裏切りの宰相と白いさらわれ妻~結婚してから始まったふたりの恋~
6 花と星
ロシェが屋敷に来て翌日に寝込んでから、ジェイドはロシェのために身の回りを整えてくれた。
元々ロシェのために屋敷に迎えられていた侍女のナターシャは、長く王宮医師の下で働いた経歴があった。ジェイドは少しでもロシェの調子が悪ければナターシャに診せて、必要があればすぐに医師を呼んだ。
ロシェも少しの不調だと男性の医師を呼ぶのはためらったから、ナターシャの存在は大きな助けになった。
それから、ジェイドは侍女頭のメルのロシェへの教育について言伝たようだった。メルも、ロシェは内気でわかりにくいが、怠けない懸命な性格だと気づいた。メルはロシェの勤勉さをよく理解して、時間を区切り、無理をさせないように心を配ってくれた。
ジェイドは夜は仕事で遅いこともあったが、朝は必ずロシェと食事を共にした。時には昼間に立ち寄って、ロシェと二人の時間を持つようにした。
ジェイドと屋敷の使用人たちが大切にロシェを扱ってくれたおかげか、ロシェは侯爵家にいたときより体調が上向き、表情も明るくなった。
一月が経ち、ロシェが屋敷の生活に少しずつ馴染んできた頃だった。ジェイドはロシェを、彼が私的に所有する庭園に連れ出した。
「わぁ……」
ロシェの反応は如実だった。馬車から降りるなり、ロシェは子どものように声を上げた。
そこには湖のほとりに、初夏の花畑が広がっていた。あまり人の手が入っていない、自然のままの花々が咲き乱れていた。
ジェイドはロシェの隣に立って、微笑ましそうにロシェの横顔を眺める。
「花はお好きですか?」
「母がよく市場で買ってきてくれて。でもこんな風に庭園に出かけるのは初めてなんです」
春の甘い空気とはまた違って、新緑と透き通るような水色の花々が鮮やかだった。湖から吹く風が涼しく、ふたりの頬を掠めていた。
ロシェは柔らかく笑って辺りを見回す。
「妖精が住む湖のほとりは、きっとこういうところですね」
初めて見る光景への興奮からか、ロシェもいつもよりよく話した。ジェイドはそんなロシェの笑顔に満足そうに微笑む。
「連れてきてよかった。何度も来ましょう、これからも」
「はい!」
ロシェはうなずいたが、ふと不安そうにジェイドを見上げた。
ジェイドが首を傾げると、ロシェはぽつりと問う。
「私が子どもだから……ジェイドまで社交界に出入りできないのではないですか?」
ロシェは病弱で貴族社会にも不慣れな自分に引け目があって、未だに社交界に出ていなかった。ロシェを伴侶にしているジェイドも、結婚してから一度も社交界に出ていないと聞く。
ジェイドは首を横に振って、気負いなく返した。
「私は社交界にはそれほど執着がないのです。そうですね、機会を見てロシェをデビューさせたいとは思っていますが……」
ジェイドはロシェの手を取って腕にからめながら笑う。
「ふたりだけの時間を過ごすのもうれしい。さ、せっかく天気にも恵まれましたし、ゆっくり散策を楽しみましょう」
ロシェは触れ合った手を急に意識して、赤面しながらうなずいた。
王都の喧噪からは遠く、小鳥の声が木々のトンネルの中に響いていた。ふたりで手を取りながら、ジェイドとロシェは一面に広がる花畑を見て歩く。
ロシェが聞くには、社交界の紳士淑女は駆け引きのような会話を楽しむのだと言う。けれどロシェはとても自分がそんなやり取りをできるとは思えなかったし、ジェイドもロシェにそのような会話は持ち出さなかった。
「ロシェ、お気に入りの花があったら教えてください。屋敷に持ち帰って、育てさせましょう」
ロシェはジェイドの言葉をうれしく思いながら、首を横に振る。
「ありがとうございます……。でもここで、健やかに育つままにさせてあげてください」
夏の始まり、ロシェは芽吹いた草木の命の力強さを感じていた。それは見ているだけで心に触れてくるもので、摘み取って自分のものにしようとは思わなかった。
ジェイドは優しい目で傍らのロシェを見下ろして言う。
「妖精が住んでいたら、きっとロシェのように思うことでしょう。……あなたといると、心が安らぎます」
ロシェがまばたきをしたら、ジェイドと目が合った。彼は穏やかに微笑んで言う。
「王宮は望んで入った世界とはいえ、暗い面に心が擦り切れるときもあります。けれど家に帰って来たらあなたに会える。結婚してよかったと思います」
