音のない世界に生きる私が、あやかしの妻になりました

(黒稜様と、ご旅行ってことになるのかしら…)

 近くの街に行くことはたまにあれど、どこか遠くに二人で出掛けたことなど、一切なかった。
 そんな本当の夫婦みたいな出来事が、まさか桜の身に起ころうとは想像だにしていなかったのだ。
 驚く桜のようすに何を勘違いしたのか、黒稜は吐き捨てるように言った。

『嫌ならいいのだ。帝の命ではあるが、無視したところで大したことはないだろう』
「行きますっ!」

 黒稜の言葉に、桜は食い気味に返答した。

「伊豆、行ったことがないのです」

 伊豆どころか、どこか遠くに行ったことすらない。家族旅行などできるほど道元は暇ではなかったし、桜も弥生も修行で手一杯だった。

『そうか、では明後日(みょうごにち)出発だ。準備をしておけ』
「はい」


 黒稜はそう言い残して自室に戻って行った。

(伊豆…!旅行…!)

 桜は目をきらきらと輝かせる。

(こんな贅沢なことがあってもいいのでしょうか…。何もお役に立てていない私なんかが…)

 そうは思いつつも、桜は人生で初めての旅行にうきうきせずにはいられなかった。
 最近伊豆は観光地として栄えており、箱根に並んで温泉でその名を全国に広めていた。
 黒稜がどのような計画を立てているのか分からないが、未知の土地だ。桜は期待せずにはいられなかった。

(神様、いえ、帝様がご用意してくださった貴重な機会。堪能させていただきます)

 空に手を合わせた桜は、その晩から楽しみで寝付けなくなってしまったのだった。

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