人生 ラン♪ラン♪ラン♪ ~妻と奏でるラヴソング~ 【新編集版】
 仕事が終わった社員が一人二人と帰り始めた。
 それを茫然と見送っていると、隣の先輩も席を立った。
 社内は空席が目立つようになった。
 もうダメだと諦めかけた時、少し離れた席にいる女性社員が近づいてきた。
 そして、心配そうな表情で「何があったの?」と声をかけてくれた。
 
 わたしは今日あったことをすべて伝えた。
 売れなかった原因がわからないし対策が何も浮かばなくて困っていることを正直に伝えた。
 すると彼女は頷いて、自分の椅子をわたしの隣に運んできた。
 
「ただ並べているだけでは誰も見向きもしないわ。土鍋の中に入れるディスプレーも目新しくないしね。それに、おでんなんて皆同じと思っているから、各社のイチ押しを並べても興味を惹かないのよ」

 ガツンとやられてしまった。
 その上、「モノを売ろうとしてはダメなのよ」と諭された。
 しかし、彼女の言っていることがよく呑み込めなかった。
 
 モノを売らなくて何を売るんだろう? 
 
 答えに辿り着けず首を傾げていると、「私も同じ間違いをしたの。入社してすぐの頃は〈どうやって売ろうか〉とばかり考えていたわ。でもね、そう考えている間は全然売れなかったの。本当に酷かったのよ」と失敗経験を話してくれた。
 
「営業成績はいつも最下位で、上司に怒られてばかりいたわ。自信が無くなっちゃって、落ち込んで、そのうち眠れなくなって、これはもう辞めるしかないかなって」

 そんなことがあったんだ……、
 
 わたしは身につまされた。
 
「そんな時、ふらっと立ち寄った本屋さんである本を見つけたの。マーケティングの本だったわ。それにはこう書いてあったの。『あなたの仕事は誰の役に立っていますか? 誰を幸せにしていますか?』って。
 それを見て、金槌で思い切り頭を叩かれたような衝撃を覚えたの」
 
 彼女は自席の引き出しからその本を取り出して見せてくれた。
『お客様の幸せを売る営業マン』という本だった。
 彼女は愛おしそうにその本の表紙を撫でた。
 
「モノを売っちゃダメなのよ。お客様の幸せを売るのが私たちの仕事なの」

 わたしの顔を覗き込んだ。
 
「あなたのお客様は誰?」

 問われてすぐに自信満々で「わたしのお客様は消費者です。スーパーに来ている買い物客です」と即答したが、彼女は頷いてくれなかった。
 
「もっと具体的に言ってみて」

「具体的には……、え~っと、女の人……」

 わたしはしどろもどろ(・・・・・・)になりかけたが、それに構わず彼女は質問を重ねた。
 
「どんな女の人?」

「どんなって言われても……、う~ん、奥さんが多いと思います」

「そうね、結婚して夫やお子さんがいる女性が多いわよね。では、その人たちはなんのためにスーパーに買い物に来ているの?」

「それは、毎日の食事を作るために、だと思いますが……」

 食材を買い物カゴいっぱいにしてカートを押している姿が目に浮かんだ。
 
「単に食事を作るため?」

 彼女は執拗に質問を続けた。
 わたしは家族が家で食卓を囲んでいるところを思い浮かべた。
 ご飯とおかずとみそ汁がテーブルに並んで、おいしそうに食べていた。
 
「そうか、おいしい料理を家族に食べてもらうためです」

 今度は正解だと思った。
 しかし、またしても彼女は首を振った。
 
「それだけ?」

「えっ、それだけって……」

 これ以上は何も思い浮かばなかったが、彼女からは予想外の言葉が返ってきた。
 
「彼女たちが作っているのは、単なる食事ではないのよ」

「えっ?」

「彼女たちはね、愛情を作っているのよ」

「愛情、ですか?」

「そう。彼女たちは夫や子供の体のことをいつも考えているのよ。夫が肥満気味だったらカロリーの低いものを、便秘気味だったら食物繊維の多い料理を、とかね。それから、好き嫌いの激しい子供には嫌いなものをどうやって食べさせようかと考えながら料理を作っているの。そして、毎日毎日、肉と魚と野菜のバランスに頭を悩ませているの。栄養が偏らないようにするためにね」

 母の料理を思い出した。
 すると、魚と野菜が大嫌いだったわたしになんとか食べさせようと苦労していた姿が浮かんできた。
 
「結婚した女性は家族の健康を最優先に考えて、尚且つ、おいしい料理を作ろうとしているの。わかる?」

 はい、多分……、
 
「だからね、体に良い食材をおいしく料理できる提案をしてあげないといけないのよ」

 その後、先輩は具体的な売場提案を一緒に考えてくれ、売場につけるPOPやイラストまで一緒に作成してくれた。


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