無能な私の殺し方~男爵令嬢アルトリリーのやり直し~
「アルトリリー、これからやり直す世界でもそのままでは君が愛されることはないだろう」

 神は残酷だ。
 飛び降りて死んだ私に向かってなお、追い打ちをかけるようにこう言うのだから。

「そんなことくらい分かってるわよ」

 気安く名前を呼ばれた私は吐き捨てた。
 というか、そこまで分かっているならやり直しなんてさせないでよ。
 間違いなく私はバルコニーから飛び降りて死んだはずなのだ。確実にあの高さでも死ねるように頭から落ちた。

「自殺は大罪だ。私の救いを自ら拒んだのだから。分かるね?」

 分かるわけないでしょ。分かっていたらそもそも飛び降りなんてしなかった。
 大体、神が私を救ってくれたことなんてないじゃないの。神なんていつだって私のことは助けてくれない。それなのに、死んだ後になって現れて説教を垂れるなんて。何様よ、あぁ神様か。

 目の前の恐らく神であろう存在の表情は見えない。だって後光が差していてあまりにも眩しいから。目を細めながら私は神を睨む。

「君はアルトリリーという名前だけが同じ別人で、別の国でやり直す。分かりやすく言えば、別人の体に君の魂を入れこむ。私の救いを拒んだ罪として、君はそのアルトリリーという女の子の人生を幸せにするように。今、彼女は絶望している。名前が同じならば使命が同じだから次こそ頑張るように」

 やり直すって聞いたら、あのクソみたいな過去に巻き戻るのかと思ってた。
 でも、名前が同じ別人に入れられるんだって。それならいいかもしれない。元の私をやり直さないのならば。

 だって、元のアルトリリーのことなんて誰が愛すの。
 何の取り柄もない無能。勉強したって頭も良くならない。ただ顔が可愛いだけの男爵令嬢アルトリリーを。
 外見の可愛さなんて年を取ったら何の意味もない。可愛さでずっと愛されるなら、私の母は追い出されなかったし男爵に捨てられなかったはず。

 分かってる、自分が愛されない無能だということくらい。
 だから私は少しでも愛されるように精一杯男に媚びて演技したんじゃないの。それの何がいけないの。愛嬌だって才能の一部でしょ。無駄に伸ばす語尾とかボディタッチとか、分からない振りとかわざとらしい「さしすせそ」に引っかかる男がバカなのよ。

 愛はね、待ってたってこないのよ。自分から取りに、いや盗りに行って何が悪いの。
 神を前に私はそんな失礼なことを考えて、結局「やり直し」をさせられた。


「アルトリリー様、大丈夫ですか?」
「えぇ、大丈夫よ」
「王太子殿下がまたあの方と……」
「学園で愛妾や側室を見繕うことはよくあるじゃない。二人くらいなら予算面も安心だわ」

 話しかけてきた令嬢は驚いている。
 こっちのアルトリリーは王太子に完全に恋をしていて、男爵令嬢に傾倒する王太子にそれはそれは怒っていたから。

 アルトリリー・マードック。

 マードック公爵家の十六歳の娘に私はなっていた。
 そして公爵令嬢アルトリリーは王太子の婚約者で、可愛いだけのバカな男爵令嬢にその座をおびやかされていた。そう、死ぬ前の私と立場が変わったわけだ。
 昔の私は可愛さと愛嬌だけでのしあがってやがて王妃にまでなった。ただ、贅沢しすぎたみたいで民衆が不満を抱いて反乱が起きて自殺したけどね。

 可哀想なこっちのアルトリリー。
 昔の私は無能だから媚を売って演技して生きていくしかなかった。だって、そのままの私でいいなんて妥協したら母のようになることは目に見えていたから。
 その辺の男爵か伯爵あたりに捕まって愛人にでもされて、年を取ったらポイ捨てされて精神を病む。病気にでもなったら寄り付きもしない。

 私は道具扱いされる女なんて絶対に御免だった。
 でも、残念ながら私は賢い頭を持って生まれなかった。手先も不器用だし賢くない女なんて、どうなるか分かり切ってるでしょ。努力じゃどうにもならないことってあるのよ。努力して賢くなれるのはね、元々賢かった人なのよ。

