鏡の裏側で
都会の片隅にひっそりと佇む廃映画館「シネマ・ノワール」。かつては多くの人々で賑わっていた場所だが、今は閉鎖され、誰も寄りつかない不気味な雰囲気が漂っている。人々は「この場所には何かがいる」と囁き、子どもたちは近づかないように警告される。古びたポスターが風に揺れ、裂け目から覗く暗闇がまるで吸い込むように彼女を誘っている。
少女・ミサキは、この夜、奇妙な手紙を受け取った。見覚えのない差出人からで、封筒には「シネマ・ノワールであなたを待っている」とだけ書かれている。差出人の名前も、送り主の住所も記されていない。普通であれば無視してもいいような内容だったが、なぜかその文字を目にした瞬間、ミサキの心はざわつき、思わぬ運命に迷った。
その夜、眠れぬままの彼女は気づけば映画館の前に立っていた。暗闇に浮かび上がる「シネマ・ノワール」の看板はかすかに明滅しており、廃墟のはずなのに、まるで彼女を吸い込むように扉が少しだけ開かれている。ミサキはふと息を呑むが、内側からの誘いに耐えられず、一歩足を踏み入れた。
中に入ると、かつての面影は薄れ、古びた座席や裂けたスクリーンが静寂の中に佇んでいた。埃の匂いが鼻をつき、薄暗い光の中、彼女は歩を進める。そして、ふと目の前に大きな鏡が現れた。その鏡は傷だらけで、曇りがかかっているが、何かが鏡越しに彼女を見つめているように感じられた。
ミサキは鏡に近づき、自分の姿を見つめる。しかし、その鏡の中にはもう一人の「自分」が映し出されていた。彼女と瓜二つの姿をしたもう一人のミサキは、冷たい表情を浮かべ、手に大きなナイフを握っていた。ミサキは目を見開き、後ずさる。だが、鏡の中の自分は微動だにせず、じっと彼女を見つめ続けている。
「……あなた、誰?」
恐る恐る声をかけると、鏡の中のミサキが口を開いた。「私はあなた。あなたが忘れたはずの過去、そして隠したいと思っている秘密。それが私なの。」その言葉に、ミサキは自分がかつて体験した恐ろしい出来事を思い出した。友人たちと喧嘩をし、傷つけた過去。そして、そんな自分を嫌い、封じ込めた記憶。そのすべてが、目の前のもう一人のミサキとして現れたのだ。
「思い出した?あなたが逃げてきた過去を。」
その声は冷たく、鋭く突き刺さるようだった。ミサキは頭を振り、否定しようとするが、記憶は鮮明に蘇る。小さな頃、学校でのいじめ、親友と喧嘩して傷つけたこと。見えないふりをしてきた自分の暗い部分が、今、目の前に現れている。
「あなたはずっと私を無視してきた。でも、それももう終わりよ。」
そう言うと、鏡の中のミサキがゆっくりとナイフを振り上げ、こちらに突き刺そうとした。ミサキは恐怖で動けない。だが、その時、彼女の中で何かが弾けた。「私は……逃げない。」彼女は鏡越しに目を見開き、キッとそのもう一人の自分を見つめ返した。
鏡の中の自分は一瞬、驚いたように目を見開いた。しかし、その後、微笑を浮かべると、ナイフをゆっくりと下ろした。「そう、それでいい。あなたが私を受け入れれば、私は消える。でも、忘れないで。私はいつでもあなたの中にいる。」
そう告げると、鏡の中のミサキの姿はゆっくりと消えていった。ミサキははっとして息をつき、鏡の前で立ち尽くした。気がつけば、映画館の中はすっかり静まり返っていた。彼女はナイフを握ったまま、少しの間立ち尽くしたが、そのナイフを握り締め、ゆっくりと外へ歩き出した。
外に出ると、空は澄み渡り、街灯の光が優しく彼女を照らしていた。ミサキは胸の奥にある暗い感情を認め、自分の中の過去と向き合う決意を固めた。どんな過去があっても、どんな痛みがあっても、それが自分自身であることには変わりない。もう逃げることはしない。
そう思いながら、彼女は夜の街を歩き出した。