音のない世界に生きる私が、あやかしの妻になりました

「あ、すみません!」

 桜は咄嗟に謝罪の言葉を口にする。
 その声がこの賑やかな街で聴き取れたのかどうかは分からないが、男性は驚いたように桜の顔を見ていた。

(もしかして、上手く発音できていなかったのかしら?)

 桜は自分が発音した言葉すら自分ではうまく聴き取れない。
 もしかしたらぶつかった男性には、桜が何を言っているのか分からなかったのかもしれない。
 桜はもう一度丁寧に頭を下げた。

「申し訳、ございません。ぶつかって、しまって…」

 桜の言葉に、男性は深く眉間に皺を寄せて、慌てて立ち去ってしまった。
 桜は眉を下げ、ふうっと息をつく。

(上手く、言葉になっていなかったのかな…。不可解そうな顔をされていたわ…)

 それは桜と話す人によく見られる表情だった。
 そういう場合、大抵桜が上手く発音できておらず、相手も上手く聴き取れなかったのだろうと思う。
 しかし、くよくよしていても仕方がない。
 男性はとっくに行ってしまったし、これ以上桜にできることは何もない。
 桜は、また急ぎ旅館へと戻った。


 しかしこの出会いが、桜と黒稜の平穏な暮らしを揺るがすことになろうとは、この時の桜は思いもしなかった。

< 47 / 105 >

この作品をシェア

pagetop