 そんな無能の私とこっちのアルトリリーは違う。公爵令嬢だから教養とマナーはすでに持っている。
 でもこんなにマナーも勉強も頑張っているのに、たった一人の男にさえ愛されないなんて。あまりにも皮肉で思わず笑ったわ。
 こっちのアルトリリーの恋するたった一人の男、つまり婚約者である王太子レジナルドは昔の私みたいな可愛いだけのバカで無能な男爵令嬢クラーラを側に置いて学園生活を楽しんでいるわけ。

 王太子も馬鹿よね。こんなに綺麗で可愛くて頭のいい子があなたを好きで好きで仕方がないのに。嫉妬までしてくれるのにそれをヒステリー扱いしちゃってね。


 さて、私はこっちの新しいアルトリリーになった状態でこの子を幸せにしないといけないらしい。それが自殺したことに対する神からの罰であり、やり直しだ。

 そもそも、この子の幸せって何よ。あの王太子を取り戻したところでどうせ私がいなくなったらまた不幸になるんじゃない? それなら、婚約解消に持って行った方がいいんじゃないの? 昔の私だった時の王太子の婚約者だって、婚約破棄してからの方が幸せそうだった。

 ひとまず、こっちのアルトリリーはヒステリー女のレッテルを周囲によって貼られている。王太子が好きすぎてクラーラに攻撃したから。口でね、公爵令嬢だから手を上げるなんてことはないわよ。実家の権力もまだ使ってないし、自称取り巻きは虐めてたと思うけど。

 こっちのアルトリリーの頭の中は暇さえあればあの二人の浮気のことでいっぱいで、気に病みすぎて美人なのに人相までキツめに変わってしまっている。
 別にいいじゃない。恋愛にこんなに夢中になれるなんて素晴らしいのに。私は嫉妬なんて演技でしかしたことがない。可愛い可哀想なこっちのアルトリリー。こんなに有能なのにバカな男に恋をして完全な愚者になる。

 まず、やることは簡単だった。
 王太子レジナルドと男爵令嬢クラーラへの関心を徹底的に見せないことだ。挨拶くらいはするが、どれほど二人が仲睦まじくしていてもヒステリーなんて起こさない。見ない、聞かない、窘めに行かない、無視する。

 どうでもいい人間にどうして説教なんてしなきゃいけないのよ、疲れるだけでしょ。
 こっちのアルトリリーが「婚約者でもないのに距離が近すぎる」だの「王族相手に名前を軽々しく呼ぶな」だの何だの言っていたのは、クラーラのせいでレジナルドの評判を落とさないためよ。なんて健気なのかしら、好きな男が他の女にかまけているのに必死になって評判を守るなんて。理解できない。

 私はヒステリーなんか起こさず、二人を適当にやり過ごしてから悲しそうにそっと目を伏せる。全然悲しくないけど。
 美人の憂い顔って皆大好物よね。昔の私は可愛かったから儚げに見えたけど、公爵令嬢アルトリリーの弱ったところなんて私だって見たいわ。いつも強がってるものね。

 私が静かになって相手をしなくなると、親切なのか嫌がらせなのかご令嬢たちが「また王太子殿下が中庭であの方と……」と言いに来る。しかし、それさえも微笑んで相手にしない。

 おかしなものだ。
 ヒステリーを起こしていたアルトリリーを皆嫌がっていたのに、ヒステリーを起こさなくなったら都合が悪いのか大げさなほど心配してくるんだから。
 今更心配するならヒステリー起こしてる時に心配しなさいよ。なにを心配している友情ごっこやってるの。そんなの一人でやりなさいよ。

 男っていうのはね、どんなに顔が良くても女を支配したいのよ。従順なのがいいの。
 でも支配できる女にはすぐ飽きるわけ。だからクラーラとか昔の私みたいな無能な女にいく奴もいるの。そういう女ってバカでちょっとワガママだしね。刺激にはなるの。

