しっかりした期待の新人が来たと思えば、甘えたがりの犬に求婚された件

六章 ヤバい男現る

(1)

 週に一度、営業一課と二課のチームリーダー七名と統括マネージャーの谷原さんとで、各チームの進捗報告のミーティングが行われている。

「──では本日は以上。長くなって悪かったな。羽多野、ちょっといいか」

 終了と同時に谷原さんから声をかけられ、少し離れた席で手帳やタブレットをまとめていた私は顔を上げた。先日の箱根の件が一瞬脳裏を過ぎってどきりとしたものの、「野本のことなんだが」と切り出されると知らず握りしめていた手が緩む。

「はい、野本さんですか」

 近くの椅子を勧められ座り直したところで、知らん顔で座席を整えている喜田川を横目で窺いながら谷原さんは口を開いた。

「もう少し彼の行動量上げられないか? 彼が努力してゆっくりでもペースを上げているのは、羽多野の報告からも日頃の様子からもわかっている。ただ、久世の活躍が目立つぶんチーム内での野本との差異が際立っていて、先週の経営会議で槍玉に挙げられてね。俺から担当する規模の違いや彼の特徴については何度も話をしているんだが」
「すみません、庇いだてしていただいて」
「それも俺の仕事だよ」
「それでも、ありがとうございます。野本さんですが、本人からの提案で第二クオーター中に活動ペースの二〇パー増加を目標にしています。ただご家庭と本人の希望として、残業をできるだけしない現在のスタイルは継続していくつもりなので、いっそ提案内容は手離れのいいシンプルな商材に絞って活動してはどうかと相談していて」
「ああ、それはいいかもしれない。──悪い、少し待ってもらえるか?」

 言って谷原さんは、部屋の隅で腕を組んで立っていた喜田川に目を向けた。

「どっちに用だ」

 すると喜田川はおどけた仕草でこちらを示す。

「私?」
「うちのチーム来週忙しくなりそうだから、あいあいの業務調整させてほしい。喜田川、ここで大人しく順番待ってまァす」
「喜田川」

 谷原さんは黙って部屋の外を示す。喜田川が渋々部屋を後にすると、谷原さんは苦く笑いながら深い息をこぼした。

「相変わらず警戒されているな」
「警戒?」
「昔からそうだ。鼻が利くんだろう。途中になってすまなかった。それで?」
「あ──、野本さんの場合、売上げに直接繋がらなくても、クライアントとの関係構築を重視してきました。そのおかげで信頼はありますから、成約の確度が高いと思います」
「なるほど。彼、少額クライアントが多いけど、規模の拡大はやはり難しいかな」

 谷原さんは長い脚で座り直して私に少し椅子を近づけると、細かな数字が並ぶ営業資料に目を落とした。

「いくつか深入りできそうな話は掴んでいます。提案内容が複雑化する場合は、水野くんがフォローに入る予定です」
「水野が?」
「久世の影響で、水野くんもクライアントとの関係構築に以前よりも積極的になっているんです。スクリプトにないやりとりでも、果敢に挑戦しているようで」
「そうか。それで今週の活動内容が違ってみえたか」

 小さな成果でまだ目に見える数字には現れていない。だが、そんな水野くんの努力を谷原さんの目に止まっていたことは、素直に嬉しかった。

「彼なりに頑張っているんですよ」
 
 自慢げだったのが顔に出ていただろうか。谷原さんは切れ長の目元を柔らかく和ませると頬杖をついて私を覗き込んだ。

「いい顔をする。久世が羨ましいな」
 
 気づいた時にはテーブルの上に置いていた手に、大きな手を重ねられていた。咄嗟に引こうとすると強く手首を掴まれた。

「た、谷原さん」
「何?」
「何じゃなく、あの、放してください!」
「騒がないなら放す。少し話をしたいだけだよ」

 手を掴まれた程度で騒ぎ立てたとしても悪手に思えた。現に先程までは仕事の話をしていたのだから。緊張のまま頷けば、谷原さんは力を緩めたものの、私の手首をとったまま親指の腹で優しく肌を撫でた。全身がぞわと粟立つ。

「やめて、ください……」
「細い指だな。かわいらしく震えている」

 手の形をなぞる彼の節くれだつ長い指が離れた瞬間、私は胸の前で自分の手を抱え込んだ。

「田仲先生から聞かなかったか? 別れた理由。気になる存在ができて、アプローチするなら身綺麗なほうがいいだろうと思った。あっさり別れられるかと思っていたんだが、存外彼女がゴネてね。この間の精算旅行に付き合わされてしまった」

 伏せられていた目が男の色をしてゆっくりと確実に射殺すように私を見やる。

「もちろん、気になる存在というのは羽多野だよ」
「──久世と、付き合っているからですか。人のものを奪うのが好きだ、と……」
「悪癖というか、昔から本気になるスイッチみたいなものではある。羽多野は前から魅力的だったよ。入社したときから綺麗で目を惹いた。勝気で努力家、震える足を隠していつでも強気な態度をとる。支えてやりたくなると同時に崩してやりたくもなった。君が俺に好意を寄せながらも、あくまでも胸の奥に秘めておこうとする姿はとてもいじらしかったな。目の奥を覗き込むと、その日一日俺のことを考えていたよね」
「若気の至りです」
「ひと回り以上年は違うし、ただでさえ贔屓目に見ているのに直属の部下に手を出すのはさすがにマズイと思っていた。ただ、君が人のものになったと聞いて、惜しくなった。いつの間にか距離をおかれて、俺に向いていたはずの気持ちもなくなったみたいだから。入ってしまったわけだ。スイッチ──」

 ──こんなおっかない男に目を付けられたお相手はご愁傷様だわ。

 田仲先生の呆れたような、そんな言葉を思い出す。
 この人は、おそらく根っからのハンター気質で、獲物と定めた相手を追い込んで狩ることに快感と執着を覚えるタイプだ。
これまでずっと、他の部下にはない、まるで誘いをかけるような距離の近さを感じてはいた。ただ、谷原さんは女性にはおしなべて優しくて、色気で殴ってくる印象があったから、勘違いしないようにしてきたし、交わす会話は実際仕事のことばかりで、久世を想うようになってからは私自身が谷原さんへ抱いていた憧れに一定の距離を保つようにしていた。
 でもきっと、それが彼の異様な熱に拍車をかけた。

「──そのようなことをおっしゃられても、困ります」
「だろうね。困らせたい」
「谷原さんのことは尊敬しています。私のことを気にかけて、育ててくださったのは谷原さんですから。ですが、それ以上のことは思ってもいなければ、望んでもいません」
「相変わらず堅いな」
「ここはビジネスの場だとおっしゃったのは谷原さんのほうでしょ。からかうのも大概にしてください! 私、彼と結婚を考えています」
「なら俺も積極的にいかないと」
「話を聞いてください」
「羽多野。これも君と久世が共にいることを妬んで飛んでくるやっかみのひとつだ。蹴散らしてくれるんだろう?」
これは、怪しく、美しい笑みを浮かべる谷原さんからの、事実上の宣戦布告だった。

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