人生 ラン♪ラン♪ラン♪ ~妻と奏でるラヴソング~ 【新編集版】
「はい」 
 妻が書店勤めを始めて1か月が経った頃、わたしの前に本を5冊置いた。
「読んでみて」
 いきなりだったのでどうしたのかと訝ったが、それでも促されるまま1冊1冊タイトルを目で追った。
『作家を目指す人に』とか『小説の書き方』とか『小説家の日常』という作家入門書ばかりだった。
「こんなにたくさん……」
「従業員割引があるから、思い切って買っちゃった」
 社員だけでなくアルバイトも1割引きで買えるのだという。
「あなたは今まであまり小説を読んでこなかったから初歩から勉強した方がいいと思うの」
 確かにその指摘は当たっていた。
 わたしが読む本はほとんどがビジネス書で、マネジメントとかブランディングとかマーケティングの本が多かった。
 小説を読むのは年に数回あるかどうかだった。
「小説とエッセイはまったく違うから、基本的なルールを勉強しておいた方がいいと思うの。せっかくいいストーリーを考えても基本ができていないと台無しになるからね」
 それはうっすらとわかっていた。
 エッセイの延長線上で小説は書けないと思っていたので、妻のアドバイスに違和感はなかった。
 それに、妻は読書が趣味で、国内外の小説をよく読んでいたから、小説にかけてはわたしよりはるかによく知っていた。
「わたしじゃなくて君が小説を書いた方がいいかもしれないのにね」
 自分の挑戦が無謀だとわかっていたから、ちょっと気が引けた口調になった。
「そんなことないわよ。私は作家には向かないの。作家って自分を(さら)け出さなきゃいけないでしょ。私には無理なの。そんな怖いことできるはずないもの」
 読む人でいる方が気楽だと笑った。
「とにかく読んでみて。付箋も買ってきたから大事なところに貼りながら読むといいわよ」
 6色の鮮やかな付箋プラスチックを5セットも買ってくれていた。
 それを見てグッときた。
 自分にはできた妻だと心底思った。
 それでも、「ありがとう」と絞り出すように言うのが精一杯だった。


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