しっかりした期待の新人が来たと思えば、甘えたがりの犬に求婚された件

 玄関のドアを開けると、喜田川は手にした紙袋を軽く掲げて見せた。

「よっ、急に来て悪かったな。ちょっとは寝たのか?」
「あ、うんまぁ……仮眠したところ」
「おまえの眼鏡久しぶりに見たわ。というか、ほれ。これ。差し入れ」

 差し出された袋を受け取ると、中に白い箱が覗く。

「ありがとう、でもなんで」
「なんでって、この数日ずっとチームのために頑張ってただろ。だから、ただのお疲れさーんてだけの気持ち? それ、ケーキな、なんか旨いって聞いた」
「でも、昨日も夕飯差し入れてもらったし」
「俺がやりたくて勝手にやってんだよ。人の厚意は素直に受け取れ。そして倍にして返せ」
「……ありがとう」

 目を上げれば喜田川は何か言いたげな顔をして私を見つめていた。
 喜田川にはこのマンションに引っ越すとき、家電の入れ替えを手伝ってもらったことがあった。掃除機や洗濯機を選んでもらって、設置の時も女ひとりの家に業者を入れるなというから、ここには何度か来たことがある。以前ならともかく、いまここで愛想よく「差し入れとか気が利くじゃん、ありがとーよかったらお茶でも飲んでく?」などと言うことは絶対にできない。

 なぜなら部屋には久世がいるのだ。

「あの……さ、真咲」
「は、はい」
「……トイレ、貸してくんね?」
「へっ」

 うちの玄関は、リビングにつながる廊下に対して直角であって、踏み込んだところで奥は見えない。だけどトイレを貸せば、キッチンもダイニングもそれに続くリビングも丸見えで、ついでにベッドに座って息を殺しているであろう久世も丸見えになる。
 というか、隠すような時間がなくて、すぐそこの廊下の角に久世の革靴をおいているのだから、正直玄関に上がり込まれただけでアウトな気がする!

「もしかして、誰かいる?」

 ひぃい鋭いぃ。

「おまえ、彼氏いたっけ?」
「あ、あのぉ……」

 どう切り抜けるべきか。いっそ久世を紹介する!? でもそんなことしたら、喜田川のことだからまんまと引っ掛かってんじゃねぇかバカたれとか、言わんこっちゃねぇなこの雑魚が、とならないか? なるよな。

「じ、実は」
「真咲さんは、彼氏いますよ。俺がなりました」

 背後に現れた気配に驚いて振り返ると、久世がそこに立っていた。

「久世……? マジ?」
「はい。まじです」

 喜田川の驚愕の視線に私がかくかく頷いた途端、喜田川は私を押しのけ、いきなり久世に掴みかかった。

「えっ、ちょっと喜田川!」
「てめぇ! ふざけんなよ、真咲の立場わかってんだろ!」

 久世はただ静かに胸倉を掴む喜田川の手を取って押し戻すと、「わかってます」と低く言う。

「わかってても、抑えられない気持ちがあったんです」
「おまえみたいなのとどうのこうのあって、後ろ指差されるんのは真咲なんだぞ!」
「ちょ、ちょっと! いい加減にしてよ、近所迷惑!」

 喜田川を中に押し込め慌ててドアを閉める。

「喜田川さんの言いたいことはわかります。会社ではこれまで通りに上司と部下で振る舞うつもりでした。ただ、このタイミングで喜田川さんにバレると思わなかっただけで……」

 ほんとそれな、である。

「だいたい、喜田川が怒って久世に食って掛かるのは筋が違うでしょ。私だって自分の立場はちゃんとわかってるよ。久世は部下だし、久世のことを思えば気持ちを自覚しても隠しておかなきゃいけなかったと思う。自制しなきゃいけなかったのは私。でも、もうしょうがないじゃん、引き返せないくらい好きになっちゃったんだから!」
「──ッ! おまえは、谷原さんに惚れてたんじゃねぇのかよ!」
「はぁ!? 何勝手なこと言ってんの。惚れてはない! 密かに憧れんのと恋人になりたいと思うのは違うでしょ!」 
「わけがわかんねぇ! 結局顔ってことか!」
「誰も彼も久世を見れば顔顔うるせぇな! 久世の中身を見ろ! そしてひれ伏せ!」
「顔も中身もよかったら俺に勝ち目がねぇだろうが!」
「世界で一番いい男なんだから当然だろ!」
「真咲さん、真咲さん落ち着いて。十分だから」

 久世は喜田川から私を引き離すと、怒れる私の肩を抱いた。

「喜田川さん、横から攫われてから後悔しても遅いって俺は言ったはずですよ」
「うるせぇ! 後悔しねぇようにこうしてノコノコ来たんだろうが! とっぽ出のおまえが手ぇ出すのが早すぎんだよ!」
「いやもう、それについてはほんとこれからってタイミングだったんですけど……」
「ああ!?」
「ともかく、真咲さんのこと傷つけるようなマネは絶対にしないと誓います。誰にも文句言わせないように、仕事のうえでも実力を付けます。ですから、いまは俺たちのことを見守ってください」

 久世の言葉を前に喜田川は苦いものを無理やり飲み込んだようだった。

「あの……、別に喜田川に許可とるようなことしなくてもよくない? 親でも何でもないんだし」
「あれ、真咲さん本当に自覚なかったんですね」
「え?」
「喜田川さん、真咲さんのことずっと好きだったみたいだから。とっぽ出は、同期のよしみとやらに一応の敬意を表しているんです」

 視線を喜田川に向けると、喜田川は赤らんだ顔で唇をかみしめていた。

「……そ、れは、ちっとも存じ上げませんで」
「……何も言ってねぇんだから、わかるわけねぇだろ。チクショウ」

 ややあって「邪魔した。帰る」と言った喜田川を呼び止めたのは他でもなく久世だった。

「俺も行きます。着替えてくるから少しだけ待ってください」
「は?」
 
 言われた喜田川は顔をしかめ、私はといえば驚いて目を丸くした。

「え、久世、帰るの?」
「そりゃ名残惜しいですけど、男同士話したいこともあるから」
「おまえと話したいことなんかねぇよ!」
「俺はあります」

 慌ただしく着替えた久世はジャケットと鞄を手にすぐに戻ってきた。

「Tシャツ借りてていいですか」
「うん、それは別に」
「続きは今度、必ず。真咲さんはよく休んで」

 手を振って、軽く目を細めてほほ笑んで、喜田川を掴んだまま久世は玄関を出ていった。急に静かになった室内にただ茫然とし、手にしたままになっていたケーキの紙袋に目を落とす。私はようやく空腹を思い出した。

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