東京

眠狂四郎

一週間が過ぎた。配達の道順もすっかり覚え、二日目からはひとりで配達をこなすようになった。配達部数は約三百部。朝の早い時間に新聞販売店へ行き、積み上げられた新聞の束を自転車の荷台にこれでもかというほど高く積み上げる。それを一つずつ、決められた場所へ配達していくのだ。

自転車を漕ぎながら、細い路地や坂道をスムーズに通り抜け、無事に新聞をポストに差し込む。慣れてくると、少しずつ速く回れるようになった。ある朝、配達の途中でふと目をやった電信柱に、安藤ユキコのリサイタルポスターが貼られているのを見つけた。

彼女の笑顔が印象的なポスターは、鮮やかなデザインで目を引く。ユキコのリサイタルが近づいていることを改めて実感し、思わず自転車を止めてじっと見つめた。ポスターには「安藤ユキコリサイタル」と大きく書かれており、日程は今週末。場所は市内のホールだ。その週末、学校の友達と一緒に安藤ユキコのリサイタルへ行くことになっていた。友達もみんなユキコのファンで、リサイタルを楽しみにしていた。

新聞配達の仕事をこなす一方で、週末のその日が待ち遠しく、心の中でカウントダウンをしている自分がいた。日曜日、コンサートから帰ってくると、先輩が待っていた。「今日からアパートに引っ越しするぞ」と言う。嬉しい気持ちと少しの緊張を抱えながら、私たちはその足で新しいアパートへと向かう。

無造作に止められた数十台の自転車が並ぶ中、古ぼけたアパートが目の前に現れた。外観は経年劣化が目立ち、時代を感じさせる佇まいだ。先輩が誇らしげに声をかけてきた。「家賃七千円のアパートだ。」いくら昭和の時代とはいえ、家賃七千円は安いと感じた。共同トイレに共同の自炊場、シンプルな生活が待っている。先輩に案内されながら部屋を見せてもらうと、しかし、肝心の鍵がないという。「鍵があってもなくても、一緒だぞ」と先輩は笑う。

「え、本当に?」と驚く私。先輩が少し足で蹴ると、ドアは簡単に倒れてしまう。その様子に呆れつつも、少し笑ってしまった。隣の部屋との境はベニヤ板一枚だけで、プライバシーなどあったものではない。このアパートでの新生活がどんなものになるのか、期待と不安が入り混じった気持ちが心を満たしていた。

部屋にはもちろん、安藤ユキコのポスターが貼られていた。彼女の明るい笑顔が、毎日私を励ましてくれる。専門学校は山手線の上野駅の近くにあり、通学も便利だ。しかし、半年も過ぎると、学生の数は半分に減ってしまった。授業についていけない者も多く、新聞奨学生の仲間の中にも、先輩に誘われて毎晩酒を飲み過ぎて退学に追い込まれる者が出てきた。

放送の専門学校は、いわば遊びのようなもので、実習は面白くて刺激的だった。一年目は、田舎にも帰ることはなかったが、東京の生活に慣れ、夢を追いかける日々が楽しかった。

しかし、2年生の半ばを過ぎると、就職戦線が始まり、周囲の雰囲気が変わってきた。学生たちは焦りを抱え、自分の進路を真剣に考えるようになる。
「みんな、就職どうするの?」と友人たちが話し始める。私も不安を抱えながら、次第に現実を受け入れなければならないと感じていた。

将来への期待と恐れが入り混じり、何を選ぶべきか悩む日々が続く。安藤ユキコのポスターを見つめながら、彼女のように自分の夢を実現させるために、何ができるのかを考える毎日だった。私は学校へ行くと、実習を除いて大半を爆睡して過ごしていた。起きているのは、仕事をしているときだけだ。それも当然のことだ。朝の三時に起こされ、朝食を食べてから一時間かけて学校へ通学し、その後は夕刊の配達、新聞のチラシ入れ、集金、営業と、まるで休む暇がない。

授業中に爆睡するしかないのだ。そんな境遇にありながら、販売店の先輩の中には大学受験を目指している男もいた。彼の部屋からは毎日、英語の発音が聞こえてきた。彼は夜遅くまで勉強し、朝早く起きては再び勉強に励む姿が印象的だった。「どうやってそんなに勉強できるの?」と尋ねると、彼は「夢があるからさ」と笑って答えた。

その言葉を聞いて、私は少し考えさせられた。夢を持っている人は、どんな苦労をしても乗り越えられるのだと実感した。私も安藤ユキコのように、何かに情熱を注げる存在になりたい。自分も夢を持ち、彼のように努力するべきだと思うようになった。しかし、今のままでは何も変わらない。自分の目標を見つけるために、少しずつでも動き出さなければならないと心に決めた。
< 4 / 4 >

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

最後の平社員

総文字数/10,613

その他4ページ

表紙を見る
社内恋愛

総文字数/13,610

恋愛(ラブコメ)9ページ

表紙を見る
初恋〜統合失調症

総文字数/29,289

恋愛(純愛)7ページ

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop