しっかりした期待の新人が来たと思えば、甘えたがりの犬に求婚された件
(2)

「羽多野さん、見積書の確認お願いします」

 久世は、会社の中では一見してそれまでと変わりない、普通の態度だった。上司と部下。どの仕事にも意欲的に取り組み、客先でも好評で引き継ぎは順調だし、私の業務にもゆとりが出来て物事がスムーズに進行する。
 久世とは仕事がやりやすい。
 端々でそう感じる一方で、人目がなくなったり、ふたりきりでの移動中になると、

「──真咲さん、かわいいですね」

 久世は宣言通りに私を口説き落とそうとアプローチしてきた。
 熱っぽい視線を向けるなんて序の口で、さりげなく小指を絡めてきたり、髪に触れたり、どう考えても自分の魅力を理解したうえそれを最大限に利用して迫ってくる。
 心臓に悪い。挙動不審になるし、私ばかりがぎくしゃくしているように映っていないか心配でならなかった。

「羽多野」

 夕方。客先での打ち合わせを終え、帰りがけ「今日ごはん行きませんか?」なんて無害そうなかわいい顔で誘ってくる久世をなんとか交わし、ぐったりしていたところで低く響く声で名前を呼ばれた。
 慌てて背筋を正して振り返れば、統括マネージャーの谷原さんがそこにいた。

「ちょっといいか?」
「はい」

 促されるまま小さなミーティングルームに入ると、立ち話のつもりなのか、谷原さんは仕立ての良いスラックスのポケットに手を突っ込んで私を見やった。

「久世はどうかなと思って」
「うまくやってくれていますよ。行動量に成果が確実に紐づいているタイプで、正直私も助かっています。自分の見た目が武器になるのも理解しているようでクライアントの受けはいいですし、見た目だけじゃなく要領よくて物覚えもいいですから信頼関係を築くのが早いと思います。やりとりも的確ですし、嘘や誇張もないので誠実かと」
「そうか。やっぱり羽多野に任せてよかった」

 谷原さんは四十過ぎの落ち着いた雰囲気で、立ち振る舞いは穏やかなのに独特の威厳を感じさせる。彼に密かな憧れを抱いている人は男女を問わず、かくいう私も入社以来のファンだった。率直に言って、ただそこに佇んでいるだけで大人の色気が半端ない。

「業務以外でのトラブルは?」
「い、今のところは特に……」

 内心ドギマギしながら答えたが、谷原さんは「ならよかった」と短く言って微笑んだ。

「久世の一挙手一投足に気もそぞろになっているメンバーも多いようだけど、羽多野の部下とあって迂闊なことはできないらしい。君は一目置かれているから」
「いや、そんな……そもそも久世本人が言動には注意しているようですし、かなり気を使ってくれています。仕事と関係ないところで勝手に騒がれるというのも、彼にとっては不本意だろうと思うんですが」
「と、いうと?」
「そりゃわぁきゃあしたくなる気持ちはわからなくはないですけど、態度を見ている限り、久世はここに仕事をしに来ています。ですから、周りの方がもう少しそういうのを抑えて普通に接するというか、彼とは仕事を共にする同僚という意識であるべきではないかと」
「なるほど。羽多野がそういうスタンスでいるから、久世も君に懐いているわけか」
「懐いて、ます、かね……」

「とても。でも君は──」谷原さんはやおら私の耳元で声を潜めた。「久世に惚れるな、という俺の忠告をよく聞いてくれているようで安心した」

 耳にあたる息遣いにうなじが粟立つ。

「し、仕事なので……」
「営業でもこれまでと同様のトラブルが起きるようであれば、正直久世には居場所がないと思っている。俺の懸念は久世というより羽多野のほうだ。ゴタゴタに巻き込まれて君が傷ついたり、周りに足をすくわれるようなことは避けたい。上手く立ち回ってくれることを期待しているよ、羽多野」
「……はい」

 谷原さんは言含めるように私の肩をそっと叩いてミーティングルームを後にした。

「上手く立ち回れ、か……」

 絶賛口説かれ中なんですが。
 どうしたものかと項垂れながらドアを開けると、目の前に喜田川がいた。

「うわびっくりした」
「おぉ、悪ぃ」
「あ、部屋使う? 電気消しちゃった」
「いやいい。それより、なんか言われたか?」
「は?」
「谷原さんだよ」

 廊下の奥に目を向けながら、喜田川はまたちらりと私を見やる。
 喜田川は私が谷原さんにひとりで呼ばれるようなことがあると、こうしてよく話を聞きたがった。

「別に心配するようなことは何も。久世の状況どうですかって話。今のとこ問題なさそうだから、このまま上手いこと立ち回れってさ」
「はーん。相変わらずのご贔屓で」
「贔屓って、久世のこと?」
「おまえだよ。女絡みでトラブってきた奴を、わざわざ女のおまえに押し付けるとかわけわかんねぇだろ?」
「別に久世本人のせいじゃないでしょ。リスキーな存在だからこそ普通のチームには入れられなかっただけ。私のとこなら、なんかあった時にも一課全体の目標数字にそこまで大きな影響にならない。自分の立ち位置くらい理解してます」
「あぁ学校にもいたよなぁ、めんどくせぇやつの世話押し付けられる貧乏くじ係」
「言葉にするな。ムカつく。あと、うちの面子はめんどくせぇやつじゃない」
「訂正してお詫びしまーす」

 呆れ混じりのため息をこぼして、デスクのあるフロアに向かって歩き出すと喜田川は毎度の調子でどっかり肩を組んでくる。

「てかさ、おまえ今日、空いてる? 飯いかね?」
「忙しい」
「最近久世のおかげでゆとり出たんだろ? 待ってっからさぁ、行こうって。俺ちゃん別れちゃったの、愚痴聞いて」
「ハァ?! また!?」

 ぎょっとして足を止めれば、喜田川はぐすんと涙ぐむ真似をした。

「慰めをくれ、真咲。ダチだろ」
「……うざ」
 
 侮蔑を隠さず表に出したところで、

「羽多野さん?」

 と覚えのある声がした。

「久世」

 咄嗟に喜田川の腕を振り払ったが、見られたのは確実だった。いや別に見られたところでどうということもないのだが、不思議と動揺している。

「すみません、お邪魔でしたか」
「いやいや、全然」
「お邪魔だよ。おかげで今晩の飯の約束が流れそうじゃん」
「喜田川! ごめんね、席外してて。何かあった?」
「なかなか戻ってこないからどうしたのかなって思っただけなんですけど、あ、開発から羽多野さん宛の電話が一件ありました。メモ残してありますけど、メールするから見ておいてとのことです」
「わかった。ありがとう」

 久世はにこりと笑ってから、色の薄い瞳で喜田川を一瞥し、私にそっと囁いた。

「で、飯行くんですか? 俺の断ったのに」

 ひぇ──。

「いや、私、まだやらなきゃいけないことがあるので」
「だから俺も仕事しながら待つって。いつもの店行こうぜ」
「仲いいですよね、羽多野さんと喜田川さんて。羨ましいな」
「苦楽を共にしてきた同期でありダチだから。なぁ真咲」
「そんなふうに呼ぶのも喜田川さんだけですもんね」
「そうだな。もう辞めちまったんだが、入ったばっかの時、営業事務に田野さんってのがいたからさ。紛らわしいだろ? 真咲も好きに呼んでいいって言うし、もう癖だから」
「肩組むのも?」
「癖だから」

頭上で繰り広げられる会話は、表面上は穏やかながら、その実、冷ややかに腹の探り合いが行われている気がする。
逃げたい。

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