人生 ラン♪ラン♪ラン♪ ~妻と奏でるラヴソング~ 【新編集版】
 初めての習作の出来に満足して定時で会社を出た。
 みんなが働いている時にさっさと帰るのはちょっと気が引ける感じもするが、慣れっこになってくると、〈昼に飲むビール〉のような快感も味わえる。
〈やめられない、止まらない〉と言えばいいだろうか。

 駅のホームに立つとまだ人は少なく、乗り込んだ電車もそんなに混んでいなかった。
 これも定時退社のご褒美だ。
 しかし、頬を緩めてばかりいるわけにはいかない。
 人物観察をしなければならない。
 吊革に掴まりながら視覚と聴覚のスイッチをONにした。
 すると近くにいた若い男性と女性の話し声が聞こえてきたので、すぐに耳をそばだてた。
 
「やってられないよな、ノルマきつすぎだよ」
 彼らは営業マンのようだった。
「ほんとにね。こんな製品、誰も買わないわよ」
 どんな製品? 
 興味が湧いた。
「新製品と言ったって、前のと代わり映えしないしさ」
「そうよ。成分をちょっと変えただけだからね」
 だんだん声が大きくなってきた。
「それに、値段高くない? このシャンプー」
「高機能ってPOP付けたってこれじゃあ誰も買わないよな」
「そうよ、売れっこないわよ、この××シャンプー」
 えっ、製品名? 
 こんなところでそんなこと言っていいの? 
 しかし、唖然とするわたしに気づかない彼らは尚も大きな声で話し続けた。
「社長がなんにもわかってないのよ。部長もへらへらしてるしさ」
「どん詰まりだよな。お先真っ暗」
「あ~あ、どっか、うちの会社買収してくれないかな~」
 声を落とすことなくしゃべるので他の乗客も聞き耳を立て始めたようだった。
 他人事ながらわたしは心配になった。
 それだけでなく注意したくなった。
 だから、気づかせようと思って咳払いをして、彼らを強く睨んだ。
 しかし彼らは二人だけの世界にどっぷりと入っているようで、まったく気づく様子がなかった。
 
「実はさ、昨日、経営企画室の同期に聞いたんだけどさ」
「何?」
「□□がうちの会社狙っているらしいよ」
「うっそー」
「今のうちに株買っておこうか」
「いいかも」
 えっ、それってインサイダー情報じゃないの? 
 ヤバイよ君たち、と思った瞬間、二人が掌編の主人公に見えてきた。
 よし、二人に名前を付けて物語を紡いでいこう。
 そうだな……、
 男はインサイダー野郎だから〈(いん)西(ざい)太郎(たろう)〉でどうだろう。
 女は内部情報を悪用しようとしているから〈内部(うちべ)情子(じょうこ)〉がいいかも知れない。
 よし、そうしよう。
 となればさっそく、想像、いや、空想かな、それとも妄想? まあ、なんでもいいや、彼らの行く末に思いを巡らせよう。


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