裏切りの宰相と白いさらわれ妻~結婚してから始まったふたりの恋~

8 手渡されたもの

 伯爵のサロンでデビューして以来、ロシェはジェイドの手助けを借りながら社交界に臨んだ。
 ジェイドはロシェを緊張させないように、少人数でのお茶会や絵画鑑賞といったものから始めた。ロシェはその機会を大事にしようと、出会った人たちの名前や話の内容を懸命に覚えて、帰ったら侍女のメルと復習をしていた。
 ロシェが週に一度ほどサロンに出入りして、二月が巡る頃になった。
 レグルス王国は星と花の王国と呼ばれるように、人々は星と花を見る機会を大切にしている。夏の盛りに差し掛かり、昼は花を、夜は星を楽しむサロンが各地で開かれるようになった。
 その頃にはロシェも少しだけ社交界に馴染み、ジェイドはそんな彼女の様子を見て言った。
「今までは昼だけの外出でしたが、夜の星見会も風流でいいものです。招待もいくつか来ていますし、私と行ってみませんか?」
「はい……星は私も好きです。ぜひ、ご一緒に」
 庶民の間でも、星見は身近な楽しみだった。ロシェが微笑んでうなずくと、ジェイドも微笑み返してくれた。
 ジェイドがロシェを連れて行ったのは、王弟ナザール公の私邸の庭園で、この時期は星見のために平民も含めて多くの人々が訪れていた。
 ジェイドは馬車から降りるとき、ロシェの手を取って言う。
「ここから少し歩きます。最小限の灯りしか持参を許されませんので、足元にお気をつけて」
 彼の言う通り、そこはぽつぽつと置かれた小さなカンテラだけが頼りで、静かな宵闇が広がっていた。
 ジェイドがロシェの手を取って、二人で花咲く小道を歩く。やがて上り坂になったかと思うと、ふいに開けた丘に出た。
 ロシェは思わず息を呑む。
「あ……」
 空から星がこぼれてきそうなほど、満天の星空が広がっていた。さすが王弟の庭園で、街のように灯りや建物に邪魔されない、繊細な光景がそこにはあった。
 辺りに人々はたくさんいるが、みなほとんど言葉を交わさず空に見入っていた。ロシェもまた、しばらく言葉を忘れて空をみつめていた。
 宝石のように空で輝く星をみつめるうち、ロシェは前に星見をしたのは母と一緒だったと思った。
 母が行方をくらましてもう半年近くになる。無事でいると信じているが、今も母を思うと心配でたまらない。
 そんなときだった。暗闇でよく周りが見えなかったのだろう。少年が一人、ロシェの腕にぶつかってしまった。
「ごめんなさ……」
 ロシェは言葉をかけようとして、声を詰まらせる。少年が素早く、ロシェの手に何かを握らせたからだった。
 少年はすぐに人波に消えて、ジェイドが庇うようにロシェを引き寄せながら言う。
「大丈夫ですか、ロシェ? どこか怪我は?」
「平気です……」
 ロシェはそう答えたものの、ジェイドの前で少年に握らされたものを見せられなかった。
 それはロシェも何度も調理したから、手を開かなくてもわかる。それは母の食堂の名前で、滋養が高く、母がよく病弱なロシェのために用意してくれた「ヘーゼルナッツ」。
 ロシェの目の前に、母とよく他愛ない話をしていたヘイゼル伯爵の笑顔がよぎる。
 母は特定の誰かと親しくはなかったが、ヘイゼル伯爵は特別な扱いをしていた。それは……もしかしたら自分の父親だからかもしれないと思ったこともあった。
 ヘイゼル伯爵は紳士で、優しかった。ロシェは彼が自分の父だったら素敵だと思っていたが、母に何も言うことはなかった。
 でも今改めて、母がヘイゼル伯爵のところに身を隠したと、どうして思わなかったのだろう。
 先ほどの少年がロシェの手に残した重みが、にわかにロシェの中で大きなものになる。
 ……ロシェが一人でヘイゼル伯爵のところに行ったなら、母の行方はわかるだろうか。
 見上げればロシェの夫となった人が、ロシェの瞳をじっとみつめている。
 母と二人だけの世界でいた頃に比べると、ジェイドは大きな存在になっている。母の無事さえ確かなら、誰のことも気にしなかった以前とは違う。
 けれどロシェは息を吸って、迷った末にぽつりと言った。
「少し……人に酔ってしまったみたいです」
 ロシェの口からは、今は真実を打ち明けることができなかった。
 ジェイドはうなずいて、ロシェに言葉を返した。
「そうですね。ここは人が多い。馬車に戻りましょう」
 ジェイドは労わるようにロシェの背を抱いて、帰路を辿り始める。
 ジェイドはロシェが隠したヘーゼルナッツには、気づかなかったようだった。
 ロシェの中で母に会いたい思いが募る一方、ジェイドへの後ろめたさで息が詰まりそうだった。
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