 こっちのアルトリリーの記憶を探っても、公爵家での勉強とお妃教育しか出てこない。こんな箱入り娘で洗脳気味に育てられたら、一番側にいる王太子に盲目的に恋をしてしまうわよね。努力家で賢くて有能で、ワガママなんて言わずに王太子を立ててきたアルトリリー。

 私は心底同情した。
 こっちのアルトリリーは無能じゃない。むしろ有能なのに、愛してほしい人から全く愛されていない。婚約者である王太子に尽くすから舐められており、父親には「男はそういうものだから」と諭されている。


 さて、私が傍観を決め込んでいるとあちらから近付いて来た。珍しく、男爵令嬢クラーラの単独行動である。

「きゃあ!」

 わざとらしい声をあげ、ある日突然学園の廊下で私の目の前で転んだのだ。
へぇ、昔の私はこんなことはしなかった。ひたすら王太子の側にいた。でもこの女はこういう風に陥れてくるのか、小物ね。

「あら、大丈夫?」

 私はすぐに手を差し伸べたが、パチンとクラーラに振り払われた。

「酷いですっ! 足を引っかけるなんて!」
「一人でこけたのに私のせいなの? 私の足がいくら長くても、あなたの前までは残念ながら届かなかったわ」

 手を差し出しては振り払われることを何度か繰り返していると、野次馬が集まっていた。立ち去っても良かったのだけれど、そうすると好き勝手言われそうだから。ここで、野次馬の前で否定しないといけない。

 野次馬の中から金髪の整った顔の男が飛び出してきた。王太子レジナルドである。

「クラーラ! 大丈夫か!」
「レジィ!」

 あぁ、なるほど。この女が意地でも床から立ち上がらなかったのは、王太子が来るまで待っていたわけね。というか、レジィって愛称はダサくない?
 死ぬ前の私は王太子のことをどう呼んでいたっけ? おかしい、彼のことだけぽっかりと抜けて思い出せない。

「アルトリリー、お前どういうつもりだ」
「マードック公爵令嬢です、殿下」

 ねぇ、アルトリリー。あなたの幸せにこんな男って必要なの?

「は?」
「彼女は一人でこけたのに私が足を引っかけたと言っています。もしこの場で彼女を信じるのならば、今後私のことはマードック公爵令嬢とお呼びください」

 見てもいない状況で真っ先にその女を信じる男なら、アルトリリーには要らないんじゃない? さっさと婚約破棄なり解消なりしてから二人でいなさいよ、この意気地なし。

「彼女は一人でこけましたよ」

 涼やかな声がした。野次馬の中から颯爽と出てきたのは、見るからに賢そうな黒髪の令息だった。記憶を探ると、レンブロン公爵家の嫡男ヴィクトルのようだ。

「本当に見たのか?」
「えぇ、見ました」
「しかし、クラーラは転ばされたと」
「彼女は足を引っかけられたと言い、私は彼女が一人で転ぶのを見たと発言しました。マードック公爵令嬢も。さて、王太子殿下はこの中で誰を信じるのでしょうか」

 そういえば、昔もいたわね。公爵令嬢の側にこんな正義感のある男が。
 確か、婚約破棄してからこういう男と結婚したんじゃなかったかしら。

 ヴィクトルの言葉に王太子はやや顔を歪めて、私を睨むとクラーラの手を引いて去っていく。アルトリリーをヒステリー女の悪者にして周囲から同情を買って恋を燃え上がらせているみたいだけど、そういうプレイなら二人だけでやってほしい。
 昔の私だって公爵令嬢には手を出さなかった。王太子に媚を売るのに忙しかったものね。

 ヴィクトルに大げさにお礼を言うのも共謀したように見えるので、頭を少し下げて野次馬の間を通って廊下を歩く。
 背中にほんの少し、ヴィクトルの視線を感じた。

 私が、ああいう男を好きになれる人間だったら良かった。
 そうしたらやり直しもせずに、そもそもやり直しだって簡単だったはずなのに。

 クラーラというあの女は、どうしてもこっちのアルトリリーが邪魔であるらしい。
 廊下の事件から一週間も経っていないのに、またも嫌がらせを仕掛けてきた。自分の教科書が破かれたのはアルトリリーのせいだと声高に主張したのだ。
 近付かないようにしていたし、そもそもクラスが違うため疑われはしなかったが、おかしなウワサは立つ。ヒステリーはやめてとうとう実力行使に出たとかね。

