音のない世界に生きる私が、あやかしの妻になりました
それからまたちょうどひと月が経った、ある日の朝のことだった。
「ご馳走様でした」と手を合わせて、食器を下げようとすると、黒稜にとん、と肩を叩かれた。
黒稜が何か桜に用事がある際は、いつも優しくとんと肩を叩いた。叩く、という表現よりも軽く触れるといった方がいいかもしれない。
なるべく触れたくはないのだろうが、聴こえない桜を呼び止めるにはこうするしかない。
桜は座り直すと、黒稜の顔をじっと見つめる。
桜の聴く体勢が整うと、黒稜はゆっくりと話し出した。
「今日は街へ行く」
(街?お仕事かしら?)
桜はこくんと頷くと、「行ってらっしゃいませ」と小さく返す。
しかし桜の言葉に、黒稜は首を振った。
「お前も一緒に行くんだ」
「え?」
聴き取り間違いだろうか。一緒に行く、と黒稜の口が動いたように思う。
桜は和紙と鉛筆を取ると、【もう一度お願いします】と記した。
すると黒稜はその紙を取り、その下にこう書き記した。
【お前も一緒に街に行くんだ】
その文字に桜は目をぱちぱちと瞬かせる。
これまで一緒に街に出掛けたことはなかった。
野菜やお米は庭先で取れるし、それでも足りない調味料や食材は買いに行くことはあったけれど、それもいつも桜一人だった。
黒稜が街に行くときは大体仕事であったため、桜は何かの仕事の同行かと首を捻った。
(私はもう陰陽師としては役に立たないし、一緒にどこに行くというのかしら…)
桜は不思議に思いながら出発の準備をし、黒稜の後をついて街に降りた。