裏切りの宰相と白いさらわれ妻~結婚してから始まったふたりの恋~
7 伯爵のサロン
ロシェは一月間、侍女頭のメルにマナー教育を受けてデビューに備えた。
言葉一つでも、歩き方さえも、平民のロシェには初めてのことばかりだった。けれどジェイドが「最初なのだから失敗しても何も気にしなくていい」と言ってくれたから、ロシェは緊張しながらも前向きに学ぶことができた。
ロシェのデビューとなったサロンは、ヘイゼル伯爵の屋敷だった。
ヘイゼル伯爵は初老の貴族で、既に妻を亡くしているが再婚はせず、使用人や仲のいい仲間たちとサロンで穏やかに語らう日々を送っていた。
「久しぶりだね、ロシェ」
「あ……覚えていてくださったのですか」
ヘイゼル伯爵は、ロシェの母の食堂にも来客していたほど平民にも親しむ人だった。その日も客人を招き入れる前に、あらかじめそっとロシェに言葉をかけてくれた。
「もちろん。私は君とジェイドの結婚を祝福している。ジェイドは良き青年だ。彼に、君が健やかに生活できるよう助力を頼まれた。私のサロンがそれに役立つなら幸いだ」
「ありがとうございます……」
ロシェは傍らのジェイドを見上げてはにかむと、ヘイゼル伯爵に礼を言った。
ジェイドもヘイゼル伯爵に礼を述べて、ロシェに声をかける。
「参りましょう。素敵なお屋敷ですから、気を取られて私から離れないでくださいね」
ジェイドの冗談も、辺りの様子を見るとそうかもしれないと思ってしまう。
芸術に明るいヘイゼル伯爵は、ここへ来る間の廊下にもいくつも美術品を飾っていた。マホガニーの調度も、ビロードのじゅうたんも、つい足を止めてみつめてしまう。
けれど客を招くテラスは、また特別な装いだった。そこに立ち入ったとき、ロシェは違う世界に触れたような心地がした。
そこは半分は部屋の中、半分はガラス張りの温室で、太陽の光が温かく差し込むところだった。部屋の方には鳥の絵や風景画が飾られる一方、テラスには果物が豊かに実り花々が咲いていて、絵本で描かれる神々の居室のような空間だった。
振舞われるのはレモネードに香ばしい焼き菓子で、辺りは甘く上機嫌な空気が満ちていた。
招かれた客人たちは、ヘイゼル伯爵の人柄か、朗らかな人柄の、壮年あるいは初老の貴族たちが多かった。
ジェイドはロシェの手を取って彼らのところを訪れながら、挨拶を交わす。
「私の妻となった、ロシェ・ヴィッテルです。社交界には不慣れですが、少しずつこういった場を訪れる予定ですので、どうぞよろしく」
「どうぞお見知りおきください……」
堂々と紹介するジェイドの後に、ロシェは緊張しながら言葉を添える。平民の自分では場違いと思われないか、ロシェは恐れながらスカートを摘まんで礼を取った。
けれどジェイドが選んだサロンには、ロシェの身分を攻撃する輩はいないようだった。挨拶を受けた貴族たちは、意外にも顔を輝かせて言った。
「宰相閣下のロマンスは僕たちの心を熱くしてくれました。ぜひお会いしたいと思っていましたよ。……なるほど、水に咲くスイレンの花のように可憐な奥方様だ」
ロシェがその好意に戸惑っていると、別の貴婦人も言葉を挟む。
「今まで国王陛下自ら宰相閣下に縁談を持ち掛けていらっしゃったのに、ずっと宰相閣下は断っていらしたのよ。人目にさらしたくない秘密の庭のように、あなたを隠していらしたのね」
ロシェはそれを聞いて、自分の身の上を思う。
兄のハリーは、ジェイドが侯爵家の名を利用するためにロシェを娶ったと言った。ジェイドも初夜の日、これを白い結婚にして一年後には結婚を無効にするという話を持ち掛けた。
貴婦人の一人は嘆息して言う。
「うらやましい身の上でいらっしゃるわ。ロシェ様、これからは社交界の華になられますよ」
それは好意からの言葉だったはずなのに、ロシェの心を知らず刺した。
初夜の日にジェイドが告げたことは、今のロシェには痛みを伝えてくる。
初夜のあの日は、確かにジェイドを恐れていた。彼と、彼を囲む貴族社会に、自分がなじめるとは思わなかった。