 これではこっちのアルトリリーも絶望するだろう。
 あのクラーラという女、諦めが悪くて面倒くさい。
 こんなに努力しているのに、大好きな王太子があんな無能で性格の悪い女に惚れたら自分の人生を全否定されたように感じるでしょうね。
 昔の私は公爵令嬢に嫌がらせなんてしなかった。だって敵わないって知っていたから。向こうは権力も教養も美貌も何もかも持っている有能。無能な私は弁えていなければならない。

 教科書事件が起こってからまた数日後。
 ベンチに座って本を読んでいると、あの女もといクラーラは凝りもせずに一人で現れた。

「レジィは私を王妃にするって言ってくれたんだから!」

 あぁ、なんて馬鹿な子なんだろう。まるで過去の私を見ているみたい。神のやり直しって本当に罰で嫌がらせだわ。
 まぁ、私は公爵令嬢に向かってこんなバカげた言動はしていないけど。ただ、彼に「君と結婚したい」と言われて「ほんと? 嬉しい」と返しただけ。そんな昔の記憶がちょっと蘇る。そういえば、彼の目は紫色だった。

「あんたは仕事だけして愛されない二番目の女がお似合いよ。愛されるのは私なんだから!」

 私が微笑んで何も言わないと、クラーラはまだ何かまくし立てていたが急に悲鳴を上げて近くの噴水に自ら突っ込んだ。
 私はそれを予測していたから、噴水の近くのベンチで本を読むという分かりやすい行動を数日続けていたのだ。

 大して読んでいなかった本を地面へ乱暴に落として、私もそのままクラーラを追った。
 そして、そのまま噴水に飛び込む。

 クラーラは最初こそずぶぬれでしてやったりという顔をしていたが、私まで噴水に飛び込んだのを見てギョッとした顔になっていた。

 また野次馬が集まって来る中で、クラーラは早々に噴水の中から抜け出てやって来たレジナルドに「噴水に突き飛ばされた」と喚いている。

 私は水の冷たさをぼんやり味わってから、噴水の中から出ずにぎゅっと体の前で両手を交差させた。制服が完全に体に張り付いているし、この行動の方がこっちのアルトリリーっぽいからだ。男爵令嬢は川で元気に遊んだことがあるでしょうけど、公爵令嬢は水に潜ることなんてしないもの。

 視線を下げる前に見えたこの日の空は無駄に青かった。私が飛び降りた日みたいに、青かった。

 思った通り、ヴィクトルが血相を変えて駆け寄って来て自分の制服のジャケットで私の前側を隠してくれた。

「あなたの服が濡れてしまうわ」
「そんなことは! 今どうでもいいでしょう!」

 その会話を聞き、他にも見かねたのであろう男子生徒や女子生徒が数人、制服のジャケットを脱いで貸してくれる。

「ありがとう……」

 冷えて震えるような演技をしながら、彼らにお礼を言う。
 いつもは近寄りがたい公爵令嬢がずぶぬれで震えて頼りなさそうに体を抱きしめていれば、ずぶぬれでキャンキャン元気に喚いている男爵令嬢よりも助けたくなるはずよ。
 目に見える世界って事実よりも強いのよ。

「アルトリリー! まさかクラーラにここまでするとは! そんな乱暴な女だと思わなかった!」
「殿下! 風邪をひいてしまいますから先に二人を医務室に!」

 そんな言い争いを始めるレジナルドとヴィクトルをすっと手を上げて止める。手はちゃんとそれっぽく見えるように震わせて、もう片手はかけてもらったジャケットをきつく握る。

「そんなことしていません……あそこで本を読んでいたら……クラーラさんに急に口を塞がれて引っ張られて噴水に突き落とされたのに……早く婚約者の座を渡せって……」
「はぁ⁉ あんたが私を突き落としたんでしょ!」

