しっかりした期待の新人が来たと思えば、甘えたがりの犬に求婚された件

「水野くん! お願い! 私のこと、離さないで!」

 飛び石のように配置された丸太は不安定に揺れ、頼りない縄に縋りながら私は恐怖に足が竦んでいた。
 ヘルメットとハーネス、加えて足元にはネットが張り巡らされ安全は保証されているというのに、わずか三メートルにも満たないはずの高さがあまりにも恐ろしい。
 一列に並びグループごとにアスレチックに挑戦する中、前を行く水野くんと私は、互いにバランスを崩した瞬間ファイト一発よろしく手を取りあった。だが、取りあったはいいものの、そこから一歩も動けなくなったのだ。

「す、すみません、羽多野さん……」
「いや! いやいやいや! どうか! どうかお願いします手を離そうとしないで、ね、水野くん頼むから」
「すみません……ぼくに、羽多野さんは手に負えません」
「そういうことじゃないんだ、共に支え合おう! 水野くん!」

 水野くんは両手でロープを握りたい。それは理解出来る。でもこの手を放されたら私はバランスを崩してネットに落ちるのが目に見えていた。

「こういうの苦手だったんだね、羽多野」
「後ろつっかえてるから早く進んで」
「頑張ってくださーい」

 背後のメンバーから口々に野次が飛び、水野くんにはインストラクターの助けが前方から来ている。恐る恐る下方に目を向ければ、騒ぎを聞きつけ集まった他のグループの中に、固唾をのんでこちらを見守る久世の姿があった。がんばって、と久世が口の形で伝えてくれるその横で喜田川が腹を抱えて笑っている。

「み、水野くん! た、助けて……」
「む、むりです……」
「無理じゃない! 水野ならできる! いいこだから!」
「はーい、では安全のため、おひとりずつサポートしますねぇ。落ちちゃっても大丈夫ですよ」

 水野をひょいと支えた溌剌としたインストラクターのお姉さんは、溌剌として無慈悲だった。

「裏切ったな、水野ぉお!」
「申し訳ありませぇえん!」

 雑魚同然の断末魔と共にハーネスのおかげでネットの上に地味に落ちた私は、全グループの笑いものとなり心の傷と筋肉痛を負った。



「いてて……」
「大丈夫ですか?」
「うん、まぁ……腰が」

 レクレーションが終了し、宿泊先となったホテルのロビーに到着したところで、久世は心配そうに私の顔を覗き込む。大したことはないと言えば、いまだにツボって仕方ないらしい喜田川が堪えきれずにまた噴き出した。

「日ごろの運動不足が祟ったな。あぁマジでくっそ面白かった、一生笑える」
「喜田川ァ……!」
「悪い悪い、おまえのあんまりな姿に、久世と助けに行ってやりてぇなって言ってたんだ。ぶふぅッ」
「覚えとけよ、あんたがピンチになっても絶対に助けないから!」
「僕はほんと、助けに行きたかったです」
「久世は素直にありがとうだよ」
「羽多野さん──」

 声を掛けられ振り返れば、水野くんが深々頭を下げていた。

「この度は本当に申し訳ありませんでした。今後、このようなことがないように、体を鍛えようと思います」
「あ、いや、謝ることないよ。このようなことはそうあることじゃないし、むしろ私のほうこそ巻き込んでごめんね。安全第一なので、今後とも自分の身を優先にしていいから」
「でも、羽多野さんからの日ごろのサポートを、酷い形で裏切ってしまい……」
「水野くんはちゃんと仕事してくれてるから裏切ってない。動揺して変な言い方してごめんね。というわけで、これで終わりにしよう」
「……はい」

 肩を落とす水野くんを喜田川が豪快に励ます後ろ姿に人知れず息をこぼしたところで、ふと久世と目があった。

「本当に大丈夫ですか? どこか痛めてたりとか」
「平気。お風呂入って解しておく」
「一緒に入れたらマッサージしてあげられるのに」

 密やかな声にうなじがぞくりとする。

「マッサージじゃ済まないでしょ」
「それはそうですね」

 満足そうに笑った久世を前に、顔が熱くなるのは堪えようがなかった。

「あぁっ、いたいた!」

 耳に届いた高い声にそろって顔をあげると、相田さんが駆けてくるところだった。

「もう久世さんたらすぐいなくなるんだから。一緒にいきましょって言ったじゃないですか」
「そうでしたか、水野さんと話していたので聞こえなかったんだと思います」
「とかいって、一緒にいるの羽多野さんじゃん」

 急に落ちた彼女のトーンに驚いていると、相田さんはくるりと表情を変えた。

「さっきは大変でしたねぇ、羽多野さん。大丈夫でしたかぁ?」
「大丈夫。ほんとお見苦しいところを……」
「初心者コースってだったのにきつかったですよねぇ。私もたくさん久世さんに助けてもらっちゃいました」

 相田さんは久世と同じグループだったが、目にした限り、確かにしょっちゅうよろけては久世にぶつかっていた。

「優しくしてくれて、ありがとうございました。久世さん」
「とんでもない。むしろ、ほとんど受け止めきれてなくてすみませんでした」

 からりとした爽やかな笑顔で久世は言う。
 初めから警戒をしていたのか、あるいはこういった場面に慣れていたのか、久世は容赦なく突撃してくる相田さんを抱えて支えるといったことはせず、軽く腕を取るか手を出さず体幹で受け止めるかしていなしていた。うっかり参加したらしいシステム部の担当役員が転びかけたときには身を挺して助け、五十を過ぎたおじさんをトキメキで溺れさせたそうだから、相田さんのことは意図的なのだろう。

「ほんとそうですよぉ。もっとしっかり抱きしめてくれてもいいんですからね」
「そんな。世間一般の常識として女性社員の方との距離感は慎重になるべきですし、羽多野さんからもそういう指導を受けていますので」
「へぇ」

 相田さんはくりくりとした大きな目元で私をじっと見据えた。

「そうなんですか。自分はこんなに近いのに、案外ズルいんですね。羽多野さんて」

 ──はい?

「さすがにその言い方はないんじゃないですか、相田さん」

 冷たく響いた久世の声にぎょっとして制する。
 私は努めて冷静を装って、

「私、一応彼の監督責任があって。とはいえ、こういう誤解を生むのはいけませんよね。気を付けます。ありがとう」

 と言い切った。

「てなわけで、久世もよろしく」
「わかりました……」

 久世は何か言いたげな様子を飲み込んで、割り振られた部屋へと向かって行った。

「久世さんて怒ることあるんですねぇ、びっくり。でもああいう怖い顔もいいかも」

何の因果か、私は相田さんと同室だ。

「羽多野さんにだけ打ち明けますけど、あたし、彼のこと本気で狙ってるんです。羽多野さんが彼のそばにいるからみんな遠慮してますけど、あたしは違います」

付き合ってないんですよね? と相田さんは華奢な首を傾げた。

「なんでこの質問だけだんまりなのかなぁ。恋愛は自由ですけど一応会社の中ですし、付き合うのが久世さんの立場にマイナスってなるなら、あたしを切ってもらって全然構わないですよ。羽多野さんと違って、あたしただの派遣なんで」
「相田さんもチームにとって重要な存在ですよ」
「またまたぁ。久世さん、羽多野さんには気を許してるみたいだから、あたしたち仲良くしましょ」

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