病魔に蝕まれた私があやかしの白鬼に花を手向ける
第六章
志紅の足は白い草履の為、歩く足音が無く静かに参道を歩いて泉澄に近づく。背筋を伸ばし、顔の真っ直ぐ泉澄を一点見つめながら一歩、また一歩と歩いていく。
「止まれ」
拝殿の前に立っている泉澄が志紅に向けて冷たく、威圧的なトーンで話す。
「宝生志紅、お前との婚約は破棄にさせて頂く。書類に目を通し、双方との合意が無ければ継続の文章も確認した。破棄する為のお前の承諾を貰う」
歩く足を止まれと言われた志紅は、一度は止めた足をお構い無しにまた拝殿に向けて歩き始める。その表情に最初に現れた時から特に変化は見られない。
返事をしないまま志紅は拝殿に続く揺るやかな階段を登りきり、とうとう泉澄が立っている所まで距離を縮めた。
「五龍神田様。私には婚約破棄の意思はございませんわ。幼少期から飛び抜けた美しい五龍神田様の成長をずっと見届けておりました。立派に成人され、誰もが認める頂点の貴方様との婚約を手放すものですか」
「話し合いは無駄か?」
「夜蜘蛛が死ぬまで話し合いを続けても宜しいですわよ?」
志紅が言った瞬間に落雷が彼女を直撃する。空は確かに曇天だが雷雲の気配が無かっただけに、大きな音を立てて落ちた雷の存在はまさに天からの怒りだった。しかしその落雷を受けた彼女は何事も無かったかのように、姿勢の良いまま変わらず立っている。
「本当に素晴らしい異能。ゾクゾクしますわ」
「貴様が淳を貶めるな。次は本当に殺すぞ」
直撃したと思った落雷は志紅の足元から約三十センチ程ズレており、志紅は泉澄の異能の力を見てとうとう顔付きが変わる。
「私の敬慕も受け取って頂けるでしょうか?」
歪んだ笑顔で志紅が帯に挟めていた扇子を振りかざすと、拝殿の隅にに隠れていた体格の良い男性五人が木刀や竹刀を持って姿を表す。彼らの目の色は左右違い、どうやら彼らは操られている様子だった。
「泉澄様……操られているとはいえ、神聖なる神社での血の争いは禁じられております。どうか命は……」
「分かってる、此処での殺生は出来ん」
「五龍神田様の痛みに耐える姿を想像しただけでこの胸が熱くなりますわ。さぁ、低能な人間にいたぶられて下さいませ」
大きな声で操られた人間達が泉澄と泰生を襲う。治癒の異能を持っている泰生とは言えその力を使い、傷を治すのには数分かかる。まして暴行を受けている時は何も出来ない。
「泰生!お前だけでも逃げろ!この女の目的は俺だ」
体格の良い男性数人から木刀や竹刀で何度も殴られながら泉澄が叫ぶ。しかし忠誠を誓っている泰生にはそんなこと出来る筈が無い。
頭や腹部、下半身を庇っていても体格の良い男達が全力で殴られる木刀には意味が無く、泰生は額や鼻から血を垂れ流し、あばら骨が折れる。
「逃げろ!」
「……でも」
「逃げろ!命令だ!!」
泉澄が泰生を狙う人間を無理やり引き離し、五龍神田の者しか分からない抜け道に泰生が後ろ髪を引かれながらその場から逃走する。
泉澄が人間達に異能を使えないのは、下手をすると死んでしまう恐れがあったからだ。泉澄の祖父から継がれているこの神社では命を殺めることなど御法度であり、本殿に祀る五龍神田の御神体の魂が目を醒まし、世界を滅ぼすと五龍神田家にある文書に記されている。
嘘か誠か定かでは無いが、亡くなった父親からも禁則を破るなと口を酸っぱく言われ続けた。以前本殿で祈祷を捧げる時も、五龍神田以外の者を入らせない仕来りを守っていたのには、この禁則が頭にあったからだ。
禁則は宝生家にも伝わっており、志紅がこの禁則を利用して弱い人間達を操っていた。ただ非力な人間達だけで勝機が無いのは目に見えているが、この行為はただの時間稼ぎ。
「五龍神田様。夜蜘蛛の匂いが消滅しかかっておりますわね。持って一日……いえ、数時間の命かしら?」
「……黙れ」
志紅は気付いていた。本物と選ばれた夜蜘蛛の存在の命が消えかかっていることに。
