天才ピアニストは愛しい彼女を奏でたい
一瞬だが翠は表情を固くして立ち止まった。

それもそうか。
あの男の事が好きなんだもんな、翠は。

「大丈夫。何もしない」

お礼がしたいだけだ。
そう思いながら声をかけると、安心したように俺についてきた。

なんだか複雑だ。

そして部屋に入って、翠が座る椅子がない事に気づく。

唯一あるピアノの椅子に座らせ、俺も演奏するため隣りに座った。

どうしても狭くて肩が触れる。
もうこれは諦めてくれ。

そして、イヤホンから流れていた曲を弾く。

弾きながら買い物中の翠を思い出し、胸が暖かくなった。

弾き終わって翠を見れば目を閉じて涙を流していた。

それは俺の演奏に対してなのか、あの男への不毛の恋からの切なさからなのかはわからない。

この曲はそもそも失恋した人への慰めの曲なだけに何とも言えない気持ちになった。

そんな気持ちを振り払うように超絶技巧の曲を弾く。
あんな男忘れてしまえと。
目を覚ませと。

つい乱暴になる。
酷い演奏を聴かせてしまった。



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