病魔に蝕まれた私があやかしの白鬼に花を手向ける
 解雇宣言をされたトモヨは一連の流れで全てを察知し、そして前掛けのエプロンをピンっと直して頭を下げる。

「先ほどの失言大変失礼しました。この屋敷で使用人を務めさせて頂いております、犬佐原(いぬさわら)トモヨと申します」
「あ、あの、細蟹淳です。突然お邪魔して申し訳ないです」

 トモヨと同じくらい頭を下げる淳を見て、その姿にトモヨは目尻のシワが濃くなる程淳に笑顔を向ける。

「まぁまぁ、謙虚なお嬢様だこと。もう坊っちゃん!連絡して下さらないとこちらも混乱しますよ!まして、お嫁様を連れてくるなんて!」
「時間が無いんだ、直ぐに空狐のおばばも来る。準備しろ」

 喜びも束の間、空狐が来ると聞き、ただならぬ雰囲気に慌てて屋敷に戻るトモヨ。閉め忘れた屋敷の扉からは「花嫁様と ──様が!!」と、声が響き渡っていた。

 聞き流すにも聞き流せない、自分の事を花嫁と呼ばれていること。泉澄の優しい表情。結界を張ってくれたとは言え、あんな風に笑顔を向け、頭を下げて出迎えてくれたこと。
 全てのことが初めてで、それだけで一生分の優しさを感じられたかのような幸福感。

「自宅を案内したい所だが、おばばは時間に厳しいんだ。先ずは客間に行こう」
「泉澄様、私は会社に戻りますので何かあればご連絡下さい。万が一淳様の発作がきても、あの方は止められる筈なので」

 泰生が泉澄に声をかけ、停めていた車に乗り込んでこの場を去る。そして流れる様に泉澄に手を繋がれ、その暖かい手を抵抗する感情はいつの間にか自然と消えていた。まるでこの手を繋ぐことが、さも当たり前のような感覚。

 屋敷に入り、淳のアパートだった部屋が全て入る広々とした玄関に、用意された来客用のフカフカのスリッパに足を通す。
 履いたことも無い柔らかい素材に感動しているのを悟られないように長廊下を歩くが、和とモダンを兼ね備えたブラックの色をした床に、ガラス窓から見える砂利の石が敷いてある中庭と奥床しさを纏った空間が行ったことも無い旅館を連想させた。
 スリッパの履き心地に感動している場合では無い。淳の頭の中では、泉澄の立派な自宅の内装に、もしかしたらお金持ち……?という今更な感想が浮かび上がる。

 ある部屋で足が止まり、立派な障子を開けると先ほど見た庭園が一望出来る、灰桜色の琉球畳が敷いてある和室があり、大きな木製のローテーブルと厚みのある座布団が四枚置かれていた。

「全く、時間に厳しいというよりせっかちか?」

 泉澄が独り言を話したかと思えば、誰も座っていなかった座布団から着物を着た白髪の年配の女性が正座をしながら突如姿を表す。

「え?え?」

 突然目の前に現れた女性に淳が驚くが、以前病院で見た年配の女性だと気付き、そしてその摩訶不思議な出現に空狐のあやかしだからかと納得する。

「お主の為に早急に来てやったのにその言い草か。相変わらず可愛げが無い」
「早急か……時間が無いんだな。やはりおばばでも無理か?」

 淳も座れと泉澄に促され、空狐のおばばと対面に正座で座る。

「蠱毒虫は何千年前から続く不治の病だ。薬も異能も効かぬ」
「それは聞いてる。だからおばばを呼んだんだろうが!」

 荒々しくなる泉澄の口調から苛立ってきているのが伝わる。自分なんかの為に必死にならなくても良いと、隣にいる泉澄の腕を淳は無言でソッと触る。

「本物を見つけて焦燥する気持ちは分かるが、治療なんて無いものは無い。お主の花嫁の運命だ。誰も責められん」
「もういい、帰れ」
「小僧め、自我を失うのも時間の問題か」

