しっかりした期待の新人が来たと思えば、甘えたがりの犬に求婚された件
(2)
その日、元々あった私の予定はどれも簡単に調整がつくものだった。こんな時に限って対処せねばならないトラブルは起きず、相田さんに「えぇ、谷原さんと泊まりがけの出張なんてうらやまぁ。ラブハプニングあるかもですねえ」などと人の気も知らない発言をかまされて、朝のルーティン処理を終えた私は谷原さんと共に大阪に出発した。
「窓側どうぞ」
行きの新幹線は自由席車両の三列席で、谷原さんは私を奥に座らせるとひと席空けて通路側に座った。
「隣がよかったか?」
「いえ……」
ふっと力を抜いて笑う彼の視線を避け、私は取り出したノートPCに齧り付くことにした。だが、品川を抜け、新横浜に到着すると車両が混雑し、谷原さんの横に同じく出張先に向かうであろうスーツ姿の男性が足を止めた。
「すみません、そこ空いてますか?」
尋ねた男性に谷原さんは気さくに応じると、自分が立ち上がって横にズレる格好で私の隣に座った。
「こちらにどうぞ。彼女は部下ですので」
私のことを視線で示せば、男性は礼を告げて先程まで谷原さんがいた座席に腰を下ろした。
「仕方ないよな」
内心マジかと頭を抱えていたが、出来るだけ顔に出さず頷くに留める。過剰に反応しても喜ばせるだけだ。ぽつぽつと囁かれる仕事の話に短い応答を返していると、ふいに体の片側に体重が乗った。
「ちょ、た、谷原さん」
「悪い。疲れているんだ。少し寝かせてほしい」
もたれかかって来た谷原さんを押し戻そうにも、頑として動かない。泡を食っていると通路側の男性がちらちらとこちらに迷惑そうな視線を向けてきた。
強ばる体に薄く笑う気配がある。
いくらもしないうち本当に寝だした谷原さんは重くて、新大阪までの数時間は私にとってあまりに長い時間だった。
*
大阪支社を訪れるのは久しぶりのことだったが、普段からそれなりに交流はあるし、電話や社内チャットで営業同士情報交換をすることも多い。だが腰を据えて互いの取り組みについて話すという機会は新鮮で、昼過ぎから始まったミーティングで大阪での事例を聞いていると私自身かなり勉強になることも多かった。
「羽多野さんのところの久世さん、大阪でも話題ですよ」
「そうでしたか。仕事ぶりの話題だと面倒をみている身としてはうれしいですね」
「そらもちろん、異動してきてメキメキ成果あげてますもの。まぁイケメン具合も有名ですよ。私も社員旅行の時にはじめて会うたんですが、ほんまキラキラしとってゲーノージンかと思いましたわ」
「異動してきた時は正直どう転ぶかわかりませんでしたが、化けてくれてうちとしては大変儲けました。羽多野のおかげです」
久世も羽多野がいいと言って私の言うことなど聞きませんよ、と谷原さんは朗らかに笑う。
一度名前を出されてしまえば、久世に会いたくて仕方がなかった。こうなれば、必要なことを終わらせて谷原さんとできるだけ話さずさっさと帰ろう。
決意を固め、大阪支社に向けた愛想とサービス精神の塊となった私は和気あいあいと彼らと交流し、用意された懇親会の席へと雪崩込んだ。
谷原さんの隣に固定されないよう自らあちこち酌をしてまわり、いやいやまぁまぁワーハッハッと賑やかにするだけ賑やかに振る舞って、私は宴会の途中でひとり席を立った。少し離れた薄暗い廊下で息を吐く。
「……だる」
疲れて調子が悪いとでも言って、失礼させてもらおうか。
そんなことを考えながら、私は握り締めていたスマホのディスプレイに目を落とした。時刻は八時も近い。久世ももう家に帰っているころだろう。
──電話しても、大丈夫かな。
久世の番号を呼び出したところで、背後に人の立つ気配を感じ、振り返ればすぐそこに谷原さんがいた。
「まだお開きには早いんじゃないか?」
薄暗がりで囁いた彼は伸ばした右手でするりと私の腰を抱く。
「それとももうホテルに戻る? 俺はどちらでも構わないが」
「やめてください」
壁際に押し付けられ、いやだと抵抗すると微かに谷原さんは笑っていた。
「楽しいですか、こんなことして。私のこと追い詰めて」
「楽しいよ。君のことがほしいから」
「最低です」
「それで構わない。関係も一度で構わない。羽多野が俺の手に墜ちるところが見たいんだ」
指が通話のアイコンを押す。