その不安は今も胸にあるが、ジェイドの優しさを知った今、本当に結婚を無効にしてしまっていいのかわからなくなってしまった。
……これは政略結婚で、ジェイドは自分が子どもだから慈愛を持って接してくれているだけなのに。
ジェイドはそんなロシェの憂いに気づいたのだろう。ロシェの手を引いて、気づかわしげに声をかける。
「ロシェ? ……少し休憩しましょう」
ジェイドはロシェを控室に導いて、椅子を勧める。彼は水を受け取ってくると、ロシェに差し出してその顔色をのぞきこんだ。
「無理もない。初めての場ですから、緊張したのでしょう」
ロシェはお礼を言ってグラスを受け取ると、意識して微笑む。
「大丈夫です。少しここにいますから、ジェイドは戻ってください」
「まだ顔色が悪いです。そんな様子の妻を残して戻るなどできません」
彼は自分のことを妻と言ってくれるけれど、彼の妻の立場を望む女性はきっとたくさんいることだろう。
一年経ったらきっと彼の隣には……そう思うと、ロシェの微笑みは陰る。
ロシェの意思なく至った結婚だったが、ジェイドはとても優しい。ロシェは彼との関係を続けていけたらとさえ思っている。
――身の程を知らない望みは、自らを滅ぼすのよ。
いつか母が言っていた言葉が蘇る。きっと母は父侯爵との関係を言ったのだろうが、今のロシェとジェイドの関係もそうなのかもしれない。自分は平民で、彼は宰相なのだ。
ロシェがジェイドに伴われて少しそこで休憩していると、ヘイゼル伯爵が現れてロシェに言った。
「今日は退出してもいいんだよ。機会はこれからいくらでもある。君に社交界を嫌いになってほしくないんだ」
「ありがとうございます、伯爵。……ロシェ、伯爵のご厚意に甘えませんか?」
ジェイドは心配そうにロシェを振り向いて問う。
ロシェはジェイドの瞳に映る自分が、頼りない目をしていることに気づいた。
「……はい」
ロシェは気丈に振舞えない自分を惜しみながら、その日はそこでジェイドと共に帰路についた。
ロシェの社交界のデビューは、そんな少し苦い思い出となった。
言葉一つでも、歩き方さえも、平民のロシェには初めてのことばかりだった。けれどジェイドが「最初なのだから失敗しても何も気にしなくていい」と言ってくれたから、ロシェは緊張しながらも前向きに学ぶことができた。
ロシェのデビューとなったサロンは、ヘイゼル伯爵の屋敷だった。
ヘイゼル伯爵は初老の貴族で、既に妻を亡くしているが再婚はせず、使用人や仲のいい仲間たちとサロンで穏やかに語らう日々を送っていた。
「久しぶりだね、ロシェ」
「あ……覚えていてくださったのですか」
ヘイゼル伯爵は、ロシェの母の食堂にも来客していたほど平民にも親しむ人だった。その日も客人を招き入れる前に、あらかじめそっとロシェに言葉をかけてくれた。
「もちろん。私は君とジェイドの結婚を祝福している。ジェイドは良き青年だ。彼に、君が健やかに生活できるよう助力を頼まれた。私のサロンがそれに役立つなら幸いだ」
「ありがとうございます……」
ロシェは傍らのジェイドを見上げてはにかむと、ヘイゼル伯爵に礼を言った。
ジェイドもヘイゼル伯爵に礼を述べて、ロシェに声をかける。
「参りましょう。素敵なお屋敷ですから、気を取られて私から離れないでくださいね」
ジェイドの冗談も、辺りの様子を見るとそうかもしれないと思ってしまう。
芸術に明るいヘイゼル伯爵は、ここへ来る間の廊下にもいくつも美術品を飾っていた。マホガニーの調度も、ビロードのじゅうたんも、つい足を止めてみつめてしまう。
けれど客を招くテラスは、また特別な装いだった。そこに立ち入ったとき、ロシェは違う世界に触れたような心地がした。
そこは半分は部屋の中、半分はガラス張りの温室で、太陽の光が温かく差し込むところだった。部屋の方には鳥の絵や風景画が飾られる一方、テラスには果物が豊かに実り花々が咲いていて、絵本で描かれる神々の居室のような空間だった。
