人生 ラン♪ラン♪ラン♪ ~妻と奏でるラヴソング~ 【新編集版】
 妻が運んできたのはわたしの大好物だった。
 フィレステーキ。
 リタイア以来一度も口にしたことのないご馳走だった。
 妻はフォークとナイフを皿の両脇に置き、「召し上がれ」と 右の掌を皿の方に動かしてから台所へ戻った。
 
 本当は妻を待つのが礼儀だが、待ちきれなくてナイフを入れた。
 スーっと切れた。
 上等な肉のようだった。
 口に入れると、塩と胡椒の塩梅が最高だった。
 それに柔らかくてあっという間に口の中から消えた。またまた頬が緩んだ。

 少しして妻が自分の肉を運んできて椅子に座った。
「乾杯」
 今度はわたしが発声してグラスを合わせた。
 口に含むと、ふくよかな味が広がった。
 これだよ、これ!
 間違いなく恵比寿さん顔になっていたと思う。
 噛みしめるようにして飲み込んだ。
「やっぱり合うわね」
 肉のあとワインを口に含んだ妻が顔を綻ばせた。
 幸せそうな表情だった。
「よく覚えていたね」
 ボトルのラベルを妻の方に向けて指差した。
「あなたがよく飲んでいたからね」
 当然、というように笑った。
 そのさり気なさにちょっと感動した。
 自分の好みを覚えてくれていたのが嬉しかった。
 しかしよく考えてみれば、今日に限ったことではなかった。
 いつものことだった。
 常にわたしの好みを覚えていて、さり気なく喜ばせてくれていたのだ。
 それが自然に行われていたので特に感激することもなかったが、改めて考えてみると、それは普通ではないと思えた。
 何故なら、わたしは妻が好むものを何も知らないからだ。
 好きな食べ物、好きなスイーツ、好きな花、好きなブランド、好きな映画、好きなドラマ、好きな俳優、好きな歌手……、
 何も思い浮かばない。
 聞いたことはあるかもしれないが、覚えているものはなかった。
 改めてガッカリしたが、これかもしれないとふと思った。
 妻が離婚を考えた原因だ。
 自分が大切にされていないということに耐えられなくなったに違いない。
 多分、そうだろう。
 逆の立場だったらわたしも耐えられない。


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