「久世に電話するより、この場合警察のほうが妥当だと思うが」
「いい加減にしてください!」
強引に引き寄せられ、逃れようともがいたところでスマホの電子音が耳に届いた。客か、店員かとにかく誰かが近くにくる。
助けを求めるように音のする方に顔を向けた私は目の前の光景に唖然とした。
「あらまぁ、谷原くんたら。嫌がるあの子にまさに実力行使って感じの場面ね!」
ロングコートの田仲先生と、久世航汰がふたりならんでこちらを見ているのだ。
「航汰……! 先生まで、なんで」
ふたりは顔を見合わせると、
「なんでって、研修終わりに先生と、今日羽多野さんたち大阪なんですよーって話になって」
「本場のたこ焼きいいわよねえって話になって」
「食べいきません? ってなって、直帰してそのまま新幹線乗って」
「来ちゃった」
ねぇー! と言って、久世と先生は心底楽しそうに笑い合った。
「せっかくですからと大阪支社の方に顔を出したら、みなさんこちらとお聞きして」
「来ちゃった!」
顔の横でギャルピースを決めるイケイケのふたりの勢いを誰も止めることなど出来なかった。
「プライベートだと言うわけか」
「はい。明日始発で戻れば始業にギリ間に合います」
「わたしは午前休で重役出勤だから」
ねー! と合わさる阿吽の呼吸に谷原さんの呆れたようなため息が重なる。久世はその一瞬で鋭い目つきに変わり、手を取って引き寄せた私の前に自分の背中を割り込ませた。
「呑みすぎみたいですね、谷原さん。いい加減にしてくれって真咲さんの声、はっきり聞こえましたよ」
鼻先に感じる久世の匂いに、思わず視界が滲む。
「航汰」
「遅くなってごめんね、真咲さん」
まさか駆けつけてくれるなんて考えてもみなかった。声さえ聞ければと思っていたのに。
「羽多野さん、わたし、社内のハラスメント撲滅委員なの。協力するからいつでも声かけてね」
「田仲先生……ありがとう、ございます」
「わたしのためでもあるんだから。お礼なんていいのよ」
先生は谷原さんのほうを見やって嫣然と笑う。
「逃したと思うと、なんだか燃えてきちゃって。長いこと誰かさんといたせいで、悪い癖が移ったのかもしれないわ」
その日、元々あった私の予定はどれも簡単に調整がつくものだった。こんな時に限って対処せねばならないトラブルは起きず、相田さんに「えぇ、谷原さんと泊まりがけの出張なんてうらやまぁ。ラブハプニングあるかもですねえ」などと人の気も知らない発言をかまされて、朝のルーティン処理を終えた私は谷原さんと共に大阪に出発した。
「窓側どうぞ」
行きの新幹線は自由席車両の三列席で、谷原さんは私を奥に座らせるとひと席空けて通路側に座った。
「隣がよかったか?」
「いえ……」
ふっと力を抜いて笑う彼の視線を避け、私は取り出したノートPCに齧り付くことにした。だが、品川を抜け、新横浜に到着すると車両が混雑し、谷原さんの横に同じく出張先に向かうであろうスーツ姿の男性が足を止めた。
「すみません、そこ空いてますか?」
尋ねた男性に谷原さんは気さくに応じると、自分が立ち上がって横にズレる格好で私の隣に座った。
「こちらにどうぞ。彼女は部下ですので」
私のことを視線で示せば、男性は礼を告げて先程まで谷原さんがいた座席に腰を下ろした。
「仕方ないよな」
内心マジかと頭を抱えていたが、出来るだけ顔に出さず頷くに留める。過剰に反応しても喜ばせるだけだ。ぽつぽつと囁かれる仕事の話に短い応答を返していると、ふいに体の片側に体重が乗った。
「ちょ、た、谷原さん」
「悪い。疲れているんだ。少し寝かせてほしい」
もたれかかって来た谷原さんを押し戻そうにも、頑として動かない。泡を食っていると通路側の男性がちらちらとこちらに迷惑そうな視線を向けてきた。
強ばる体に薄く笑う気配がある。
いくらもしないうち本当に寝だした谷原さんは重くて、新大阪までの数時間は私にとってあまりに長い時間だった。
*
大阪支社を訪れるのは久しぶりのことだったが、普段からそれなりに交流はあるし、電話や社内チャットで営業同士情報交換をすることも多い。だが腰を据えて互いの取り組みについて話すという機会は新鮮で、昼過ぎから始まったミーティングで大阪での事例を聞いていると私自身かなり勉強になることも多かった。
