嬢です。それをご自覚ください」
ロシェは反発しそうな気持ちを抑える。侯爵と自分とは何の関係もないと言ってしまえば楽になるだろうが、母が失踪した今、生活の手立てを侯爵に頼っているのは事実だ。
ロシェは侯爵が父であるとは、ここに来るまで知らなかった。侯爵は長らく母との関係も伏せていたという。ロシェに愛情があるとも思えなかった。
いっそのこと屋敷を抜け出して遠くの街に行こうか。弱った体を抱えて失踪するのは難しいが、このままこの屋敷で弱っていくよりはいいかもしれない。ロシェが本気でそう考え始めた頃、身の回りに変化が起こった。
屋敷に王宮から使者がやって来て、侯爵を捕縛したのだ。
ロシェは自室から一歩も出ないようにと命じられて、侯爵が何の罪で捕縛されたのかさえわからない。
けれど使用人たちが噂していたことがあった。侯爵は豪商から利権を差し出させて、私腹を肥やしていたと。政治的なことはロシェにはわからなくとも、この家に漂う陰の空気は感じていた。
母が今回の事件に巻き込まれてさえいなければいい。そう思う自分は、きっと侯爵に対して情がない。
でも母は、ロシェが侯爵へ愛着を持つことを望んでいなかった。母はずっと父のことを教えず、ロシェと二人だけで静かに暮らしていたのだから。
庇護を失って、今度こそ一人になるならそれを受け入れよう。ロシェはそう思って、与えられた部屋で息を殺していた。
ふいにノックの音が聞こえて、侍女が部屋の扉を開きに行った。
戸口に現れたのは兵士ではなく、身なりのいい文官風の男だった。彼はロシェに歩み寄ると、恭しく一礼して言う。
「宰相の命で、お迎えに上がりました。ロシェ・ラミアン嬢」
「宰相……?」
王の側にも控える立場の者が、ロシェに何の用があると言うのだろう。
ロシェが不思議そうに首を傾げると、使者は優しく言葉を続ける。
「ジェイド官吏統括官は、この度のことで宰相におなりです。私に、お嬢様を大切にお連れするように申し遣わされました」
ロシェを連れて行くというのはどういうことか。
ロシェにはわからないことがあまりに多い。この度というのは侯爵の捕縛のことだろうが、ロシェにはそれと自分との関係を見いだせなかった。
けれどロシェは一瞬、不謹慎にも喜んだ。
ジェイドはロシェを外に出してくれるという。それは確かにロシェが望んでいたことだ。
でも次の瞬間、貧しく育ったロシェの感覚が違和感を訴えた。
誰かが願いを無条件で叶えてくれる。そんな夢見がちなことは起こらない。
けれどロシェが声を上げる前に、部屋に駆けこんできた影があった。
「ロシェ、行くな!」
部屋に飛び込んできたのはハリーだった。常ならば、貴族の子弟が息せき切って走るなどしない。それを圧してでも彼がそんな行動を取った理由があるはずだった。
ハリーはジェイドからの使者につかみかかろうとして、控えていた兵士に逆に動きを封じられる。けれど腕を後ろにつかまれたままでも、ハリーは声を上げた。
「ジェイドは父上を裏切って、父上を訴追したんだ! しかも……」
ハリーはごくんと息を呑んで、吐き捨てるように言う。
「……お前を妻に迎えると、国王陛下と約束した。ジェイドは出自が卑しいから、侯爵家を利用するつもりだ」
ロシェも息を呑んだとき、戸口から別の影が歩み出る。
「いいえ。私は侯爵家からロシェ様を出して差し上げたいのです」
均整の取れた長身にサーコートをまとった立ち姿は、ジェイドだった。
ジェイドはゆっくりとロシェに歩み寄る。ハリーは鋭くそれを制止した。
「ロシェに近寄るな!」
けれどハリーは後ろ手に拘束されていて、それ以上二人には近づけない。その間に、ジェイドは数歩でロシェの元までたどり着いた。
ジェイドはロシェの手を両手で包み込む。ロシェをみつめる目には、庇護する子どもに対するような慈愛があった。
「妹は社交界に出入りしたこともない子どもだぞ。そんな子どもを利用する気か!」
ハリーの声に振り向きもせず、ジェイドはロシェをみつめ続ける。
子どもという言葉を、ロシェは心の中でつぶやいた。
「大切にいたします。私のところにいらしてください」
ジェイドがそっと告げる。ほとんどさらうように連れて行こうとするこんな状況であっても、その声音は優しかった。
ロシェはすとんと理解した。ジェイドは侯爵家の令嬢を妻に迎えたいだけだ。所詮それだけのことで、政略結婚でなければジェイドが自分のような子どもを選ぶはずがない。
……でも胸の奥が焼け焦げるように痛いのは、どうしてなのだろう。
視界の隅では、今もハリーがジェイドをにらみつけている。捕縛されたという侯爵は、当然この場にはいない。
抵抗してみようなどとは思わなかった。ロシェがジェイドの妻になるのは決定事項で、ロシェの意思程度ではどうにも動かない。
まだジェイドはロシェの手を握っていた。ロシェは指先が冷たくなっていくのを感じた。
「……わかりました」
ロシェには、そう答えるしかなかった。