人生 ラン♪ラン♪ラン♪ ~妻と奏でるラヴソング~ 【新編集版】
 妻が戻ってきて席に着いたので二つのグラスに注ぐと、妻は「乾杯」と言ってグラスを掲げて、わたしのグラスに軽く当てた。
 わたしは妻がグラスを口に持って行くのをただ見つめていた。
「何かの記念日だっけ?」
 しかし、声は返ってこず、首を横に振られただけだった。
「じゃあ、なんで……」
 狐につままれたような気分だったが、そんなわたしの様子がおかしかったのか、妻が口角を上げた。
「たまにはいいんじゃない」
 さあ飲んで、というようにもう一度わたしのグラスに軽く当てた。
 それ以上追及してもまともな答えは返ってこないようなので、仕方なくわたしもグラスに口をつけた。

 サラダとカプレーゼを食べ終わると、「ワイングラスを用意して」と言い残して、妻は次の料理の準備を始めた。
 わたしは言われるまま食器棚からワイングラスを二つ取り出してテーブルに置いてから、冷蔵庫の扉を開けた。
 しかしそこにはいつもの赤ワインだけでなくもう1本赤ワインが入っていた。
 それは、年金生活に入る前によく飲んでいたフランス産のワインだった。
 値段は800円。
 いつも飲んでいるワインの1.6倍。
 まじまじとラベルを見てしまった。
 
「どうしたの、これ?」
 妻は直接答えず、「栓を開けといて」と言ってフライパンに視線を落とした。
 わたしは食器棚からソムリエナイフを取り出したが、じっと見入ってしまった。
 これを手に持つのは久し振りだった。
 いつも飲むワインはスクリューキャップなので、(ひね)って開けるだけなのだ。
 それは簡単で楽だったが、いつも物足りなさを感じていた。
 ワインには儀式が必要だと思っていたからだ。
 ソムリエナイフで開ける儀式が。
 
 背筋を伸ばしてソムリエナイフに一礼をし、手に取ってキャップシールに切れ目を入れ、シールを丁寧に剥がしてからコルクにスクリューを刺して、突き破らないように回してねじ込んだ。
 それから支点部分をボトルの口に引っ掛けてテコの原理でコルクを引き上げると、きれいに抜けた。
 最後にティッシュで口の内側を拭ってからソムリエナイフをテーブルに置いて一礼すると、完璧に儀式が終わった。
 
 グラスに注ぎ入れてスワリングすると、カベルネソーヴィニヨンの甘い香りが漂ってきた。
 久し振りの懐かしい香りだった。
 思わず頬が緩んだ。
 妻のグラスもスワリングして料理が運ばれてくるのを待った。


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