音のない世界に生きる私が、あやかしの妻になりました
一章 私の存在価値
(ああ、またお母様が怒っていらっしゃるわ…)
目の前で眉を吊り上げ、何かを甲高い音で発しているらしい母親を見て北白河 桜は頭を下げて部屋を退出した。
何を言っているのかは、桜には分からなかった。
陽の傾きから察するに、夕餉の支度をしろ、ということなのだろうと思う。
桜は北白河家の使用人達に混ざって、夕餉の支度に取り掛かる。
使用人達が少し困ったように眉を下げて、同じく黙々と作業を開始する。
黙々、なのかどうかは、本当のところは桜には分からなかった。
静かに夕餉の支度をしているのかもしれないし、本当は楽しくお喋りに興じながら作っているのかもしれない。
桜には、それを知る術はない。
桜は、耳が聴こえなかった。
川のせせらぎや小鳥のさえずり、家族の優しい声を聴いて育った桜の聴力は、もうほとんど聴こえなくなっていた。
たまに断片的に声なのか音なのか分からないものが聴こえることはあるけれど、それが意味をなすことはなかった。
(こうしてお母様やお父様、弥生にご飯を作れることが、今の私にとってはとても幸福なこと。呪いを受けてしまった私にできることは、もうこれくらいしかないのだから…)
桜は感情を押し殺し、野菜を洗い始める。
泣きつかれてしまった桜の心は、もう涙を流すことすら忘れてしまっていた。