 震えながら大嘘を話す私の信ぴょう性はどうだろうか。野次馬の反応はなかなかだ。「本があそこに落ちてるな」「最近、ここで本を読んでらっしゃったわ」「あんなに震えて」「ってか、あの子突き落とされたわりに元気じゃないか?」「見たか、今の顔」と。
 水の中で髪もわざと乱しておいたし、口や腕にクラーラが引っ掻いたような赤くなった跡もつけておいたのだ。

 そうやって震える私を見て、レジナルドはこちらを睨みつつも困惑した様子だ。
 ごめんね、アルトリリー。私は無能だから、こんな風にしかできない。あなたの幸せって何? 分かんないわ。こんな男に見てもらいたかったんでしょうけど、少しは満足?

 わざとだが、足から力が抜けたような演技をするとヴィクトルはすぐに医務室に促してくれた。抱えられそうになったが、それは固辞する。ここでヴィクトルに抱え上げられたら孤高の公爵令嬢ではなく、ただの流されやすい女だ。

「大丈夫なんですか」

 ヴィクトルは本当に優しい。

「えぇ、一人で歩けるわ。でも、支えてくれるかしら」
「それは当たり前です」
「皆さんも……ジャケットをありがとう……新品をお返しするから……濡らして汚してしまって……ごめんなさいね」

 ジャケットをかけて助けてくれた彼らに向かってだけ涙を耐える演技をする。公爵令嬢ってね、泣かないのよ。昔の彼女もそうだった。まぁ、私も泣かなかったけど。泣いたって一つもメリットがない時は泣かないのよ。

「そんな、アルトリリー様は悪くないのに!」
「あの、私、本を回収しておきます」
「このご恩は忘れないわ……」

 無理矢理のように微笑んでから、ヴィクトルと一緒に医務室に向かう。
クラーラはどうするのか、王太子が調達した服にでも着替えるのか、二人で部屋に籠っていかがわしいことでもするのか知らないが。

 さて、大一番の演技は終えた。まだ気は抜けない。

「あなたはこんな時でも泣かない。あんな扱いをされているのにどうして……」

 医務室に入る前にヴィクトルは苦々し気に言った。
 アルトリリーとヴィクトルは小さい頃から面識があるのよね。必要以上に接触はしないけど。

「平気です。それに、公爵令嬢で殿下の婚約者たる私は泣いてはいけません」
「アルトリリー! 頼むからもう……」
「ありがとうございました。レンブロン様。ジャケットは新品を買ってお返ししますから」

 ここで縋りついたり抱きしめたりするんでしょうね、物語なら。でも、アルトリリーをアバズレにするわけにはいかない。後ろから女子生徒が本と荷物を持ってついてきてくれているし。

 私が彼みたいな普通の男性を好きになれる人間なら良かった。

 でも、彼みたいに正義感の強い人間は苦手だ。
 辿った記憶によると彼の母親は病弱、だからこそ彼は正義感が強い。こっちのアルトリリーがピンチの時に出てくるのもその正義感ゆえのこと。つまり、彼は弱い可哀想な女性が好きなのだ。
 こういう男と付き合うのは疲れる。自分が可哀想で弱くて清廉でい続けないといけないから。
 ヴィクトルといると、自分の汚さが嫌になるのよ。ただでさえ自分のことは好きじゃないのに、さらに自分を嫌いにならなきゃいけないなんて耐えられない。

 でも、今のアルトリリーにはいいかもしれない。ずっと尽くしてきた王太子の心変わりに苦しんだから、与えられる愛に真綿のようにくるまれるのもいいのかも。でも、元気になったらきっとポイよ。急速にヴィクトルは興味を失うわ。

 ごめんね、アルトリリー。
 どうか神を恨んで。あなたの体にこんな無能な私を入れた神のことを。
 有能な人の体の中に入っても私は無能なままだった。もっと上手くやればいいのに、こういうことしかできないんだから。


 帰宅して熱を出し、熱が下がった頃に王妃に呼ばれた。
 学園での噴水事件が知られたのだろう。これで婚約解消となるのだろうか。
 私はどこまでも無能で甘かった。

「困るのよ、アルトリリー。学園での遊びくらいうまく対処してくれないと」
「しかし、レジナルド殿下はクラーラ様のことがお好きなようです。彼女をどこかの養女にして婚約者にされてはいかがでしょうか」