ロシェは思いもよらない言葉に、少し慌てて言葉を返した。
「いいえ、私はやっと身の回りのことがわかってきたくらいです。ジェイドの不在の間の屋敷の管理は、まだほとんど何もできていなくて」
「それでもあなたはほぼ一月で屋敷のことを理解してくれた。じきに屋敷の采配もできるようになるでしょう」
風がふわりと薫って、辺りの花の香りと共に二人を包んだ。
ロシェが心地よさそうに目を細めると、ジェイはふと寂しそうに笑みを浮かべる。
「……あなたは私が思うほど子どもではないのかもしれない。だからあなたには、もっと世俗的な楽しみも教えなければ」
ジェイドはロシェを見下ろして、願うように言葉を続ける。
「社交界になど出ず、こういったところを散策しながら、ふたりだけで暮らしを楽しむ……。私には、そう望む心もあります。ただそれだけの世界で終えるのは、あなたはまだあまりに若い」
ジェイドはふいにロシェと向き合う。ジェイドはロシェの手を取って包むと、一回り大人の落ち着きを持って諭す。
「社交界を、それほど恐れなくとも大丈夫です。私がついていますから」
ロシェは一瞬、こみ上げた緊張に身を固くした。侍女頭のメルに聞くまで、庶民の自分に社交界など、考えたこともなかったからだ。
けれど宰相のジェイドには、社交界とのつながりが必要と聞いた。自分に付き合って、いつまでも社交界と切れたままではいられないとも。
ロシェは自分の手を包むジェイドの温もりに促されて、そっと問いかける。
「……一度、連れて行っていただけますか?」
ロシェの言葉は子どものように所在なさげになってしまったが、ジェイドはそんなロシェの不安ごと包み込んでくれた。
「もちろん。私はあなたの夫ですから」
それから二人、湖を臨みながら昼食を取った。
ジェイドはロシェのデビューのことをそれ以上性急に進めようとはせず、鳥や花の話題を口にしながら、穏やかな午後の時間を過ごした。
「夏になったら湖に舟を浮かべて、一緒に星を見ましょう」
「はい……素敵ですね」
夏になっても、彼と一緒に過ごせる。今の優しい日々が続くのは、きっと幸せに違いない。
ジェイドの提案に微笑んで、ロシェはうなずいた。
元々ロシェのために屋敷に迎えられていた侍女のナターシャは、長く王宮医師の下で働いた経歴があった。ジェイドは少しでもロシェの調子が悪ければナターシャに診せて、必要があればすぐに医師を呼んだ。
ロシェも少しの不調だと男性の医師を呼ぶのはためらったから、ナターシャの存在は大きな助けになった。
それから、ジェイドは侍女頭のメルのロシェへの教育について言伝たようだった。メルも、ロシェは内気でわかりにくいが、怠けない懸命な性格だと気づいた。メルはロシェの勤勉さをよく理解して、時間を区切り、無理をさせないように心を配ってくれた。
ジェイドは夜は仕事で遅いこともあったが、朝は必ずロシェと食事を共にした。時には昼間に立ち寄って、ロシェと二人の時間を持つようにした。
ジェイドと屋敷の使用人たちが大切にロシェを扱ってくれたおかげか、ロシェは侯爵家にいたときより体調が上向き、表情も明るくなった。
一月が経ち、ロシェが屋敷の生活に少しずつ馴染んできた頃だった。ジェイドはロシェを、彼が私的に所有する庭園に連れ出した。
「わぁ……」
ロシェの反応は如実だった。馬車から降りるなり、ロシェは子どものように声を上げた。
そこには湖のほとりに、初夏の花畑が広がっていた。あまり人の手が入っていない、自然のままの花々が咲き乱れていた。
ジェイドはロシェの隣に立って、微笑ましそうにロシェの横顔を眺める。
「花はお好きですか?」
「母がよく市場で買ってきてくれて。でもこんな風に庭園に出かけるのは初めてなんです」
春の甘い空気とはまた違って、新緑と透き通るような水色の花々が鮮やかだった。湖から吹く風が涼しく、ふたりの頬を掠めていた。
ロシェは柔らかく笑って辺りを見回す。
「妖精が住む湖のほとりは、きっとこういうところですね」
初めて見る光景への興奮からか、ロシェもいつもよりよく話した。ジェイドはそんなロシェの笑顔に満足そうに微笑む。
「連れてきてよかった。何度も来ましょう、これからも」
「はい!」
ロシェはうなずいたが、ふと不安そうにジェイドを見上げた。
