病魔に蝕まれた私があやかしの白鬼に花を手向ける
「要件は聞いたか?」
泉澄が不快な顔をしながらトモヨに聞く。それもその筈、志紅の存在は淳には伝えていなかったからだ。余計な不安をさせたくなかった泉澄だが、淳はとっくに知っていたし、それどころか知らない間に沢山の嫌がらせを受けている。
「いえ、ただ宝生が来たので門を開けろとそれだけで……」
冷静に物事を客観出来るトモヨも何だか先方の険悪な態度に少し嫌な胸騒ぎを感じている。トモヨは狛犬のあやかしであり、邪気を追い払う特性がある為屋敷の訪問客には敏感で、悪い者は追い払う役割をしていた。
今回の宝生の訪問にトモヨが胸騒ぎを感じるということは、あまり宜しくない霊気を感じているのだろう。しかし相手は宝生家ともなると、トモヨが追い返せる立場では無い為、慌てて泉澄に声をかける。
「坊っちゃん、正直あまり良いお話では無さそうですよ」
トモヨが言うなら間違い無いかと腹を括り、仕方なく門の開放を許可する泉澄。
「淳、客が来たのでここで待っていろ。直ぐに終わる」
そう言い放ち席を立った泉澄だが、淳は志紅が来るのを薄々感じていた。そして覚悟を決めて口を開く。
「……宝生様の訪問の目的は私だと思います。私も一緒に行きます」
「……?」
泉澄は何故志紅の存在を知っているのか一瞬疑問に思ったが、深く考えるのを止めてしまうのは本物に溺れている証拠でもあった。
二人は以前空狐のおばばが来た時に入った客間で志紅を待つことに。泉澄は特にいつもと変わらない様子であったが、淳は小さく細い身体で背筋を伸ばし、彼女の登場に身構えていた。
「宝生様が入ります」
トモヨの声がしたと同時に襖の扉を開くと、光沢な黒の素材のスリップドレスに相変わらず谷間を強調し、光輝くネックレスが更に彼女の胸元を強調しているようだった。
前回嗅いだ香水の匂いは同じ、そして綺麗なメイクをした美しい志紅の姿が目の前に現れる。
「お久しぶりですわ、五龍神田様」
着座の許可を貰った志紅が、正座をして対面する。口元の横にある黒子は彼女の妖艶さを一層際ただせた。
「で?何のようだ?」
「……」
香水の匂いが充満した客間に泉澄は冷たい声で話しかける。さっきまで変わらない様子だった泉澄が少し苛ついたように思え、淳は黙って状況を見届けた。
「あら、五龍神田様の婚約者が屋敷に訪問するのに、理由は必要でしょうか?」
志紅がクスッと笑い、その発言に泉澄はフーッとため息を吐く。
「婚約破棄の理由は伝えた筈だ。もうそちらと繋がる縁は無い」
「婚約破棄をする手続きを電話一本で終わらせるなんてご冗談ですわよね?山ほどの書類にサインをして頂かないと、この婚約は継続ですわ」
泉澄が本物と出会えたせいで、手続きを怠ったというより理性を失い、適切な判断を行わなかった結果だった。
「それはこちらの落ち度だな。書類は今あるか?全て今日で終わらせよう」
「……ございませんよ?私が納得しておりませんもの」
「は?」
ピリッと客間に泉澄の霊気が強まり、そして同じく志紅の霊気も高まっていた。
「言っていることに理解し難いな。悪いが婚約は破棄だ。俺は本物を見つけてしまった」
そう言うと泉澄は淳の肩に手を置き、淳は少し緊張のあまりまばたきが多くなるが、志紅の前に姿勢を変えずにジッと耐える。
「えぇ、白鬼が本物を見つけたと、こちらでは大騒ぎですわ。それも夜蜘蛛だと」
「……何か問題か?」
「問題しかございませんよ?」
お互いの霊気が高まり過ぎて、庭園を見渡す大きな窓に突然ビリッとヒビが入った。窓は何かあっても良いように特殊加工をした防弾ガラスの筈なのに。
「あ、あの」
不穏な雰囲気に淳が意を決して口を挟み、その行動に志紅が分かりやすい表情を出す。
五龍神田様と話してる所に夜蜘蛛ごときがでしゃばるな