 以前、私はその方法で王族に入った。

「あんなのは珍しいから構っているだけでしょう。あなたは王妃になるの。愛なんてなくても王妃は務まるわ。王妃とは愛されるだけの役割ではないの。国と民のために尽くすのよ」

 なるほど、王妃がこんな調子か。
 アルトリリーが絶望するわけだ。王太子にもこんな調子ならいいが、アルトリリーには厳しく王太子には何も言わない。

「私と殿下との婚約解消はしていただけないのですか」
「そんなことするわけないでしょう。あの子だってそんなこと言い出したことはないもの。結婚したら学園のようなことはないし、あなたの教育にどれだけ時間と手間をかけたと思っているの」

 昔の私だった頃、王妃は息子に甘いと思っていた。
 しかし、こっちのアルトリリーの方の王妃は輪をかけて甘い。アルトリリーのフォローをするのかと思ったら、便利なお道具は王族に迎えてやるのだから我慢し続けろということか。

「私は愛されない、便利な道具ということですか?」

 こっちのアルトリリーは有能なのに。バカな私と全然違うのに。
 なぜ、道具のように扱われているの。どうして、アルトリリーだけが苦しんで我慢しているの。なぜ愛されていないの。有能になったら愛されるんじゃないの?
 私は無能だからそこから抜け出したくて上を目指して頑張った、自殺したけど。なのに、どうして有能なアルトリリーまで苦しむの。

「愛だなんて、そんな愚かなことを言わないで頂戴。国と民のために尽くすことがあなたの義務なの。その義務をここまできて放棄するつもり?」

 あぁ、私はここでも愚かで無能なのだ。どんなに有能な人の体を借りてもダメ。結局、私は私。愛してなんかもらえないし、話も聞いてもらえない。

 座っていたイスから無言で立ち上がる。やや顔を傾けて王妃を見下ろすと、私は笑った。あまりの馬鹿馬鹿しさに。
 だって、こっちのアルトリリーは幸せになれない。

 飲んでいた紅茶のカップを持ち上げて、遠くに放った。
 ガチャンと割れる音がして、王妃が私を咎める声を出す前に、私は窓に向かって走る。

 一度飛び降りたのだ。二度目だって怖くない。この三階に近い高さならいける。
 バルコニーまで走り出て、手すりを乗り越えようとしたところで急に後ろに引っ張られる。

「アルトリリー!」

 後ろに勢いよく倒された。痛みとともに目の前には金髪と紫の目。
 誰よ、阻止したのは。
 無能なこの私を殺さないと。死んだらきっとこのアルトリリーも幸せになれる。いや、私がこの子に入っていたってこの子を幸せにできない。

「僕だ、アルトリリー」

倒されたまま彼を見る。見た目はこっちの王太子レジナルドだ。

「僕だ。また君が飛び降りようとするなんて思わなかった」
「……レジェス?」

 思い出した、彼だ。昔のアルトリリーだった頃に公爵令嬢から奪った夫の名前。
 どうして、名前は違えどもここまでそっくりなのに忘れていたのだろう。

「なんで、レジェスまで?」

 レジェスは国王として反乱軍に捕まったはずだ。その知らせを聞いて私はバルコニーから飛び降りた。だから、彼は自殺ではないはず。

 レジェスというかレジナルドはふわりと笑う。学園で見せていた表情とは全く違う、これはレジェスだ。

「君に幸せになって欲しかったから。今度は自殺なんてさせないと思ったから」
「は?」
「なんでヴィクトルと恋に落ちなかったの? 彼なら君はこの世界で幸せになれたはずなのに」
「話についていけない。そもそも勝手に私の相手を決めないでよ」

