しっかりした期待の新人が来たと思えば、甘えたがりの犬に求婚された件
──ヤバいことになった……。
谷原さんのことは、即刻、人気のない場所に呼び出した久世に報告した。
「あの人の真咲さんを見る目が怪しかったので、正直そんな気はしてました。社員旅行のときもそうで、絶対狙ってると思ったから喜田川さんと阻止に行ったんです」
と、うんざりした様子で久世は告げた。
「とにかく、谷原さんとふたりきりにならないようにしてください。あの手の人に効果あるかわかりませんけど、俺も直接話しておきます。あ、会社の行き帰りもできるだけ俺と。難しければ喜田川さんにも協力してもらいましょう」
「わかった。……なんか、ごめ」
言い終わる前に久世の指が口を塞いだ。
「謝らない。むしろ、すぐに教えてくれて助かりました。真咲さん、武士みたいなところあって、こういうの自分だけで抱え込みそうだなって思ってたから」
「武士……?」
「言われたことありません?」
何故こいつはさも意外みたいな顔をするのか。
「武士はわからんけど、確かに些細なことなら気にするまでもないと思ってた。取るに足らない手合いが面倒なこと言ってくるようなら、その場で切って捨て──これが武士か……」
「はい」
「今回は相手が悪すぎるでしょ……。堂々としすぎてて、どんな手使ってくるかもわからない。谷原さんが、あんな倫理観終わってる人だとは思わなかった」
「真咲さん」潜めた声は力強く呼びかける。「俺が守ります。真咲さんは誰にも渡しません」
「……頼りにしてるよ、航汰」
「はい。まずもって俺たちが進めること、真咲さんわかりますか?」
「入籍」
「それ。第一ステップとして、真咲さんのご両親に了解をとりましょう」
頷きあった私たちは右腕を交差させて軽くぶつけると、次いで左手をがっしり合わせて握りしめた。
「……あの。俺、これ好きではあるんですけど、こういう時って抱きしめあったりキスするものなのでは?」
「ここは会社です」
「あ、はい……」
*
谷原さんとはふたりきりになる状況を極力避ける。拒絶を伝えようが久世が睨みつけようが少しも響くことのない倫理観の死んだヤバい男には、喜田川にも協力を仰いだものの、当座のところそれしか対処のしようがなかった。
だが──
「羽多野、ちょっと」
「羽多野」
「いまいいかな、羽多野」
「羽多野、来て」
この人、しつこい!
密室でふたりになる状況を避けているのを理解しているようで、連日谷原さんはオフィスで周囲に見せつけるように何かにつけて私を呼びつけた。しかも話の内容は些細であってもしっかり仕事のことだから無視することが出来ない。
「この後、飯でもどうかな?」
「いえ、申し訳ありませんが」
「そうか。なら明日は?」
「申し訳ありません」
「ランチでも」
「久世とワンオンワンのランチセッションなので」
「久世も一緒で構わないよ」
どんな修羅場だよ。
恐れを知らぬ谷原さんは距離感がバグり、やたら目を見て話しかけてくるし、久世はいまにもキレそうで、私はわずか数日のうちに疲弊した。
大阪支社への急な出張を打診されたのは、そんな折だった。
「え……、私がですか?」
「ああ、戸田が行く予定で諸々手配していたが行けなくなっただろう。急で悪いがその代わりを頼みたい」
私のデスクに手を付き、谷原さんは私を上から覗き込んだ。
「あの、でもそれ、谷原さんも」
「ああ」
元々明後日の予定で組まれていた谷原さんと戸田さんの大阪支社訪問は、大阪支社のテコ入れにあたり夏頃からあちらとこちらを双方行ったり来たりで視察や協議を重ねてきたものだ。一昨日戸田さんがぎっくり腰をやらかしたのは知っているが、今回は谷原さん独りで行くものと思い込んでいた。つかの間でも谷原さんのいない一日が来ると喜んでいたというのに、戸田さんの代わりを私にやれと!?
「谷原さん、それ俺が行っちゃダメすか? 俺も大阪のみなさんと話したいんすけど」
「喜田川のそのやる気は買うが、おまえ明後日のプレゼンどうするんだ」
「……ッ」
後ろで話を聞いていた喜田川を黙らせると、谷原さんはその目をそのまま、顔を強ばらせて立ち尽くしていた久世に向けた。
「何か言いたいことでも?」
「……いえ」
「利口だな。おまえは田仲先生と終日研修講師と聞いている。先方人事部長直々のご指名だそうじゃないか。期待しているよ」
歯噛みする久世に余裕の一瞥をくれ、谷原さんは私だけでなくむしろ彼らに言って聞かせた。
「何か勘ぐっているのかもしれないが、これは上からの指名だ。もちろん、羽多野はどうかと言ったのは俺だけどね。大阪の営業組織再編にあたっては、野本や水野のような働き方にも対応できるようにマネジメントスタイルに余力を持たせたい。羽多野の話を聞きたいという要望は前から上がっていたし、向こうのメンバーと意見を交わすのも君にはいい機会だろう」
夜は懇親会を開いてくれるそうだ。よろしく、と肩に置かれた大きな手には有無を言わせぬ力があった。