振舞われるのはレモネードに香ばしい焼き菓子で、辺りは甘く上機嫌な空気が満ちていた。
招かれた客人たちは、ヘイゼル伯爵の人柄か、朗らかな人柄の、壮年あるいは初老の貴族たちが多かった。
ジェイドはロシェの手を取って彼らのところを訪れながら、挨拶を交わす。
「私の妻となった、ロシェ・ヴィッテルです。社交界には不慣れですが、少しずつこういった場を訪れる予定ですので、どうぞよろしく」
「どうぞお見知りおきください……」
堂々と紹介するジェイドの後に、ロシェは緊張しながら言葉を添える。平民の自分では場違いと思われないか、ロシェは恐れながらスカートを摘まんで礼を取った。
けれどジェイドが選んだサロンには、ロシェの身分を攻撃する輩はいないようだった。挨拶を受けた貴族たちは、意外にも顔を輝かせて言った。
「宰相閣下のロマンスは僕たちの心を熱くしてくれました。ぜひお会いしたいと思っていましたよ。……なるほど、水に咲くスイレンの花のように可憐な奥方様だ」
ロシェがその好意に戸惑っていると、別の貴婦人も言葉を挟む。
「今まで国王陛下自ら宰相閣下に縁談を持ち掛けていらっしゃったのに、ずっと宰相閣下は断っていらしたのよ。人目にさらしたくない秘密の庭のように、あなたを隠していらしたのね」
ロシェはそれを聞いて、自分の身の上を思う。
兄のハリーは、ジェイドが侯爵家の名を利用するためにロシェを娶ったと言った。ジェイドも初夜の日、これを白い結婚にして一年後には結婚を無効にするという話を持ち掛けた。
貴婦人の一人は嘆息して言う。
「うらやましい身の上でいらっしゃるわ。ロシェ様、これからは社交界の華になられますよ」
それは好意からの言葉だったはずなのに、ロシェの心を知らず刺した。
初夜の日にジェイドが告げたことは、今のロシェには痛みを伝えてくる。
初夜のあの日は、確かにジェイドを恐れていた。彼と、彼を囲む貴族社会に、自分がなじめるとは思わなかった。
その不安は今も胸にあるが、ジェイドの優しさを知った今、本当に結婚を無効にしてしまっていいのかわからなくなってしまった。
……これは政略結婚で、ジェイドは自分が子どもだから慈愛を持って接してくれているだけなのに。
ジェイドはそんなロシェの憂いに気づいたのだろう。ロシェの手を引いて、気づかわしげに声をかける。
「ロシェ? ……少し休憩しましょう」
ジェイドはロシェを控室に導いて、椅子を勧める。彼は水を受け取ってくると、ロシェに差し出してその顔色をのぞきこんだ。
「無理もない。初めての場ですから、緊張したのでしょう」
ロシェはお礼を言ってグラスを受け取ると、意識して微笑む。
「大丈夫です。少しここにいますから、ジェイドは戻ってください」
「まだ顔色が悪いです。そんな様子の妻を残して戻るなどできません」
彼は自分のことを妻と言ってくれるけれど、彼の妻の立場を望む女性はきっとたくさんいることだろう。
一年経ったらきっと彼の隣には……そう思うと、ロシェの微笑みは陰る。
ロシェの意思なく至った結婚だったが、ジェイドはとても優しい。ロシェは彼との関係を続けていけたらとさえ思っている。
――身の程を知らない望みは、自らを滅ぼすのよ。
いつか母が言っていた言葉が蘇る。きっと母は父侯爵との関係を言ったのだろうが、今のロシェとジェイドの関係もそうなのかもしれない。自分は平民で、彼は宰相なのだ。
ロシェがジェイドに伴われて少しそこで休憩していると、ヘイゼル伯爵が現れてロシェに言った。
「今日は退出してもいいんだよ。機会はこれからいくらでもある。君に社交界を嫌いになってほしくないんだ」
「ありがとうございます、伯爵。……ロシェ、伯爵のご厚意に甘えませんか?」
ジェイドは心配そうにロシェを振り向いて問う。
ロシェはジェイドの瞳に映る自分が、頼りない目をしていることに気づいた。
「……はい」
ロシェは気丈に振舞えない自分を惜しみながら、その日はそこでジェイドと共に帰路についた。
ロシェの社交界のデビューは、そんな少し苦い思い出となった。