「何もしなくても夜蜘蛛が死に、私達が夫婦になれることは喜ばしいことですが、それじゃあ気が収まりませんの。夜蜘蛛の死に目になんて合わせませんわ」
「……黙れ!!!」
怒りで強く叫んだ瞬間に人間の男達は泉澄を地面に倒し、背中や下半身を押さえてうつ伏せにさせる。
「まぁ五龍神田様。あやかしの頂点の貴方様のその姿はなんて貴重なのでしょう。目に焼き付けたいわ」
何十発も殴られ、あちこちに痣が出来て出血もしている。志紅は泉澄の美しい顔だけは狙うなと命令しており、怪我だらけの身体とは打って変わって顔に傷は一つも無かった。
「いくら五龍神田様でも、ご自身の二倍も体重がある男達に押さえ込まれたら一溜りもありませんわね。このまま夜明けまで過ごして貰いますわ」
「離せ!!」
「夜が明けたら夜蜘蛛は死に、晴れて私達の夫婦が誕生する素晴らしい日ですわね」
「…………」
志紅が勝利を勝ち取った瞬間だった。口元の黒子が口角と一緒になって声高らかに笑う。
その時、志紅の小さな手持ちカバンから携帯が鳴る。
「五龍神田様、お電話失礼しますわ。会社の電話だけは出なきゃなりませんの」
宝生は事業に長けており、この世界で宝生のブランドはトップに君臨していた。志紅も世界に名を知られる社長の座でもあり、財力だけはいくら五龍神田でも足元にも及ばなかった。
「はい、宝生です。……はい……は?い、今なんて?」
志紅は鳴った携帯を持ったまま、話の途中で男達に押さえ込まれている泉澄を見る。
「な、何故?そんなことが可能なの!?」
志紅が泉澄を見ながら取り乱す。
ここから数千キロ離れた海外にある島に、宝生が手掛ける大きな工場が動いていた。その工場は宝生の財力の三分の一を動かす程でもあり、宝生の大切な事業の大事な役割でもあった。
小さな島を埋め尽くすその工場が突然の地割れが発生し、島ごと海に飲み込まれていったと志紅に電話が入る。詳細は全滅。島が消えたとのことだった。
「……次は何処を奈落の底に沈めてやろうか」
「な!?」
泉澄が謎めいた笑いをした瞬間に、またしても宝生の電話が鳴る。
「志紅様!!──のビルが……!突然地割れを起こして飲み込まれました!!他のビルは何も被害が無いのに宝生のビルだけが!!」
「な、な……」
またしても宝生が手掛けるビルが地割れを起こして飲み込まれたと情報が入る。頭が追い付かず、被害総額は何千億と電話越しから聞こえて来るが、それを答える余裕が志紅には無かった。
「終わらないぞ、俺を怒らせた罪は重い」
「も、もうお止め下さいませ……」
白鬼のあやかし
それは生きる伝説であり、白鬼の異能は神の怒りを買うのと同じ
あやかしの立場では昔からどのあやかし達も皆が口を揃えて言っていた筈なのに。自分の強欲で泉澄を──神を怒らせてしまった志紅。
このまま黙っていれば誓約書通り五龍神田の妻になれた筈だった。本物が現れる可能性の考慮の為、婚約はある期間を設けられおり、現れない場合は約束の期日の次の日から夫婦になる誓約だった。
今回本物に巡り合えた泉澄だったが淳が残り少ない余命を告げられており、唯一無二の本物が亡くなれば今後本物が現れる可能性は無い。
しかし志紅は心待ちにしていた妻の座を、自分の愚かな感情で白鬼の逆鱗に触れて金と地位を失ったのだ。
彼を初めて見たのは泉澄の幼少期。美しくも凛々しい、幼子からも溢れでる白鬼の頂点の貫禄。歳の離れた彼に志紅は一瞬で虜になった。彼の横に座り、彼の力と自分の力で世界の頂点になれると思っていた野望。
自分や彼の本物なんか永遠に現れなければ良いと願っていた、なのに現れたのは最低辺の夜蜘蛛が彼の本物。
認めたくなかった。せめて余命を告げられているのなら、あの女の死に目になんて会わせたくなかった。
私だけを見て欲しかった
「次は宝生の屋敷を地獄に落としてやろうか?」
「……ま、参りました」
志紅が静かに降伏した。