音のない世界に生きる私が、あやかしの妻になりました
「あ、すみません!」
桜は咄嗟に謝罪の言葉を口にする。
その声がこの賑やかな街で聴き取れたのかどうかは分からないが、男性は驚いたように桜の顔を見ていた。
(もしかして、上手く発音できていなかったのかしら?)
桜は自分が発音した言葉すら自分ではうまく聴き取れない。
もしかしたらぶつかった男性には、桜が何を言っているのか分からなかったのかもしれない。
桜はもう一度丁寧に頭を下げた。
「申し訳、ございません。ぶつかって、しまって…」
桜の言葉に、男性は深く眉間に皺を寄せて、慌てて立ち去ってしまった。
桜は眉を下げ、ふうっと息をつく。
(上手く、言葉になっていなかったのかな…。不可解そうな顔をされていたわ…)
それは桜と話す人によく見られる表情だった。
そういう場合、大抵桜が上手く発音できておらず、相手も上手く聴き取れなかったのだろうと思う。
しかし、くよくよしていても仕方がない。
男性はとっくに行ってしまったし、これ以上桜にできることは何もない。
桜は、また急ぎ旅館へと戻った。
しかしこの出会いが、桜と黒稜の平穏な暮らしを揺るがすことになろうとは、この時の桜は思いもしなかった。