 私を起き上がらせて、彼は泣き笑いの表情を浮かべた。

「僕は反乱で処刑されたからね。死んでから現れた神様にお願いしたんだ。僕ではできなかったから、どうか次では君を幸せにしてくださいって。そうしたら、この世界でやり直しだって。自分の言葉には責任を持てって。だから、君をヴィクトルとくっつけようとしたのに」
「……じゃあ、クラーラと引っ付いてたのはわざとってこと?」
「僕がこの世界に来てからはそうだね」
「相変わらず、こっちでもバカで無能な女が好きなのね」
「君はバカじゃない、無能でもない。ただ、君はお母さんのために生きていただけだろう」
「……違うわ、あんな無能で可哀想な女になりたくないから王妃になりたかったの。王妃になれば誰も道具扱いしないしポイ捨てされないと思ったから」

 母のために生きていた? 私が? そんなわけない。
 男爵みたいな相手の愛人にされたら、ポイ捨てされたって泣くことしかできない。子供だって奪われる。
 だから中途半端な立場の愛人は嫌だった。ポイ捨てされにくい正当な伴侶じゃないと嫌だった。なんなら権力とお金もあったらなお良かった。でも、頭も悪いし手先も不器用だから必死に媚を売ったのだ。

「でも君は僕と結婚してお母さんを呼び寄せたじゃないか、城に。全ての贅沢は君のお母さんのためだった。知ってるよ、君は豪華な食事は大して好きじゃなくてクルミの入ったパンがあれば機嫌がいい。デザートにはアップルパイ。ドレスだって豪華なものじゃなくて動きやすいものが好き。特に好きな色は今日の空みたいなブルー。君はそれほど贅沢ができない。でも、君のお母さんは君が贅沢をしている姿を見たら喜んでいた。大きな宝石も毎日違うドレスも、君はお母さんに見せるためだけに着ていた」

 あんな無能で可哀想な母と一緒にしないで。
 私は王妃になれた。公爵令嬢さえ蹴落として。男爵に捨てられて泣いて精神を病んだ母とは違うの。引き取ったのは同情したからよ。人生で一個くらいいいことがないとやっていけないでしょ。可哀想な母を引き取っただけよ。

「だって、君は自分のために生きられない人だ。この世界に来て、有能な公爵令嬢になったのに自分のために生きてない。こっちのアルトリリーのために生きている。もしかしたら、君のそういうところは無能なのかもしれない」

 そんなことを言われて腹が立ったので、彼の頬を引っぱたく。

「だって、こっちのアルトリリーを幸せにしろって言われたのよ! それが自殺した罰だって!」
「今、こっちのアルトリリーは君だ。そして名前が同じなら使命が同じと言われなかった?」

 言われた気がするが、難しいのでよく分からない。なんなの、使命って。知らないわよ、そんな高尚なこと。

「なんで、あなたは名前が違うのに顔は同じなの」
「顔は君に気付いてもらうため。僕は君のことが好きだったからね。君はお母さんのことしか見てなかったけど」
「……バカじゃないの。私、あなたのことなんて何とも思ってなかった」
「知ってるよ。でも、何でも持っていた僕は野心でキラキラした君に恋をした。君といたら毎日楽しかったからね」
「普通、野心でギラギラしてるんじゃない?」
「まぁね。目的のために媚を売っている君も、お母さんを蔑みながらも救いたいと行動する君も好きだったよ。たまには僕のことも見て欲しかったけど。どんなにお金をかけても、君は僕を最後まで見てはくれなかったからね。先にさっさと死んじゃうし」

 あぁ、今気付いた。
 私は道具扱いされたくなくて、ポイ捨てされたくなくて、彼を道具や踏み台扱いしていたのだ。何も言わず贅沢を許してくれた彼のことを。

「あなたってバカよ。そんな女ならここでも死なせれば良かったし、責任を感じる必要もないのに」

 ふと気付いた。なぜバルコニーに護衛騎士たちや王妃がやってこないのか。

「今日の呼び出しは僕が頼んだんだ。話がしたかったからね。まさか、自分を大切にせずにまた飛び降りようとするなんて思わなかった」
「王妃があんなこと言うからよ」
「こっちの王妃も愛されなかった人だからね。愛されなくて頑張った人だよ、だからああいう言い方になる」