ジェイドが首を傾げると、ロシェはぽつりと問う。
「私が子どもだから……ジェイドまで社交界に出入りできないのではないですか?」
ロシェは病弱で貴族社会にも不慣れな自分に引け目があって、未だに社交界に出ていなかった。ロシェを伴侶にしているジェイドも、結婚してから一度も社交界に出ていないと聞く。
ジェイドは首を横に振って、気負いなく返した。
「私は社交界にはそれほど執着がないのです。そうですね、機会を見てロシェをデビューさせたいとは思っていますが……」
ジェイドはロシェの手を取って腕にからめながら笑う。
「ふたりだけの時間を過ごすのもうれしい。さ、せっかく天気にも恵まれましたし、ゆっくり散策を楽しみましょう」
ロシェは触れ合った手を急に意識して、赤面しながらうなずいた。
王都の喧噪からは遠く、小鳥の声が木々のトンネルの中に響いていた。ふたりで手を取りながら、ジェイドとロシェは一面に広がる花畑を見て歩く。
ロシェが聞くには、社交界の紳士淑女は駆け引きのような会話を楽しむのだと言う。けれどロシェはとても自分がそんなやり取りをできるとは思えなかったし、ジェイドもロシェにそのような会話は持ち出さなかった。
「ロシェ、お気に入りの花があったら教えてください。屋敷に持ち帰って、育てさせましょう」
ロシェはジェイドの言葉をうれしく思いながら、首を横に振る。
「ありがとうございます……。でもここで、健やかに育つままにさせてあげてください」
夏の始まり、ロシェは芽吹いた草木の命の力強さを感じていた。それは見ているだけで心に触れてくるもので、摘み取って自分のものにしようとは思わなかった。
ジェイドは優しい目で傍らのロシェを見下ろして言う。
「妖精が住んでいたら、きっとロシェのように思うことでしょう。……あなたといると、心が安らぎます」
ロシェがまばたきをしたら、ジェイドと目が合った。彼は穏やかに微笑んで言う。
「王宮は望んで入った世界とはいえ、暗い面に心が擦り切れるときもあります。けれど家に帰って来たらあなたに会える。結婚してよかったと思います」
ロシェは思いもよらない言葉に、少し慌てて言葉を返した。
「いいえ、私はやっと身の回りのことがわかってきたくらいです。ジェイドの不在の間の屋敷の管理は、まだほとんど何もできていなくて」
「それでもあなたはほぼ一月で屋敷のことを理解してくれた。じきに屋敷の采配もできるようになるでしょう」
風がふわりと薫って、辺りの花の香りと共に二人を包んだ。
ロシェが心地よさそうに目を細めると、ジェイはふと寂しそうに笑みを浮かべる。
「……あなたは私が思うほど子どもではないのかもしれない。だからあなたには、もっと世俗的な楽しみも教えなければ」
ジェイドはロシェを見下ろして、願うように言葉を続ける。
「社交界になど出ず、こういったところを散策しながら、ふたりだけで暮らしを楽しむ……。私には、そう望む心もあります。ただそれだけの世界で終えるのは、あなたはまだあまりに若い」
ジェイドはふいにロシェと向き合う。ジェイドはロシェの手を取って包むと、一回り大人の落ち着きを持って諭す。
「社交界を、それほど恐れなくとも大丈夫です。私がついていますから」
ロシェは一瞬、こみ上げた緊張に身を固くした。侍女頭のメルに聞くまで、庶民の自分に社交界など、考えたこともなかったからだ。
けれど宰相のジェイドには、社交界とのつながりが必要と聞いた。自分に付き合って、いつまでも社交界と切れたままではいられないとも。
ロシェは自分の手を包むジェイドの温もりに促されて、そっと問いかける。
「……一度、連れて行っていただけますか?」
ロシェの言葉は子どものように所在なさげになってしまったが、ジェイドはそんなロシェの不安ごと包み込んでくれた。
「もちろん。私はあなたの夫ですから」
それから二人、湖を臨みながら昼食を取った。
ジェイドはロシェのデビューのことをそれ以上性急に進めようとはせず、鳥や花の話題を口にしながら、穏やかな午後の時間を過ごした。
「夏になったら湖に舟を浮かべて、一緒に星を見ましょう」
「はい……素敵ですね」
夏になっても、彼と一緒に過ごせる。今の優しい日々が続くのは、きっと幸せに違いない。
ジェイドの提案に微笑んで、ロシェはうなずいた。