人生 ラン♪ラン♪ラン♪ ~妻と奏でるラヴソング~ 【新編集版】
「どんな小説を書くか決めた?」
 その日の夕食後、500円のチリ産赤ワインを飲みながらチーズを食べている時、妻が突然訊いてきた。
 きちんと答えたかったが、頭を振るしかなかった。
「エンタメ風ビジネス小説にしようと思っているけど、具体的には何も思い浮かばない」
「そう……」
 それで会話は終わり、妻はリビングを出てドアを閉めた。
 多分シャワーを浴びるのだろう。
 わたしはボトルに手を伸ばして赤ワインを注ぎ足した。
 
 スワリングをして口に流し込むと、「どんな小説を書くか決めた?」という妻の声が蘇ってきた。
 そして、「そう……」というため息のような声も。
 そうなんだよね~、
 意味もない言葉が口を衝いたが、それさえも続かなかった。
 わかっているのだ、ペンネームとエンタメ風ビジネス小説とスケジュールを決めただけでは何も始められないことを。
 しかし、きっかけがつかめないことにはどうしようもないので、考えるのを止めて気分転換をするためにテレビをつけた。
 すると、画面が立ち上がった瞬間、若い女性のやかましい声が耳に飛び込んできた。
 旅番組らしく、特大のサイコロを振って?が出たと大騒ぎしているようだった。
 すぐにテレビを切った。
 一転して部屋がシーンとなった。
 そのせいか、意識の中に小説が戻ってきてしまった。
 ワインもテレビも気分転換にならず、また囚われることになった。
 しかし、今日の今日、いい考えが浮かぶはずもなく、頭から小説を追い出すための最後の手段を取ることにした。
 音楽に身を任せるのだ。
 
 では何を聴こうか、と考えたが、今の気分に合う曲は何一つ思い浮かばなかった。
 それはそうだ、こんな中途半端な気分に合う曲があるはずがない。
 それでも音楽しか身を寄せるものがないので、本棚を開けてCDを収納しているコーナーから良さそうなものを探した。
 しかし、聴きたいと思うようなものは見つからなかった。
 どれもピンとこなかった。
 CDの背表紙に右手の人差し指を当てながら探していったが、指が止まることはなかった。
 
 ところが一番端に指が辿り着いた時、目立たないグレーの背表紙から目が離せなくなった。
 そのタイトルがわたしを見つめているように感じたからだ。
『The Good Life』
 ドイツ出身のトランぺッター『ティル・ブローナー』が2016年に発表したアルバムだった。
 幸福な人生……、
 思わず呟いてそのCDを抜き出すと、髭を整えた精悍な男性がわたしを見つめていた。人生を問うような眼差しで。
 人生か……、
 その瞬間、就職してからのことが走馬灯のように蘇ってきた。
 しかし、それ以前のことは思い出さなかった。
 多分それは親の庇護のもとに生きた時間だからだろう。
 人生とは自らの意志で生きた期間であり、その意味では、自立してからのものだけがそれに当てはまるに違いないのだ。
 
 そんなことを考えながらCDをステレオにセットしてリモコンのスタートボタンを押すと、1曲目が始まった。
 タイトル曲だ。
 ミュートしたトランペットの音が聞こえてきて、すぐにドラムとベースとピアノの音が控え目に重なってきた。
 落ち着いた、ゆったりとした曲調が心地よくしみ込んでくると、またワインが飲みたくなった。
 一口含んで目を瞑り、口の中で噛むように味わうと、安いワインが上品な味に変わったような気がした。
 
 The Good Life……、
 頭の中で呟いて、ワインと共に飲み込んだ。
 豊かな人生か……、
 今度は口に出して呟いた。
 自分の人生が豊かかどうかはわからないが、結構波乱万丈だったことは間違いなかった。
 それに、色々なことを経験したことが豊かというなら、それも当てはまるかもしれない。
 サラリーマン生活の最後は嫌なことが多かったが、それでも、その期間に作家に挑戦する準備ができたし、今はなんのプレッシャーもなく充実した毎日を送れている。
 年金だけの生活だからリッチというのにはほど遠いが、決してプアーではない。
 そこそこ満足して毎日を過ごしている。
 
 人生……、
 もう一度呟いて気がついた。
 そうだ、人生だ。
 わたしが書きたいのはビジネスではなく、エンターテインメントでもなく、人生を書きたいのだ。
 すぐにメモを探して『人生小説』と書いた。
 すると、『人生二毛作』というタイトルが浮かんできた。
 それを書き加えて自室に急いだ。そして、パソコンを開いて打ち込んだ。
 
・第60回日本ビジネス小説大賞応募作品
・題名:人生二毛作
・筆名:三木幹

 1枚目が出来上がると、2枚目に『プロローグ』と打ち込んだ。
 すると、大学4年生の時のことが鮮明に蘇ってきた。
 指が自然に動き、物語が始まった。


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