契約結婚はご遠慮いたします ドクターと私の誤解から始まる恋の話
まだ祖母や母が生きていた頃には、軽井沢のホテルに毎年のように出かけていた。
当時は父と母の仲はよかったと信じていたし、今思えばとても幸せな毎日だった。
佐和の話では、池辺家の別荘にも祖母や母と三人で遊びに行かせてもらっていたようだ。
話を聞いているうちに、香耶もぼんやりとだが思い出してきた。
看護師として軽井沢の別荘を訪ねたとき、妙に懐かしく感じたのはそのせいだった。
幼い頃に訪れていた場所で働くことになるなんて、不思議なことがあるものだ。
記憶に残っているのは、蝉がうるさいくらい鳴いていたこと。高原をわたる風が気持ちよかったこと。
テラスにはアイスティーやお菓子が何種類も用意されていて、祖母たちのおしゃべりは尽きなかった。
じっとしているのに退屈した香耶は、庭の探検をしようと思いついた。
白樺の木立、背の高いひまわり、広々とした芝生。そこは幼い子にとって楽園だった。
生まれて初めて見た茶色くて半透明な不思議な形をしたものを集めていたら、男の子に声をかけられた。
「なにしてるんだ」
「これ、なにかな~と思って」
「ああ、セミの抜け殻だ」
「セミなの?」
男の子は得意そうに教えてくれる。
「これが土の中から出てきて、セミになったんだ」
「すごい! 変身したんだ!」
香耶がそう言うと、ケラケラと男の子に笑われてしまったが、夏の思い出のひとつとして心の中に残っていた。
今思えば、あれは拓翔だったのかもしれない。