「羽多野さんのところの久世さん、大阪でも話題ですよ」
「そうでしたか。仕事ぶりの話題だと面倒をみている身としてはうれしいですね」
「そらもちろん、異動してきてメキメキ成果あげてますもの。まぁイケメン具合も有名ですよ。私も社員旅行の時にはじめて会うたんですが、ほんまキラキラしとってゲーノージンかと思いましたわ」
「異動してきた時は正直どう転ぶかわかりませんでしたが、化けてくれてうちとしては大変儲けました。羽多野のおかげです」
久世も羽多野がいいと言って私の言うことなど聞きませんよ、と谷原さんは朗らかに笑う。
一度名前を出されてしまえば、久世に会いたくて仕方がなかった。こうなれば、必要なことを終わらせて谷原さんとできるだけ話さずさっさと帰ろう。
決意を固め、大阪支社に向けた愛想とサービス精神の塊となった私は和気あいあいと彼らと交流し、用意された懇親会の席へと雪崩込んだ。
谷原さんの隣に固定されないよう自らあちこち酌をしてまわり、いやいやまぁまぁワーハッハッと賑やかにするだけ賑やかに振る舞って、私は宴会の途中でひとり席を立った。少し離れた薄暗い廊下で息を吐く。
「……だる」
疲れて調子が悪いとでも言って、失礼させてもらおうか。
そんなことを考えながら、私は握り締めていたスマホのディスプレイに目を落とした。時刻は八時も近い。久世ももう家に帰っているころだろう。
──電話しても、大丈夫かな。
久世の番号を呼び出したところで、背後に人の立つ気配を感じ、振り返ればすぐそこに谷原さんがいた。
「まだお開きには早いんじゃないか?」
薄暗がりで囁いた彼は伸ばした右手でするりと私の腰を抱く。
「それとももうホテルに戻る? 俺はどちらでも構わないが」
「やめてください」
壁際に押し付けられ、いやだと抵抗すると微かに谷原さんは笑っていた。
「楽しいですか、こんなことして。私のこと追い詰めて」
「楽しいよ。君のことがほしいから」
「最低です」
「それで構わない。関係も一度で構わない。羽多野が俺の手に墜ちるところが見たいんだ」
指が通話のアイコンを押す。
「久世に電話するより、この場合警察のほうが妥当だと思うが」
「いい加減にしてください!」
強引に引き寄せられ、逃れようともがいたところでスマホの電子音が耳に届いた。客か、店員かとにかく誰かが近くにくる。
助けを求めるように音のする方に顔を向けた私は目の前の光景に唖然とした。
「あらまぁ、谷原くんたら。嫌がるあの子にまさに実力行使って感じの場面ね!」
ロングコートの田仲先生と、久世航汰がふたりならんでこちらを見ているのだ。
「航汰……! 先生まで、なんで」
ふたりは顔を見合わせると、
「なんでって、研修終わりに先生と、今日羽多野さんたち大阪なんですよーって話になって」
「本場のたこ焼きいいわよねえって話になって」
「食べいきません? ってなって、直帰してそのまま新幹線乗って」
「来ちゃった」
ねぇー! と言って、久世と先生は心底楽しそうに笑い合った。
「せっかくですからと大阪支社の方に顔を出したら、みなさんこちらとお聞きして」
「来ちゃった!」
顔の横でギャルピースを決めるイケイケのふたりの勢いを誰も止めることなど出来なかった。
「プライベートだと言うわけか」
「はい。明日始発で戻れば始業にギリ間に合います」
「わたしは午前休で重役出勤だから」
ねー! と合わさる阿吽の呼吸に谷原さんの呆れたようなため息が重なる。久世はその一瞬で鋭い目つきに変わり、手を取って引き寄せた私の前に自分の背中を割り込ませた。
「呑みすぎみたいですね、谷原さん。いい加減にしてくれって真咲さんの声、はっきり聞こえましたよ」
鼻先に感じる久世の匂いに、思わず視界が滲む。
「航汰」
「遅くなってごめんね、真咲さん」
まさか駆けつけてくれるなんて考えてもみなかった。声さえ聞ければと思っていたのに。
「羽多野さん、わたし、社内のハラスメント撲滅委員なの。協力するからいつでも声かけてね」
「田仲先生……ありがとう、ございます」
「わたしのためでもあるんだから。お礼なんていいのよ」
先生は谷原さんのほうを見やって嫣然と笑う。
「逃したと思うと、なんだか燃えてきちゃって。長いこと誰かさんといたせいで、悪い癖が移ったのかもしれないわ」