裏切りの宰相と白いさらわれ妻~結婚してから始まったふたりの恋~

5 始まった暮らし

 ジェイドと始まったロシェの新しい生活は、侯爵家での暮らしとはずいぶん違った。
 ロシェは貴族の屋敷の女主人を務めるのは初めてのことだったし、政略結婚で屋敷に入った身で口を出すのも悪いと思っていた。
 けれどジェイドはそんなロシェの遠慮に気づいて、執事頭の妻という立場も持つ侍女のメルをロシェにつけてくれたようだった。
 翌朝、メルはジェイドが王宮に出仕した後、ロシェに伝えてくれた。
「旦那様から、少しずつ屋敷のことをお教えするように言われています。ロシェ様が心地よく暮らすには、覚えておいた方がいいことがたくさんありますから」
 メルは屋敷を案内して、まずは使用人を一人一人紹介してくれた。
 ロシェにあいさつを返す使用人たちは、みな堅実で忠実な人柄で、ロシェは緊張しながら名前を復唱していた。
「執事頭のマルクさん、下男のザインさん、侍女のナターシャさん、エミリアさん……」
 ロシェは食堂で働いていたとき、客の顔を覚えるのは得意だった。けれど名前は別で、歩きながらロシェが一生懸命繰り返していると、隣でメルは微笑ましそうに言った。
「すぐに全員を覚えなくとも大丈夫ですよ。けれど奥様に気をかけていただけるだけで、使用人たちの仕事ぶりは上がるのです」
「そうなのですか……」
 侯爵家では、ロシェは自分を蔑む使用人たちを恐れていた。侍女に声をかけることさえうまくできなくて、一人になった。
 ふと、せめて使用人たちの名を覚えることから始めればよかったのかもしれないと思う。
 母から引き離されて侯爵家に連れてこられた自分と、結婚して新しい屋敷に来た自分は、それほど違うわけじゃない。
 けれど淡く思いを抱く人と同じ家で暮らす。それはロシェに小さな勇気を与えてくれた。
 使用人の紹介が終わると、メルは簡単にジェイドの仕事のことを説明してくれた。
「宰相は国王陛下の内政の片腕でいらっしゃいます。財務官や官吏統括官など、多くの臣下から受けた進言を、国王陛下にお伝えする役目です」
 市井にいたロシェには、ジェイドの仕事は雲の上のように感じた。けれどメルはそんなロシェの表情を見て取って、いたずらっぽく付け加える。
「……旦那様からお聞きしましたが、今の国王陛下は気さくで、おおらかなお人柄だそうですよ? 旦那様に、「隠してないで奥方を早く王宮に連れてくるように」と仰せだそうです」
「えっ」
 ロシェは自分のことが話題に出たことにびっくりして、思わずテーブルの向こうのメルをうかがった。
 メルはそんなロシェに、安心させるようにジェイドの言葉を伝える。
「旦那様は、「妻が心安く暮らせるまでお待ちください」と。ロシェ様のお体が弱く、社交界にも出たことがないのを気に掛けておいでです」
 ロシェがまだ驚いているのを見ながら、メルは言葉を続けた。
「旦那様は慌ててはおられません。私もお側で支えます。何もご心配は要りませんよ」
 メルはそう言って、にっこりと微笑んだ。
 メルはそれからも、決して焦らせることなくロシェに様々なことを教えてくれた。ジェイドの領地のことや屋敷の管理のこと、いずれロシェが出る社交界のことなども話してくれた。
 ロシェは馴染みがないそれらに驚きながら、メルの話を一生懸命に聞いていた。屋敷を歩いたり、決まり事を覚えたりしながら、昼の時間は飛ぶように過ぎて行った。
「ロシェ様?」
 けれどロシェは少し熱を入れ過ぎて学びに励んでしまったのだろう。夕方に持病の咳が出始めて、ジェイドが帰ってくる夜には熱も出ていた。 
 上っては落ちる意識の中を行き来して、やがて静かな湖に下りたような気がした。
 ロシェが目を開くとジェイドがいて、心配そうに彼女を覗き込んでいた。
 ロシェが瞬きをすると、ジェイドは自分が苦しそうに告げる。
「ロシェ、痛むのですか?」
 ロシェが喉の痛みで答えられずにいると、ジェイドは慌てて続ける。
「無理に話さなくていいのです。医師も安静にと言っていたそうですね」
 ロシェは大丈夫だと言ったのだが、メルが心配して、食事の前に医師を呼んで診察を受けたのだった。
 ロシェは掠れた声でどうにか言葉を告げる。
「心配を、かけて、ごめん……なさい」
 ジェイドはロシェの頬にそっと触れて、首を横に振る。
「私はいいのです。ロシェの体が弱いのはよく知っていたのに。苦しかったでしょう」
 外は既に日が没していて、ロシェが床についてからずいぶん時間が経っている。
 ベッドの脇で眉を寄せて座っているジェイドを見上げながら、ロシェはふと問いかける。
「ジェイドさ……ジェイド。夕餉は召し上がりましたか?」
「ロシェはまだ食べていないのでしょう?」
 ロシェはそれを聞いて慌てて言葉を告げる。
「そんな! 召し上がってきてください」
「ではここに運ばせましょう」
 ロシェが止める間もなく、ジェイドはメルに命じて食事が運ばれてくることになった。
 ロシェが申し訳なくて言葉に詰まっていると、ジェイドは優しく言った。
「今日は、がんばっていろんなことを覚えようとなさったのですね」
 ロシェが顔を上げると、ジェイドは困ったように微笑んだ。
「あなたがここでの暮らしを前向きに思ってくれた。それだけでうれしいです」
 ジェイドはそう言ってから、ロシェの肩にそっと触れる。
「でも、無理はしないでください。私たちの時間は、まだこれから長く続くのですから」
 ロシェはその言葉に、小さな胸の痛みを感じた。
 一年という期間が終わっても、彼はそう言ってくれるだろうか。
 けれど政略結婚で迎えた妻に、彼はこれ以上なく誠実に接してくれている。ロシェに彼へそれ以上の望みを告げることは、できない。
「はい。それから……おかえりなさい、ジェイド」
 そうロシェが告げると、ジェイドは少し驚いたように目を見開いて、それから微笑んだ。
「ただいま、ロシェ」
 ロシェは彼と迎える二度目の夕餉に安らぎを感じ始めながらも、その心の内を話すことはできなかった。
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