しっかりした期待の新人が来たと思えば、甘えたがりの犬に求婚された件

三章 抱いた気持ち

(1)

 久世の配属から二ヶ月が経ち、以前私が担当していたクライアントの引き続きも終わり、久世自身が獲得してきた新規企業への訪問も順調に見られるようになった。提案や成約に至るペースもすでに新人とは思えないものがあり、とはいえキーマンとの商談や詰めの打ち合わせの際など必要な場面では抜かりなく私の同行を求める。忙しいとどうにも疎かになりがちな訪問内容をしたためる日報も、久世は欠かすことなく提出していた。

 マジで仕事出来てマジで助かる。
 この頃ともなると、私は素直にそれを認め彼が出来るところは任せて、彼の指導やサポートに割いていた時間を減らしていた他のメンバーへのフォローと自分自身の営業活動に充てるようになった。

「寂しいです」

 と、ストレートに不満を訴えてきた久世には、週に一度どこかで必ずランチを一緒にして話をする時間を設けることを提案するとあっさり解消された。これはもちろん業務に必要なことで、トータル削られた時間はランチ一回と比べるまでもないはずだが、納得してもらえたのなら言うことはない。
 
 けれど──。
 久世自身は出来るやつでも、周りはそうとは限らない。これまで彼を巡って起きたトラブルの原因を忘れていた私が愚かだったのだ。

「は? 日程間違えてた?」

 私から久世に引き継いで担当変更となった電子機器メーカーは、久世の担当しているクライアントの中でも取引額がかなり大きな重要顧客という位置づけだった。私が長らく担当していたが、信頼関係も良好でうちの親会社も経営面でのコンサルティングで深い関わりがあるから、そうそう落ちるような心配もない。
 先方にはチーム体制の強化と告げ、窓口を久世として、後ろに下がった私も関与しながら緩やかな移行を目指すことにしたのである。

 慎重になるにはわけがあった。
 向こうの担当者と私の折り合いがぶっちゃけよろしくない。先方の窓口であり意思決定のキーマンでもある剣持氏は、身なりが良くて高級スーツに高級時計と高そうな靴で常に身を固める仕事の出来そうな御仁だが、かなりの女好きのようで、登場してきた二年ほど前から私をやたらとプライベートに誘ってくる。こちらとしてもなるべく独りで打ち合わせにいかない、谷原さんを出す、携帯端末の番号を教えないといった対策は取ったものの攻勢は止まず、取引内容も複雑だったためにおいそれと誰かに引き継ぐことも出来ずにいた。

 あまりにしつこいから、一度だけ彼の前任で私と仲の良かった女性担当者も一緒ならと食事に応じたものの、それをきっかけに冗長させてしまった。気があって個人的も連絡を取り合うようになった女性担当者からは「羽多野さんマジでタゲられてます、気をつけて」と言われ、ありがたくも彼女が社内で色々とカバーに動いてくれていたが、その彼女もこの春から産休に入ったために、私もいよいよ担当としては手を引くことを考えたのだ。

 統括の谷原さんもこの件には賛成で、どうせなら久世にどうだと言ってくれ、他のチームに託すよりは確かにいいと私も判断した。久世なら取引内容もきちと把握してとり回せるし、社内の関係調整も問題なさそうで、ついでに剣持相手にも堂々として引けを取らない。

 この時期、先方社内ではうちの講師が出張って管理職向けの研修をいくつか行うことが通例となっている。内容は例年通りとあって、顔なじみの講師も同席だからとこの一連の打ち合わせに私は参加しなかった。やり取りのメールには全てCCで入って目を通していたし、久世の報告にも問題はなく、講師の田仲先生からも「久世くん、かなり優秀ね」とお墨付きをもらった。
 先週、ひとつ目の研修が恙無く終了し、私は完全に油断していた。

「剣持さんが、明後日予定のコーチング研修を明日の日付で告知してたそうで、内容も昨年と一緒では了承出来ないから変えて欲しいと──」

 剣持から久世宛に届いたというメールを私は見ていない。
 野本さん担当のクライアント事由で起きたトラブルのカバーで、私は昨日から福岡と大阪に飛んでおり、久世にも名古屋に向かってもらってなんとか解決し、共に先ほどオフィスに戻ったばかりだ。こっちで出来る限り奔走してくれた野本さんと解決を喜ぶ間もなく、久世からもたらされたその報告に、私は一瞬頭が白くなった。時刻はすでに昼を過ぎている。

「やられた……これだけ細かいやり取りしておいて、あの人がそんな凡ミスするわけない。私を宛先に入れてないのもわざとでしょ」

 すぐさま久世から剣持に電話をさせると、向こうはいくらもしないうちに私に代わるよう言ってきた。

「お電話代わりました、羽多野です。剣持さん、これはどういう」
『羽多野さん、本当に申し訳ない。完全に私のミスです。部下が社内へ伝達する際にコーチングの日程だけ誤って伝わってしまっていたようで、なんとお詫びしたらいいか』