 彼は座り込んで後ろに手をついてバルコニーから見える空を眺めている。

「ねぇ、そんなに死にたかった?」
「無能な私に生きている価値はないから。神からの罰でも関係ないもの。こっちのアルトリリーの中身は私じゃない方が幸せになれる」
「じゃあさ、そんなに死にたいならお母さんのために生きている君だけを殺してよ。それが無能な君の殺し方だよ」

 私の手の上に彼は勝手に自分の手を乗せた。

「それから、僕のことを見てよ。ヴィクトルのことが好きじゃないならさ」
「ヴィクトルのことなんて好きじゃない」
「じゃあ、いいじゃない。僕は君のことが好きなんだから」
「私は愛されたいのよ」

 ポイ捨てだってされたくないし、道具扱いもされたくない。

「愛してるけど、君はずっとそれを受け取ってくれないから」

 彼が空を指差す。
 さっきまでは何もなかったはずの空に虹がかかっている。

「神様が言ってた。虹がかかれば正解だって」
「私、神なんて信じてないもの」
「アルトリリーはいつも悪いことばかり信じるよね。いいことはなかなか信じてくれない」

 この人は意外と私のことをちゃんと見ていたらしい。私が道具扱いして全く見ていなかっただけで。だから、最初は顔さえ思い出せなかったのか。

「幻滅したでしょ。昔みたいに私が媚を売ってないから」
「僕は媚を売っているアルトリリーも姿形が変わったアルトリリーも全部好きだよ。だからこそ、君に幸せになって欲しかったんだけどね。神様はきっと僕にもやり直しの機会をくれたんだ」
「あなたって女の趣味が悪いわよ」
「君だって誰もが恋しそうなヴィクトルを選ばなかったじゃないか。絶対、ああいうタイプの方が結婚して幸せになれるよ。僕はわざと嫌な王太子を演じてたのに」

 普通はそうでしょうね。
 でも、私は残念ながら違う。ヴィクトルだって好きになれないし、昔の私はレジェスの横で王妃として死ねるほど図々しくもなれなかった。彼にはふさわしくなかったから。王妃になったって私は私でしかなかったし、好き勝手させてもらえていたのに私はそれを愛だと思っていなかった。

 母を殺して私は飛び降りた。
 あの時、私は死んだはずだった。大嫌いな無能な自分が。無能でも愛されたかった。でも私は知っていた。無能では愛されないと。

 母を蔑んでどんなに頑張っても結局、私は幸せになれなかった。

「どうやって、私を殺せばいいの」
「とりあえず、好きなアップルパイ食べる? せっかく君の好きな紅茶も用意したのにカーペットに投げるんだから」

 目の前のこの人は、レジェスは無能な私を愛してくれていたらしい。好きなものまで私よりも把握している。

「私たち、国王と王妃にはならない方がいいんじゃない?」
「それなら、神様は僕たちを王太子と公爵令嬢としてやり直しさせないんじゃないかな」

 やり直しの目的は、私と同じ名前だったこのアルトリリーを幸せにすること。名前が同じならば使命は同じ。こっちのアルトリリーも自分のためには生きていない女の子だった。

「レジェスは私に付き合ってやり直しをしなくて良かったのに。私の幸せより自分の幸せを優先すれば良かったのよ」
「そう言ってくれると、アルトリリーがやっと僕を見てくれた気がするよ」

 彼は恥ずかしそうに笑った。そのはにかんだような様子に私の心臓が音を立てる。
 そうだ。
 この人に媚を売ろうと最初に決めたのは、この人が王太子だったからじゃない。この笑顔を見たからだった。でも、そこからはポイ捨てされたくなくてがんじがらめになった。

「今度はお母さんじゃなくて、ちゃんと僕を見てくれる?」
「分からない。だってそういう風に生きたことがないから」
「じゃあ、僕が人のためにしか生きられない無能な君を殺してあげる。それが神様の言うやり直しだと思うよ」

 初めて気づいた。勝手に置かれた彼の手はとても暖かい。
 昔の私は散々媚びてボディタッチをしていたのに、なぜだか震えながら彼の手の上にもう片方の手を重ねた。

「そんな生き方知らないから、怖いわね」
「大丈夫、僕が一緒だから」

 虹は薄くなることなく、抜けるような青い空に煌めいていた。

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