しかし淳はそんな状況には良くも悪くも慣れているせいか、構わず発言してしまう。
「……私は泉澄様を尊敬し、夜蜘蛛という立場でありますが恋したっております。どうか泉澄様との婚姻をお許し下さい」
「淳……」
その発言に泉澄はさっきまで高まった殺意すら感じる霊気が一瞬で無くなり、柔らかい表情を見せる。
しかし志紅は逆に尚霊気が高まりギリギリと歯を噛み締めるほど、腹立しい屈辱を味わった感覚に陥った。
「そのようなしたたかな態度で五龍神田様を騙していらっしゃるのね。聞いてますわよ、貴方が裏でしていること」
「……?」
意味が分からず淳は首を傾げ泉澄は黙って志紅の話を聞く。
「五龍神田様が用意なさった上等な衣類を質屋に出し、お金は湯水のように使う。更に屋敷の使用人達に対する、本物と呼ばれる貴方の数々の横暴さは宝生の耳にも入ってますわ」
「……一体何の話を」
身に覚えの無い話。意味が分からず言葉に詰まってしまい、そしてそんな話を聞かされた泉澄を思わず見る。してもいない自分の行動だが、その行いに泉澄がまた激怒してしまうのではないかと心配もあった。
しかし予想は違う
「だからどうした?淳がそうしたかった結果のまでだ」
「……泉澄様?」
泉澄の発言にまたしても理解が出来ない。しかしこの反応に想像通りなのか、志紅は片手で口元を隠しながら話を続ける。
「五龍神田の名を汚し、周囲の評判を落とされている事、もう少し自覚された方が宜しいかと」
「要件はそれだけか?淳を罵るのなら、力付くでお前を外に連れ出すぞ」
「まぁ恐ろしい。力を出されたらこちらは一溜りもありませんのでここらで失礼致しますわ」
志紅が席を立ち、そして更に一言付け加える。
「婚約破棄は双方の合意が無いと成立しませんわ。誓約書に書いてありますわよ?もう一度目を通して下さいな」
最後の言葉は泉澄にとって抑えきれない怒りを感じ、泉澄の力で客間の窓全て、音を立てて割れてしまった。
粉々になった窓ガラス。淳はくだけ散った破片を見て、まるで自分の心のように思えた。
してもいない自分の行動。むしろ使用人達の嫌がらせを我慢し、泉澄に告げ口しないよう配慮していた。衣類や部屋に隠しているお金が減るのも、全て使用人達がやらかしている事だったのに。
淳が志紅が言っていたそれらの行動を裏でしていた、泉澄はそんな嘘の情報を操られた使用人達から聞いていたが、疑うことはせずに受け流す。それどころか、そんな行為の理由すら深く考えていなかった。
本物が何をしようとただただ愛しく思う。
淳は疑ってしまった。
泉澄様は……夜蜘蛛の私でも愛してくれる。でもそれは、本物という存在が起こす、作り出した錯覚の愛情なのでは無いか。
見た目、中身なんて正直どうでも良い理由が何となく気付く。
「い、泉澄様……私、裏で衣類を売ったり使用人達を虐げたり……しておりません」
興奮して苛立っている泉澄に向けて、淳は真実を伝える。しかし泉澄の返事は淳の不安にかられる心を更に深くさせた。
「いや、別にそれらをした所で私は構わないぞ。淳がそうしたいのなら好きにしたら良い」
「……」
愛されていると感じ、初めて幸福に満たされた日々を過ごしていた。病魔に冒され、余命が残り少ない日数だとしても、私には勿体無い幸せだと思っていた。今まで世間から邪険に扱われ、嫌われ、こんな私でもようやく受け入れてくれた人だと思っていた。
泉澄様は……ただ本物という奇跡に近い存在に、理性を失い偽の愛に溺れているだけなのかもしれない。
私は……たまたま本物という立場で彼に幻を見せてるだけ……
夜蜘蛛という真実も、細蟹淳という中身も、彼にとってはどうでもいいことなのかもしれない。
本物と出会った時の落とし穴。例え罪人でもお構い無し、下手をしたら愛という名の呪いの鎖。