 過剰なほどの取り乱した口調で剣持は謝罪を口にした。

「恐縮ですが、ご参加予定の方に、予定通りの日程に変更する旨のご連絡をしていただくわけにはいきませんか?」
『今となってそれは難しい。遠方の支社から参加される方も複数名いて、すでに前泊の手配もして頂いている。それを前日になって今更一日後ろに倒してもらうことがどういう混乱と損益を産むか、羽多野さんなら汲んでくださるはずだ』
「……であれば、せめてプログラムは例年通りそのままということには?」
『メールにも書きましたが昨年振り返りをした際、色々とブラッシュアップしたい点をお話したじゃないですか。明日は弊社の人事部長も見学にくる予定なんです。去年、ご挨拶させて頂きましたよね。部長も御社には期待と信頼を寄せている。それなのに毎年同じ内容では能がないと思われてしまうでしょう。プログラムの改定費用なら予算を調整して用意出来ましたから、できる限り間に合わせてください』
「ですが、明日となると」
『久世さんにも改定の件は伝えていましたよ。曖昧な言い方になってしまったかもしれないが、確認が漏れたのは彼の落ち度でしょう。彼とはどうも意思疎通がスムーズにいかないようだ。新人のくせに羽多野さんを打ち合わせに同席させないというのは自分の能力を過信されているのでは?』
「打ち合わせには講師の田仲が同席しております」
『もちろん、田仲先生のことは頼りにしています。でも実務面を取りまわすのは彼なんですよね? あまりにも素敵な方だ。先日研修にいらした際は弊社内でちょっとした騒ぎになりましてね。おそらく明日の見学者も多くなるでしょう。弊社の業務や研修運営に支障が出るようなら、契約継続に当たっては担当をまた羽多野さんに戻して頂くことを要求しますよ。私はあなたのことは信用していますから、個人的にも』
「……一時間だけ時間をください。明日の実施が可能なよう社内調整のうえ、改めてご連絡申し上げます」

 電話を切り、ため息と共に両手で顔を覆って目頭を抑える。そうでもしないと舌打ちをこぼしそうだった。

「羽多野さん……すみません、僕が」
「ダメ。断じて久世のせいじゃないから謝る必要はない。むしろ──私のせいだよ。去年の実施した後、確かにいくつかブラッシュアップしたいみたいな議論をした」
「それは引き継ぎのメモにありましたから僕も承知してますし、打ち合わせの時に話もしました。でも、プログラム改定に費用がかかるなら今年は見送ると剣持さんは言ってて、講師の田仲先生だってそれは聞いていたはずです」
「向こうとしては、部長の手前やらなきゃいけないって流れにしたいんでしょ。何が曖昧な言い方になってしまったかも、だ。予算さえ都合がつけばすぐにでもとか、必ずやりたいみたいなことボヤいてなかった?」
「……それは、確かにそういう独り言みたいなことは言ってた気が」
「私が打ち合わせに来ないことについてはなんか言ってた?」
「はい……毎回、羽多野さんがいないことネチネチ言って。羽多野さんとは個人的な付き合いもあるのに、とか。田仲先生がうまくいなしてくださっていて、訪問記録には必要ない部分だと判断して記載していませんでした」
「判断としては正しいし、聞きたくもないことだけど。向こうがヤバイこと言ってるっていうのは都度報告してほしい。こっちから担当変更を求める切り札になるから」
「すみません」

 陰険クソ野郎め。
 忌々しい顔つきが思い起こされるが、そんなことをしている場合ではない。

「羽多野さん……」
「田仲先生って、明日まで仙台だよね」
「はい」

 社内の管理ツールで他に講師として宛に出来そうな人がいないかスケジュールを確認したが、都合がつきそうでしかも今から内容変更に耐えられそうな人は残念ながら見当たらない。

「……久世、明日の予定は?」
「午前中に一件、訪問があって、他は資料作成と研修の準備に宛てる予定でした」
「悪いけど、その訪問リスケして。私も空ける」

 明日は野本さんと水野くんの案件に同行の予定だった。彼らに目を向ければ、ふたりともすぐに「ひとりで行けます」と頷いてくれる。

「ありがとう。──久世」
「はい!」
「明日の研修は私たちでやる。上等でしょう。向こうの凡ミスはこっちのチャンス。上手いことやって、この先三年の契約くらいは約束してもらおうじゃあねぇの」
「はい! え、でも、講師は?」
「ここにいますよ」言って私は自分の胸を示す。「何年この仕事やってると思ってんだ、──任せな」

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