 緊迫した空気の中、抑えきれない苛立ちに泉澄が立ち上がり、淳を連れて行こうと無理やり腕を掴むが、どうしていいのか分からない淳が思わず声をかける。

「五龍神田様……私、大丈夫です。分からないけど、そんな気がするんです」

 余命宣告を受けた当人が、医学の最先端を知る空狐のおばばの目の前で根拠も無い自信を言うのは、きっと誰もが希望を持つ為に言う言葉でもあるだろう。
 実際、現役の頃の医師のおばばの前で、治る見込みの無い何人もの人々が「自分は大丈夫」と聞いてきた言葉だ。

「自分の運命を受け入れない現実逃避の戯言か」

 慈悲や同情の感情を持たないおばば、患者達の放つ根拠の無い自信を嘲笑っていたが、何故か同じ言葉を放った淳の姿を見てある事に気付く。

「奇妙だな。そんな身体で死相が出ておらん」

「失礼します……お茶をお持ち」
「ばばあは帰る!」

 丁重に畏まったトモヨが開け、障子を開けた途端に泉澄が立腹しながら淳を連れて和室から出ていってしまった。

「ば、ばばあって……!坊っちゃん!?大変失礼しました狐井(こい)様。坊っちゃんが大変ご無礼を……」
「否、稀有な物を見せてもらった。あやつの伴侶が見つかったことに言祝(ことほ)ぐ刹那も無かったが」
「突然でしたからね」

 空狐のおばばの名字、狐井とトモヨは古くからの付き合いであり、立場は違えど雑談は出来る関係性である。

「しかし花嫁様が……夜蜘蛛とは」
「種族は致し方あるまい。余の亡くなった夫も野狐だったのはトモヨも知っているであろう」

 おばばの公にしていない隠された過去を知るトモヨは、その言葉に納得をする。空狐と野狐の結婚は前代未聞の話であり、空狐の親戚一同大反対であった。それでも野狐だろうと「本物」と出会えたおばばは、駆け落ちのように故郷を離れ、この地に辿り着いたのは泉澄も知らない話。



 和室から出てきた泉澄と淳は長い廊下の真ん中で足を止め、繋いでいた手を離して申し訳ない顔で淳に謝罪をする。

「淳、嫌な思いをさせて悪かった。愛するお前をどうにか助けたいんだ」

 泉澄の中でおばばからの助けが最善の策だったのか、おばばからの突き放された言葉に落胆を隠せないでいた。
 自分の為に考えて動いてくれる泉澄の気持ちが堪らなく嬉しくなる淳は、また一つ。泉澄に対しての感情が増えていく。

 恋と呼んでいいものか分からない。私なんかが相手を想い、そして想われるそんな夢のような時間を過ごせるなんて、昨日まで考えもしなかったことだから。

「五龍神田様、私なんかに勿体ないそのお言葉だけで、生きることの喜びを感じております。だから……」


 どうかそんな顔をしないで


 病魔のせいで血行が悪く、その冷たい手で自ら彼の頬に触れる。

 柔らかい頬、羽毛のように柔らかい髪の毛、真っ直ぐで全てを映し出す瞳から見える自分の姿はやはりみすぼらしい。
 それだけで、自分の気持ちに制御をかけてしまう。

 いつ捨てられても良い覚悟、いつ夜蜘蛛だからと罵倒されても耐える覚悟。今の淳には好意の感情よりも、生きてきて経験してしまった苦い感情が優先してしまうのは当然かもしれない。

「とりあえず飯にしよう。好き嫌いはあるか?」

 再び手をしっかりと繋ぎながら、泉澄は淳を連れていくつもある部屋の自宅を歩き出していったが、段々とその足は重くなっていくのを感じていたが、淳は黙っていた。

「……全く。本物と出逢うと何か抜け落ちるのは共通か?」

 一瞬だけ見えた廊下を歩く二人の姿に、おばばは朱色の縦長の瞳孔を閉じて、淳に祈りを込めて息を吹き掛ける。
 発作を起こしかけていた淳の身体におばばの祈りが届き、体内にいる蠱毒虫の動きを止める。

「我を失うと、大事な者も失うぞ」

 おばばはそう言うと、いつの間にか煙の様に消えていった。

 
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